②
海老名は初め、それを極彩色の巨大な絵だと思った。これ以上なく悪趣味な絵だ。女が一人、壁へ磔にされている。白いシャツ一枚の他は何も身に着けていなかった。そのシャツもボタンが千切れ、所々大きく裂けている。鋭利な刃物で切り裂かれたのだろう。布には赤い血が滲んでいた。服の上からでもわかる凹凸のない体は赤い縄によって縛られている。両腕を掲げた姿勢で手首が括られ、壁へ打ち込んだ杭がそれを留める。縄は二股に別れ肩へと回った。そこから胸の上下を縛め、腹部を這って股へ食い込む。足の付根からは別の縄が使われているようだ。剥き出しの腿へ痛々しく食い込みながら、足首までを一纏めにしている。縄の間隔は病的な程狭く、鬱血した皮膚の色は格子窓から覗く眺めのように見えた。ここまで来て、彼は直視したくない部分を見ざるおえなくなる。女は喉を裂かれ絶命していた。顎を上向け仰け反った喉。その晒された部分には赤い血肉がこびりついている。ばっくりと裂けた傷口は未だ血が湧き続けているのだろうか。筋肉や脂肪の断面、内部の構造などを窺い見る事は出来ない。何より海老名自身が限界だった。彼は顔の下半分を手で覆いその場へ蹲る。暗がりでも見て取れる程、顔色は死人同然だ。丸まった背中が不規則に跳ねる。上から二本の腕が伸びた。それらは脇の下から鳩尾へ回り、片方の手がもう片方の手首を固く掴む。海老名は息がかかる程の耳もとで「声とゲロは出すなよ」と囁かれた。かと思えば強い力で真上に引き上げられる。脇から鳩尾を締めつけられたまま、彼の体はずるずると後退していった。胃の中のものを全て出しても吐き足りない。運ばれた水路から身を乗り出し、海老名は長い時間嘔吐き続けた。粘り気のなくなった液が口端からだらだらと垂れる。
明空は石壁に垂れ下がる背中へ声をかけた。
「どうだった。見たいものは見れたか」
「…どう、だっで…」
喉が爛れているのだろう。ゾンビのような声が這い上がってくる。一拍を開くと、先程にも増して激しく嘔吐く声が続いた。明空は「ふむ」と頷きその場から立ち去る。やがて嘔吐く声すら出なくなり、本物の死体にしか見えなくなった頃、流水へ半ば浸る頭が鷲掴まれた。海老名の体は片手で引き上げられる。石壁を背に手足を投げ出す彼へペットボトルが差し出された。キャップは開いており、満タンの水が今にも溢れそうになる。海老名は両手でそれを奪い取り、自身の口へ突っ込んだ。喉を鳴らしあっという間に中身を飲み干す。ようやく人心地がついたらしく、彼は掠れた息を吐いた。
「酷い目にあった」
海老名は率直な感想を述べる。いくらか気力の戻った目が明空を睨み上げた。「お前、あんな事が起きてるって知っていやがったのか」と言葉を続ける。疑問ではなく断定する口振りだった。かと思えば、表情が恐怖の色に変わる。
「まさか、お前がやったのか?」と震える声が言った。
「それこそまさかだ。俺にあんな趣味はない」
明空は答える。日頃となんら変わりない口振りだった。海老名はますます信用ならないと言いたげな態度でいる。手負いの獣のような有り様を見下ろし明空はため息を吐いた。彼は「わかったわかった」と言い、肩の高さで両手を上げる。
「ここまで苛めるのは流石に可哀想だ。結論から言おう。あの死体は死んでいない」
「は?死んでないってそんな、嘘だろ」
「じゃあ聞くが、傷口をじっくり見たか?脈だって取っていないだろう。あれはおままごとみたいなものだ」
「おままごと」
「ああそうだ。血に見えたのは溶けた蝋だよ。服を切り裂いた部分には本物がついているだろうが、せいぜいそれくらいだ」
ここまでを聞き、海老名は凄惨な現場を思い出す。室内の明かりは床に置かれたキャンプ用のランプ一つだった。オレンジ色の光は首をギリギリ照らす所までしか届いていない。明暗の境目で開く傷口はどうだったろうか。気分が悪く、直視したのは短い間だ。それでもただ赤いだけという印象には違和感を覚える。
「だとしたら、何であんな事をしてたんだ。しかも一人で」
「ままごとだって言っただろう。死体の真似がしたかったんじゃないか」
明空は言う。あれ程の場面を見ようと、衝撃がなければ興味もないという様子だ。彼は言葉を続ける。「それに女は一人じゃない」と言うのだ。
海老名は「は?」と声を出す。こればかりは思い返しても納得出来なかった。部屋には家具も何も置かれていない。四隅まで光が届かないとしても、生身の人間が潜んでいればわかるはずだ。海老名は全く腑に落ちない態度をとる。明空は少し驚いた顔で「本当に気づかなかったのか?」と言う。続く言葉に海老名は戦慄した。
「もう一人の女が扉の真横に立っていただろう。横目で俺達を見ていた」
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