③
「今日はもう帰った方がいいだろう」と明空が言い、海老名はそのまま寺へ戻される。再び山寺での平坦な日々が続いた。しかしめぼしいカモを失った海老名は一切の労働を放棄する。日がな一日部屋で伸びる姿を見て、明空は小言のひとつも口にしない。この日も海老名は部屋に居た。畳の上に大の字で寝転ぶ。天井を睨みつけ苛立った様子だ。天へ唾を吐くような調子で声を出す。
「あの糞坊主。いい加減俺を追い出したらどうなんだ」
海老名は言う。内容から察するに、ここ数日の行動には明確な目的があるらしい。その目的というのも容易に察せられた。彼は横向きに転がり言葉を続ける。
「貯め込んだ金なんかはもうどうだっていい。こんな気色悪い町、端金さえ貰えりゃとっとと出て行ってやる」
「おお、やる気十分だな」
襖の向こうから声が届く。障害物は音をたてて消えた。作務衣姿の明空が立っている。固まる海老名を他所に彼は言葉を続けた。
「丁度よかった。それなら今すぐ出て行ってくれ」と爽やかな口振りで言う。明空は相手の反応を待たず体の向きを変えた。姿は襖の陰へ消える。ややあって、遠くから太い声が届いた。
「町まで送って行こう。車を出すから荷物を纏めておいてくれ」
それから数分後、海老名は軽トラックの助手席で振動に揺られていた。目まぐるしい変化について行けず呆然としている。運転席では彼の様子を意に介さない声が話し続けていた。
「本当にタイミングが良かった。明日から一週間、本堂に籠もって祈祷をする修行があるんだ。その間は世話なんかも出来なくなるからどうしようかと思っていたんだが、まさかそっちから申し出てくれるとはな。いや本当に有り難い」
明空はここまでを一息に言う。軽快な口調だ。真実肩の荷が降りたという様子だった。車は恒例になった橋のたもとで停まる。明空はいつかのように懐から財布を取り出した。中身を開き入っているだけの紙幣を抜く。それら全てを海老名に差し出した。
「少ないかもしれんが、これで当面の間は凌いでくれ。じゃあ元気で」
彼は爽やかな笑顔で締めくくる。海老名が助手席を降り扉を閉めるや車は動きだした。たもとから川沿いに逸れる小道でUターンをする。海老名は小道の入り口に立ち、遠ざかる車体を目で追った。軽トラックはオレンジ色の欄干から緩やかな坂を上り、密度を増す緑の中へ隠れる。姿が完全に見えなくなると海老名は橋へ背を向けた。川風を避けるよう体を丸める。体の中心では複数枚ある紙幣を数えていた。一万円札が数えで十枚。縮こまる肩が小刻みに震えだした。
「やった。やった。計画通りだ」
海老名は言う。声は抑え切れない興奮に上擦った。
「タイミングが良いのはこっちの台詞だ。不気味な奴だと思っていたがただの間抜けだったな。あんなふうに言われて大枚を寄越すなんざ…」
彼は言葉を切る。よほど別れが嬉しいのだろう。ついには高笑いまでしだした。同時に紙幣を扇状に広げ、上向く顔を扇いでみせる。突然摘んでいた紙の感触が消える。海老名は驚き、空を仰いでいた顔を戻した。
「チッ、しけてるね。たったこれっぽっちかい」
皺くちゃの顔をした老婆が言う。よくよく見ればスナック華のママである小百合だった。派手なドレスと化粧が無ければそこらを歩く老女にしか見えない。海老名は理解が追いつかないまま目の前の姿を眺める。しかし枯れ枝のような指に挟まれる札束を見るや、態度を豹変させた。
「ふざけんじゃねぇ糞ババア。返しやがれ」と怒声を発する。声は橋の下にまで響き渡った。
「嫌だね。これはあたしの金だよ」
こともあろうに小百合はそうのたまう。遮る髪の無い海老名の額に太い血管が浮かんだ。「このっ」という声と共に手が出かかる。小柄な体はぴくりとも動かなかった。
遅れて海老名の動作までもが止まる。その顔は見る間に青褪めた。視線は低い位置にある頭の向こうに縫い留められている。近づいて来る白黒柄の車があった。小型のパトカーはゆっくりと、しかし確実にこちらとの距離を詰める。海老名は冷や汗を掻く余裕すら失った。「終わった」という言葉が頭を占める。立ち去ろうとするのは一番の悪手だ。石のように動かず、彼は車が目の前に停まるのを待った。やがてパトカーは停車する。助手席側の窓が下がり、制帽を被った警官が顔を出した。
「こんにちは。何か言い争っているように見えましたけど、大丈夫ですか?」
警官が言う。朗らかな声だ。しかし、親しげな口振りが警戒している時にこそ出るものだと海老名は知っていた。どう答えるべきか。海老名は自問する。回転する脳内は虚しく空振り満足のいく回答が出て来ない。無理にでも何か言おうと口を開けた時、最も恐れていた声が下から届いた。
「ありがとうございます。助かりました」と小百合が言う。制帽の鍔から覗く目が色を変えた。音をたてて扉が開きかける。嗄れた声がそれを止めた。
「そんな、わざわざ降りんでも大丈夫ですわ。これは旦那方の歳の離れた甥っ子なんです。いい歳をして小遣いをくれと甘えるんですから。私ら夫婦に子供がないばっかりに、遊びに来るたび甘やかしてしまいまして…お恥ずかしい。今もほら、ついつい当面の分と渡しかけていましてね。お巡りさんに止めてもらって本当に助かったわあ」
ひらひらとかざされる札束に警官は目を見張る。彼は職業人らしい素早さで動揺を収め、代わりに安堵と呆れの入り混じる笑みを浮かべた。「お婆ちゃん。飛んでいったら危ないですから、早くしまってくださいね」と優しく小百合へ声をかける。それから海老名へ視線を移した。こちらは呆れの色が濃い。
「いい大人なんですから。あまりご親戚を困らせちゃいかんよ」
警官は苦笑して言う。最後に小百合へ会釈をし、車の扉を閉め直した。パトカーはまたゆっくりと走り去る。
「この地域の交番は仕事熱心でね。ああしてしょっちゅう見廻りをしてくれているんだよ。私らか弱い老人も安心ってわけだ」
真下からの声にそちらを向けば、してやったり顔の小百合と目が合う。懲りずに激昂しかける海老名に向け「いいのかい?」と言葉が続いた。
「今ここで叫んでやったっていいんだ。さっきの話は全部嘘だ。本当は見ず知らずのあんたに脅されていたと言ってね。パトカーがすっ飛んで来るだろうよ」
「ババァ」と海老名は歯を剥き出しにして唸る。老婆はより強い眼光で睨み返した。
「何度言われりゃ覚えるんだい。あたしの事は小百合さんと呼びな」ドスの効いた声が言う。小百合は会話を切り上げ背を向けた。数歩進んだ所で振り返り、「何してんだい」と声を出す。「和尚からあんたの事を頼まれてるんだ。さっさと着いて来な」小百合はこのように続ける。以降振り返る事はなかった。逃走資金を人質に取られ、海老名はやむなく後へ続く。石畳沿いの店に着き中へと入った。
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