軽トラックは山麓へ下りる。海老名は前と同じ場所で車を停めるよう頼み、明空がそれに応じた。彼は再び橋のたもとに立つ。オレンジ色をした橋の欄干へ手をかけ、町の風景を眺めた。やや小高い位置にあるここからは、手前に役場と市民病院が見下ろせる。奥へ行くにつれて田園が広がり、その中に保育園らしい建物や民家の集合している場所などがあった。海老名は位置と方角を確認し動きだす。商店街へ通じる曲がり角の一つ前で右折し、二車線の道路沿いを直進した。役場と病院の間を過ぎ、田園の中を進む。保育園前を過ぎた辺りで足取りが慎重になった。服装こそ白一色だが、顔つきは獲物を狙う獣のようだ。小さな黒目は絶えず左右に動いている。老人の乗る自転車が彼を追い越した。家の庭先では中年女が庭の花壇へ水やりをしている。平和な平日朝の眺めだ。そんな中、ただ一人だけが物騒な雰囲気を醸している。その内に海老名は周辺をうろつきだした。道路沿いから細いアスファルトの道に入る。錆びた廃線を越え石畳の通りへ出た。それから開いていないスナックの前を過ぎ、また元の場所へ戻って来る。彼は延々同じ事を繰り返した。正午を回る。海老名は忍耐強く歩き続けていた。しかしながら、表情には苛立ちの募る様子が窺える。いつものように悪態を吐いていないのが不思議な程だ。無意識に口が開く度手で覆い、どうにか我慢しているという様子だった。午後三時を過ぎる頃には精根尽き果て、足を引きずるような有り様になる。最早、今自分がどこを歩いているかの感覚もないだろう。

彼は虚ろな顔つきでまた一歩を踏み出した。視界が大きく振れる。一切を理解しないまま体が真横へ吹き飛んだ。何らかと衝突した訳ではない。弾き飛ばされたというより、物凄い力に引きずり込まれたという方が正しい。完全に浮き上がった体は直後叩きつけられる。打ちつけた左半身へ激しい痛みを覚えた。扉の閉まる音と共に視界が黒く閉ざされる。海老名は反射的に体を小さく丸めた。さながら胎児のような姿で衝撃を待つ。しかし飛び込んで来る靴先の感触は一向に訪れない。その事が何より恐ろしく、海老名は絞り出すような声を出した。

「すみません!何でもしますから殺さないでください…!」

「…へぇ、何でもね」

 高い場所から声が届く。怒りと愉悦。そのどちらも含まない響きだ。つまり海老名に対し何の感情も抱いていない。闇の中、海老名は死体のように硬直する。経験にない程死をすぐ傍に感じた。

 呼吸すら止まる。海老名は自分が本当に死んでしまったように思えた。時間の感覚を失った頃、唐突に視界が明るくなる。海老名は驚きに目を瞬いた。遅れて肺が膨らみ呼吸が再開する。彼は生き還った心地でよろよろと身を起こした。鈍い光沢を放つ革張りのソファーがある。三方を囲む壁の距離は近い。目の前には使い込まれたスツールの脚が立っている。再び視界が黒いものに覆われた。恐怖がぶり返し短い悲鳴をあげる。すると頭上から笑い声が降った。海老名は顔ごと視線を上げる。いつか見た大入道が、満面の笑みでこちらを見下ろしていた。

「いや、すまんすまん。ちょっと懲らしめるつもりがやり過ぎた」

 大入道…否、明空は言う。彼は法衣の裾を持ち上げてその場にしゃがんだ。へたり込む海老名と目線の高さを揃え、心底申し訳なさそうな表情を浮かべる。それから呆けたままの相手へ続く言葉をかけた。

「頼むから戻って来てくれ。あんまり堂に入った命乞いなもんで、俺もつい乗ってしまったんだ。…おい、大丈夫か?」

 海老名はやっとの様子で「あ…」と声を出す。次の瞬間には堰を切ったような罵詈雑言が飛び出した。

「ふっざけんじゃねぇ、テメェ殺す気か?いいや打ち所が悪かったら死んでたぞこの人殺しが!」

 唾を飛ばす程の剣幕に明空は謝り通した。するとその向こうから嗄れ声が届く。

「うるさいガキだね。あんたもどっこいどっこいだろうが」

 海老名はようやく立ち上がり、カウンター奥を見た。スツールへ腰掛ける老婆と目が合う。開店前だというのに、老婆はスパンコールの散りばめられたドレスを着ていた。脚を組むと萎びた脹ら脛と踵の高い黒のハイヒールが覗く。顎を高く上向け、老婆は海老名を見下ろした。赤い唇から凄みのある声が出る。

「ええ?どうなんだい。偉そうに言えた口かって聞いてるんだよ」

「それは、一体どういう…」

「へぇそうかい。しらばっくれようってんだね。つくづく性根の腐ったガキだ。あんたが若奥さんを付け狙ってた事なんざ、とっくにバレてるんだよ」

 海老名は絶句した。間抜け面で口を開閉させる。その間にも老婆は畳み掛けた。

「和尚から店を貸してくれと頼まれたから来たらどうだい。朝っぱらからうろうろと、野良犬みたいな奴がいるじゃないか。見苦しいったらありゃしない。あたし達に捕まって感謝するんだね。じきに交番のお巡りが出張って来る所だ」

「小百合さん、どうかそれくらいで」

 明空が口を挟む。彼は打ちのめされる海老名へ同情的な視線を向けた。太い眉を下げて口を開く。

「用事があると言ったのは嘘だ。前に町へ下りた日から様子が変だっただろう。ちょっと様子を見ようと思ったんだ」

「…泳がされていたって訳か」

 海老名はがっくりと項垂れる。心身共に限界を迎えた所へとどめを刺され、抗う気力が残っているはずもなかった。

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