第4部①
それからの日々は、今までより一段と心躍るものになりました。
毎週水曜日はお店がお休みです。私は仕事へ向かう主人を外まで見送り、家の中へと戻りました。玄関の鍵を閉め、そのまま左手にある脱衣所へ向かいます。服を全て脱ぎ浴室に入りました。浴室の中は午前の真っ白な明るさに満ちています。給湯器をつけ、手早く顔と体にだけシャワーを浴びました。泡を全て流し終え浴室を出ます。体を拭いて洗面台の前に立ち、棚の上にある化粧水を顔へ塗りました。それからドライヤーを取り出し髪を乾かします。長さはありませんが、艶もなく量ばかりが多い髪の毛は乾かし切るのに時間がかかります。ようやく手に湿り気を感じなくなる頃には顔の皮膚も乾いてしまっていました。化粧水をもう一度、今度は少なめに手に取り、顔全体へ薄く塗ります。そして一度廊下に出ました。廊下の壁に備え付けられたクローゼットを開け、奥から化粧ポーチを取り出します。それを胸に抱え、洗面台の前へ戻りました。鏡の前へポーチの中身を並べます。ほとんど中身の減っていないそれらを左から順に使い始めました。肌色の水性絵の具に似た下地を数滴指の腹に垂らし、顔へ塗り拡げます。次に回し開けた蓋の先に明るい肌色をたっぷり含むコンシーラーを、濃い隈を隠したくて何度も塗り重ねました。それから真四角のコンパクトを開け、パフで肌色の粉を顔全体にはたきます。顔色がいくらか良くなった事を確認し、次の工程に取り掛かりました。まず、短くて下向きの睫毛をビューラーで無理矢理引っ張り上げます。滲む涙を乾かす為に瞬きをし、アイシャドウを手に取りました。色味はとても地味で、くすんだ白とベージュ、濃い茶色しかありません。上瞼全体に薄く白を広げ、それより狭くベージュを重ねました。最後の色は使いません。私は目ばかりが不格好に大きいのがコンプレックスでした。そこを縁取りなんてしたら、猿か何かの妖怪じみて見えるに違いないからです。
仕上げにマスカラとピンクベージュの口紅を塗り化粧が終わりました。脱衣所を出て、今度は奥の部屋へ向かいます。窓以外の壁二面はクローゼットになっています。私その内のひとつを開きました。コートやカーディガン、丈の長いワンピースなど、暗く変わり映えのしない色が並びます。数えて五着。私の持っているよそ行きはこれで全部です。その中からワンピースを取り出し下着と一緒に身に着けました。浴室まで戻り、唯一全身が映る鏡で身嗜みを確かめます。黒に近い紺色のワンピースを着た陰気な女が立っていました。四月という季節にはとても相応しくありません。それでも手頃な服はこれだけなので、諦める他ありませんでした。私は黒い手提げ鞄に持ち物が入っているかを確認します。唯一春らしい茶色のパンプスを履き、外へ出ました。
細い道を抜けると視界が開けます。春の装いに着替えたこの町は、見る度に恋へ落ちるようでした。まだ田植えをされていない水田が、淡い色の空と、そこへ溶けかかる泡のような雲を写しています。何より素敵なのは正面でした。これもお城があった名残りなのでしょう。家々の奥に立つ横這いの小高い丘。浅緑色の斜面へ点々と満開の桜が描かれています。それは本当に、一枚のキャンバスが飾られているようでした。私はいつまでも見惚れていたい気持ちで立ち尽くします。しかし約束を思い出し、巨大な絵の立つ方へ歩き出しました。水田に挟まれた道を行くのは、きらきら輝く水面の上を歩くような気分です。線路を渡り、石畳の通りを過ぎて商店街へ入りました。到着した古書店はシャッターが下り、「本日はお休みです」という紙が貼られています。にも関わらず私は手を握り、シャッターを三度叩きました。当然のように何の反応も返ってきません。それでも立ち続けていると、お店の脇からひょっこりと人の姿が現れました。
「待たせちゃってごめんなさい」と陽子さんは言います。彼女の装いは白一色にまとめられていました。白地に小花模様を散らしたワンピースとレース編みのカーディガン。足元はオフホワイトのスニーカーです。お化粧もいつもと少し感じが違って、つやつやとした頬に桜色がほんのり咲いていました。綺麗だな。思ったままの言葉がどうしてか出て来ず、私は口の中でもごもごと挨拶だけをしました。愛想の悪い私の態度にも、陽子さんは笑顔で返してくれます。
「今日はとても楽しみにしていたの。さぁ行きましょう」
こう言うや手を引かれました。高鳴っていた私の心臓は今にもさ止まりそうになります。
私達は向かいの喫茶店に入りました。念願だった格子窓の向こうは夕暮れのように薄暗く、だからこそ、色とりどりに吊り下がるステンドグラスのランプが月のように星のように輝いて見えます。先を行く陽子さんは青いランプの下を選びました。向かい合う一人掛けのソファーへそれぞれ座ります。陽子さんはモーニングのセットを、私はホットのカフェラテを頼みました。待つ間、落ち着き無くお店の中を見回す私を眺め、陽子さんはおかしそうに笑います。
「そんなに気に入ったの?」と彼女は尋ねます。私は「ずっと来てみたかったんだもの」と答えました。陽子さんは「あら」と首を傾げ、何でもない事のように言います。
「そうなの?なら旦那さんと来ればよかったのに」
私は声を詰まらせます。先程とは違い、返すべき言葉が見つからなかったためでした。何かが胸につっかえたように息苦しくなります。私は浅く息を吸い、ぎこちない笑みを作りました。「中々休みが合わなくて」と返す声が微かに震えます。陽子さんは異変に気づかず、「そう」と応えました。注文したものが運ばれて来ます。私は有り難い気持ちで差し出されるカップを受け取りました。陽子さんも関心が移ったようで、目の前に置かれたサンドイッチに嬉しそうな声を出します。
「わぁ、美味しそう」
彼女はそう言いながら両手でサンドイッチをつまみ、端から齧り付きました。こぼれる白い歯に顔が熱くなり、私は慌てて目を逸らします。両手に収まるカップの内側では、薄茶色の液体が大きく揺らいでいました。
「お店が向かいだから休憩でよく来るの。サンドイッチもそうだけど、カレーも美味しいのよ。よかったら今度食べてみてね」
視線を戻すと無邪気な笑顔があります。私が頷くと、陽子さんはますます嬉しそうに笑いました。陽子さんが食後のコーヒーを飲み終えた頃、私達は揃って喫茶店を出ます。彼女は私に「ちょっと歩くけど大丈夫?」と尋ねました。履いているパンプスは踵のほとんどないものですから、私は「大丈夫よ」と答えます。陽子さんは安心した様子で頷き、先を歩き出しました。
入って来た方向とは逆側から商店街を出ます。T字路を左に曲がり進むと、向かい合って建つ町役場と市民病院が見えました。陽子さんはその横を通り過ぎ、町の中心からどんどん外れた方向へ進みます。少し不安に思いながら着いていくと、今度は橋が現れます。そこも渡るものと思いましたが、陽子さんはたもとの手前でくるりと曲がります。ワンピースの裾を翻し、彼女は川沿いの小道へ入っていきました。
川は広く、流れも穏やかでした。対岸には木々が繁り、色々な鳥の声が届きます。手前には河原が整備され、刈り揃えられた芝生の上にブランコやシーソーなどが並んでいました。更に進むと河原が広くなります。まるでちょっとした庭園のようでした。緩やかな広がりを見せる芝生の間には、川の水を引いた石造りの水路が流れています。水は重なる段を落ち、ゆるゆると蛇行しながらやがて本流へと戻っていきます。水路の途中には離れ小島まで作られていました。そちらへ渡れるよう木製の橋が架かっています。橋は変わった造りで、二段に曲がった先へ踊り場のような空間がありました。
「降りましょうか」と陽子さんが言います。私達は石の階段を下り、芝生の上へ足をつけました。「こっちよ」という言葉と共にまた手を取られます。陽子さんは私の手を引き橋のたもとまで来ました。明るい色の木で出来た橋板を並んで渡り始めます。二箇所の曲がり角を越え、踊り場まで来ました。水路を渡る風が体を包み、後ろへと流れて行きます。視界の左右を高い土手と対岸の木々に挟まれ、まるで箱庭の中へ居るように感じました。ずいぶん遠くなったオレンジ色の橋の向こうには、空と溶け合うような色の山々が並んでいます。一際強い風が吹き、私は思わず目を閉じました。一瞬の間、唇を覚えのある感触が掠めます。驚いて目を開ければ、こちらを覗き込む悪戯めいた笑みが映ります。
「よそ見ばっかりしているからよ」
陽子さんは顔を離しながら言いました。彼女はそれから「あなたって本当にものを見るのが好きなのね」と続けます。
上気した頬を、冷たく柔らかな風が撫でて行きました。陽子さんと私は予定を合わせ、ささやかな交流を重ねます。中でも待ち遠しかったのは月に二度の逢瀬でした。主人が地域の寄り合いで朝まで帰らない夜、私は決まって一人家を出ます。その日は地域の女性達も夜遊びをする日だそうで、堂々と歩いていても怪しまれる事がありません。甲高い声で賑わう商店街を素通りし、斜向かいの建物へ飛び込みます。初めは恐ろしかった暗闇にも慣れ、真っ直ぐ奥の階段へ辿り着きました。足を踏み外さないよう気をつけて上り、屋上へと出ます。心地よい春の夜風が火照った体を冷ましてくれます。廃墟の遊園地は地上からの明かりによっておぼろげに浮かんでいました。物悲しくもどこか幻想的な眺めにため息が出ます。それから遊園地に背を向け、奥に建つ御殿へ近づきます。大きな扉を躊躇いなく開き、中へ滑り込みました。扉を閉めれば完全な暗闇ですが、少しも怖くはありません。私は何にも頼らず廊下を進みました。記憶にある歩数を数え左へ曲がります。そこからは壁へ手をつき、ドアノブの位置を探りました。程なく目当ての手触りを探し当て、それを捻りました。扉が開きます。温かみのあるオレンジ色が、部屋をぼんやりと照らしています。光の元であるランプは床に置かれています。その隣には、影絵のような女性が佇んでいました。陽子さんの装いは黒一色でした。無地のシャツに足首まであるタイトスカート。下はお店で着ている物と似ています。しかし彼女が一歩を踏み出すと、目に痛いほど白い太腿が剥き出しになりました。深いスリットの入ったスカートを捌き、彼女は私の目の前に来ます。こちらを見下ろす顔は陶器の人形のようでした。血色のない肌は恐ろしく艶やかです。唯一色を塗られた唇は、あるかなしかの微笑みを花弁のような赤色に含んでいました。目は宝石を嵌め込んだように冷たく無機質な輝きを放っています。
「どうしたの?」
表情の変わらないまま赤い唇が動きました。「早く動きなさい」と言葉が続きます。
私は「はい」と答え部屋の中へ入ります。扉を閉める陽子さんを目で追いながら、手探りで服を脱ぎ始めました。こちらへ向き直った陽子さんは裸になった私を見ても無関心でした。彼女は無言で私の横を通り過ぎます。背後で物音がする間も、私は腕を身体の横に添えて動かずにいました。寒さのためでなく肌が粟立ち、呼吸が犬のように早くなります。緊張が最高潮に高まった瞬間、赤い線が視界を過りました。それが縄だと気づいた時には視界から消え、喉を強い息苦しさが襲います。私は体を動かしません。しかし喉から上だけは本能で酸素を求め、上へ上へと伸び上がりました。私は顎を上げ、喉をめいっぱい反らします。天井を仰ぐ視界は光る鋼色を映します。切っ先の鋭いナイフが晒された喉を目掛け振り下ろされました。
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