彼には建物の崩落にも増して気がかりがあった。明空の姿が見当たらないのだ。黒一色の服装が闇に紛れているとは考えられない。その証拠に、携帯電話のライトで隅々を照らし出そうと浮かび上がる姿はなかった。死角も存在しない事から考えて、導き出せる答えはひとつだ。海老名は左手奥を照らす。壁沿いに伸びる階段が浮かび上がった。警戒しつつそちらへ近づく。到着し、一段目から上を覗いた。天井をくり抜く形で穴が空いている。その奥まではライトの光も届かない。

「隠れんぼじゃねぇんだぞ」と小さな声で吐き捨て、海老名は一段目に足をかけた。

先程よりも慎重さを増す足取りで階段を上る。段数の中間まで来た。伴って増える情報がある。顔面へ感じる風の存在だ。このまま外へ繋がっているらしい。海老名はそこから姿勢を低くする。いつ襲撃されても良いよう身構え、這いずる動きで残りの段を上った。そろそろと顔を出せば風がまともに浴びせかかる。海老名は反射的に目を閉じた。一拍を置き薄目を開ける。不気味な光景だ。海老名は一目見てそう感じる。視界に広がるのは、暗い屋上に打ち捨てられる夥しい遊具だった。バネが生えた動物の乗り物。敷地を囲うレールの途中で停まる汽車。西洋の城を模した滑り台。それらは地上からの光によってぼんやりと浮かび上がっている。この世から切り離された場所へ来てしまった。馬鹿げた空想ですらまるで真実のように思える。海老名は最早、催しなどどうでも良かった。元々乗り気でなどなかったのだと自分を納得させ、直ぐ様階段を下りようとする。

 その足元から顔が現れた。闇の中へ生首が浮くような光景に海老名は口を開ける。喉奥から絶叫が迸る寸前、生首の横から伸びる手が彼の口を塞いだ。勢いに押され、海老名は仰向けに倒れる。声はあがらなかった。同時に呼吸も出来ない。口と鼻両方を塞がれ、彼は目を白黒させる。

「落ち着け。声は出すな」

 真上から押し殺した声がかかる。海老名は無我夢中で頷いた。呼吸を封じていたものが剥がれる。彼はようやく合った焦点で真上を見た。人型の影が自身へ覆い被さっている。暗さに慣れた目は、その顔と格好に覚えがあった。現状を正しく理解すると同時に、先程までとは異なる不快感が込み上げる。

「どけ、気色悪い」

 海老名は言う。事実、吐き気を催しかねない声と顔色だった。影が上から退くや、海老名は押し倒されていた体を起こした。立ち上がり目の前の人物を睨みつける。

「気色が悪ければ趣味まで悪い。隠れておどかしやがって。この糞野郎が」

 明空は無言で悪態を受ける。弁解するつもりすらないらしく、顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。こいつに人の心はあるのか?海老名は本気で疑いたくなった。海老名は舌打ちをし、その横をすり抜けようとする。しかし肩を掴まれ叶わなくなった。「良い加減にしろよ」と唸るような声を出す。同時に肩を掴む手を叩き落とした。

「いいのか?」と明空が言う。言葉は短く不可解だ。海老名は「どういう意味だ」と問い返す。明空はすぐに答えず他所を向いた。彼が見るのは屋上の奥に建つ御殿だ。さながら城の天守閣のような外観は、雨風に曝されつつも悪趣味な姿を保っている。

「あそこに知りたがっていた答えがあるぞ」

 そう言い残し、明空は歩き出す。向かう先は今示した場所だ。海老名は遠ざかって行く後ろ姿を眺める。沈黙の後、彼は何度目かもわからない舌打ちをした。早足に行慧の後を追う。玄関扉は巨大な観音開きだ。封鎖されているものと思ったが、よく見れば細く隙間が空いている。明空は人ひとりが通れる分の扉を引いた。中は酷く暗い。扉の隙間から漏れる明るさで、ぼんやり足元が見える程度だ。前触れ無く腕を掴まれる。海老名は悲鳴を押し殺し前を見た。微かに浮かび上がる姿は、壁にもう片方の手をついている。先導を買って出るつもりらしい。男二人が仲良くお手々を繋いでなど、気色悪い事この上ない。しかし勝手のわからない状況では他にどうしようもなく、海老名は大人しく身を任せる事にした。細い通路を進む。靴裏に伝わる踏み心地から、海老名は古びて埃の積もる板張りの床を想像した。先を行く行慧は壁へ突き当たったらしい。そのまま直角に左折する。同じく曲がった海老名は目の錯覚を覚える。曲がった先に光が見えたのだ。光はランプのようなオレンジ色をしている。見た所窓は無く、壁の崩れた箇所も存在しない。通路の途中に忽然と裂け目が現れ、そこから光が漏れている。こんな廃屋には有り得ない現象だ。不可解に思うも、暗闇へ置かれた人間が光を求める本能には抗えない。海老名は明空の手を振り解き先へ進んだ。残った理性で慎重さは失わず、音を忍んで裂け目の前に立つ。線を引いたような正体はドアの隙間だった。たまたま閉め忘れたかのように細い、小指も通らない程の空白。海老名は吸い寄せられるよう片目を押し当てる。彼はそこで、この世のものではない光景を見た。


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