⑮
「何で坊主がヤクザより怖いんだよ!」
カウンターへ拳が叩きつけられる。海老名はその場へ突っ伏して泣き喚いた。もう片方の手にはグラスを持っている。中身はロックでなく水割りだ。しかし飲み始めた時間が早かったため、既に管を巻く酔っ払いが出来上がっている。
「悪い事はするもんじゃないってこった」と小百合が言う。彼女はスツールに腰掛けたまま脚を組み替える。小枝のような指に挟む煙草を吸い、大量の煙を吐き出した。海老名は顔を僅かに上げる。それから首を捻り、恨みがましい視線を背後に向けた。明空はボックス席に居た。L字のソファーには座らず、テーブルの前へ立っている。片手にはマイクを握っていた。ソファーは中年から高齢までの女達で満員になっている。その誰しもがぎゅうぎゅうに詰め合っている事を気にも留めていない。明空を見上げる顔は揃って夢見る乙女の表情だ。明空は乙女達をうっとりさせる微笑みを浮かべ歌を歌う。古い洋楽だ。無駄に良い声だった。
「坊主が洋楽なんぞ歌うなよ。経でも唱えてろ」
海老名は言う。真っ当な意見のようでただの言いがかりだ。小百合が宥めるよう声を掛ける。
「そう言ってやらないどくれ。あれはレディースデイのサービスでもあるんだ」
「レディースデイ?何でそんなもんがあるんだ」
「今日は月に二度行われる男衆の寄り合いなんだよ。そのまま決まった店での宴会になるから、奥さん連中は夜遊びをして良い事になってる。娯楽の少ない町だからね。羽を伸ばす機会が必要なのさ。外から来た人間は知らんが、あたし達は昔っからそう決めて楽しんでる」
海老名は「へぇ」と興味薄い声を出した。丁度曲が終わる。黄色い声と拍手が湧き起こった。海老名は両耳を塞ぎ顔を顰める。少しして横から振動が伝わった。海老名は横目を使う。明空が隣へ腰掛ける所だった。
「お疲れさん」小百合が声を掛ける。彼女は緑茶の入ったグラスを明空へ差し出し、「サービスへのサービスだよ」と付け加えた。
「ありがとうございます」
明空は照れ臭そうに言う。受け取ったグラスへすぐに口をつけた。数口飲んだ所でグラスを離し、小百合へと尋ねる。
「海老名君と何を話していたんですか?」
「大した事じゃない。あんたがモテて悔しいと管を巻いてたんだよ」
「ババア!そんな事言ってねぇだろう」
海老名は声を荒らげる。途端、それまで賑わっていた店内が静まり返った。振り向いた海老名はぎょっとする。ボックス席のソファーに座る全員が鬼の形相でこちらを見ていた。最年長らしい老婆が口を開く。
「ちょっとあんた、葦谷様になんて口をきくんだ」
「あ、葦谷様?」海老名は狼狽した声を出す。
老婆は深く頷いた。剣呑とした態度を崩さないまま言葉を返す。
「そちらにいらっしゃるお方だぞ。葦谷小百合様だ。この町にあった炭鉱の一人娘様だ。私らの時代はみんな炭鉱に世話んなって育った。娘たちはみんな葦谷様に憧れとった。それをババア呼ばわりするなんぞして、町からおん出されてぇか」
老婆は啖呵を切る。目は完全に皺の中へ埋まり、干し柿のような様相をしている。にも関わらず、言葉へ込められる力に海老名はたじたじとなった。
「よしとくれよミヨさん。あたしが小っ恥ずかしいわ」
小百合が会話に割って入った。途端に老婆は態度を変える。頬に手を当て、「葦谷様に名前で呼ばれちまったよ」と干し柿のような顔を色づかせた。
「今のうちに出な」とひそめた声が言う。海老名が顔の向きを戻せば、小百合が扉を顎で示していた。海老名が反応を返すより早く隣の人物が動く。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
明空は口早に言う。それから海老名の襟首を掴み、スツールから引きずり下ろした。例の怪力により、海老名は声をあげる間もなく店から連れ出される。
「いいタイミングで出られた。小百合さんに感謝だな」
明空は言う。裾を捌く足取りは軽く、上機嫌に道を進んだ。右手は変わらずシャツの襟を掴んでいる。引きずられる海老名は絞め殺される鶏のような声を出した。
「離せ、死ぬ、死ぬ…!」
「安心しろ。そう簡単には死なん」と朗らかな声が答える。海老名が白目を剥きかける頃になってようやく手が離れた。解放された海老名は這いつくばって咳き込む。街灯の光を背に立つ明空は、「君は軽いなぁ。持ち運びが楽だ」と場違いな感想を述べた。それから進行方向へ向き直る。彼は行く先を指さした。
「見せ場はもうすぐだ。早くしないと間に合わなくなるぞ」
「見せ場?何だそりゃあ」
海老名は立ち上がりつつ尋ねた。街灯に照らされる顔は薄気味悪そうに歪む。彼は明空の示す先を見た。今は丁度、二週間前女とぶつかった曲がり角に居る。真っ直ぐ伸びる指はあの日女が走って来た方向をさしていた。
明空は再び歩き出す。海老名はつられてその後を追った。時刻は夜の九時に差し掛かろうとしている。金曜という事もあって、田舎なりに人出が多いように見えた。すれ違う顔はどれも楽しげだ。小百合が話していた「羽根を伸ばす日」だからだろうか。なら明空の言う「見せ場」というのも、それに伴う催しに違いないと思い至る。
どうせ大したものではない。海老名は早くも白けた気分を抱いた。商店街の前に着く。小暗い通りの両側からぽつぽつと明かりが洩れている。どこからか、楽しげな女達の笑い声とクラシック音楽が漂っていた。眺める海老名をよそに、明空はその前を素通りする。前を行く姿は道路を渡り、とある建物の前で立ち止まった。海老名もそれを見上げる。頂点へ角のような突起を持つ、怪物じみた輪郭が浮かび上がっている。目を凝らせばそれが廃デパートである事がわかった。当然だが明かりのひとつも灯ってはいない。にも関わらず、明空はすたすたと入り口へ近づいて行く。立入禁止の看板が下がるポールを跨ぎ、人型の影じみた後ろ姿は闇の中へ溶けた。海老名は驚いてたたらを踏む。周囲をはばかって声を出す事はしなかった。数秒の間考えた後足を踏み出す。ポールを跨ぐ頃には躊躇いも失せ、堂々とガラスの割れ落ちた入り口を潜った。微かに射す街灯の光を頼りに辺りを見渡す。元はあったのだろう仕切りや棚は痕跡のみを残し取り払われている。三方を囲う壁と天井、そして数本の柱だけの、だだっ広い空間があった。海老名はふと、タクシー運転手の言っていた情報を思い出す。いつ崩れるかわからないというものだ。しかし壁や柱に目立つヒビや欠けなどは見つからない。「慎重になるに越したことはないか」と海老名は呟き、足取りをゆっくりとしたものにする。
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