「おい、どこへ行く気だ?一人じゃ危ないぞ」

 明空が声をかける。

 海老名は「少し、外で風に当たって来るだけだ。すぐ戻る」と返した。思いの外受け答えがはっきりしていたためか、それ以上の声はかけられない。海老名は体重をかけ扉を押し開けた。石畳に足をつけ、二、三歩進んだ所でしゃがみ込む。血管の破裂しそうな音を聞きながら、彼は腹の底から込み上げて来るものを待った。その兆しを察した途端に目の前の水路へ走る。石造りのブロックから身を乗り出し嘔吐した。涼しい音をたてて流れる水の上へ、汚らしい声と共に吐瀉物が降り注ぐ。声を抑えた嗚咽を繰り返し、海老名は今しがた飲んだ酒を全て吐き切る。彼は虫の息で顔を上げた。しかしその表情は先程よりも正気を取り戻して見える。

「…よし、何とか出られたな」

 海老名は言う。声は老婆のように嗄れていた。

 彼は水路を離れ歩き出す。石畳の道を戻り、駐車場を右手に曲がった。途端に物凄い勢いで何かと衝突する。まだ足元が覚束ない海老名は仰向けに倒れた。視界が急激に動いた事で吐き気と目眩がぶり返す。慌てて口を押さえる彼に人影が駆け寄った。影は倒れる海老名の頭近くにしゃがみ込む。狼狽する声が出された。

「す、すみません!急いで走っていてっ、あの、大丈夫ですか?!」

 声は言う。さほど年のいっていない女の声だ。少し籠もった低い響きは吃りながら続く。

「ど、どうしよう…。救急車、救急車呼ばなきゃ」

 救急車という単語を聞いた途端、海老名は吐き気を堪え起き上がった。人影がびくりと揺れる。少し離れた場所から届く街灯の光に、くすんだ肌の色がぼんやりと浮かび上がった。海老名は目を瞬き相手を凝視する。どこかで見覚えのあるおかっぱ頭だ。粗末で小さな造りをした顔立ちの中、緊張に見開かれた目だけが異様に大きい。…そう、商店街ですれ違った女だ。思い至った海老名は「ああ、あの時の」と声を出す。

「えっ、あの、いつでしょうか…」

 女はおどおどと応えた。視線は落ち着きなく海老名の頭付近を彷徨っている。明らかにパニック状態だ。海老名は内心でしめたとほくそ笑む。

「いや、大丈夫です。気にしないでください」

 海老名は言う。酷く弱々しい声だ。発言の直後頭を押さえ、苦しげな呻き声を洩らす。女はますます慌てふためいた。

「本当にすみません!」と泣き出しそうな声が言う。それから「やっぱり救急車を」と続け、携帯電話を取り出した。まずい、脅し過ぎたと海老名の顔へ焦りが浮かぶ。

「救急車は本当に大丈夫ですから」と早口に言い、咄嗟に携帯電話を持つ腕を掴んだ。

「痛い!」と女が叫ぶ。海老名のような演技ではない。本物の悲鳴だった。海老名は失策を悟り青褪める。それどころか、こちらが加害者にされかねない事態だ。彼は慌てて掴んでいた手を離す。勢い良く手を引いた際、黒い長袖の端が指に引っ掛かった。袖は二の腕辺りまで捲れ上がる。海老名は固まった。視線は露出した女の二の腕に集中する。黄味がかった白い肌の上に切り傷が走っている。生まれたばかりなのだろう傷口は鮮やかな血の色を開き、細く長く続いていた。赤い線は肘の辺りから始まり、果ては袖の中へ隠れている。尚且つ、傷痕はそればかりではなかった。乳白色に薄桃色の混じる皮膚の引き攣れが点々と浮き上がっている。海老名は思い出したくもない記憶から、それがケロイドになりかけている痕だと判断出来た。唖然としている間に女が立ち上がる。彼女は今までより一層激しい狼狽を見せた。捲れ上がった袖を強く引き下げる。直後、女は弾かれたように駆け出した。石畳を蹴る音はすぐに小さくなる。見かねた明空が探しに来るまで、海老名は石畳の上に座ったままでいた。海老名は半ば引きずられるように運ばれる。明空は店の会計を済ませて来たらしく、そのまま海老名をトラックの助手席へ乗せた。車が走り出し、やがて山中の寺に着く。酷く泥酔しているものと思ったのだろう。明空は充てがった部屋の布団へ海老名を放り込み、「早く寝るように」とだけ告げた。


 翌日からは想定通り面白味のない日々が続く。海老名は朝早く起きて明空と食事をとり、その後は寺の掃除や近所の畑仕事を手伝う。そして夜になれば寝るを繰り返した。いつもの彼ならば発狂してもおかしくない環境だ。しかし海老名は粛々と健康的な生活を送り、度々体が悲鳴をあげながらも肉体労働に従事した。二週間が経った頃、明空は朝食前に海老名の部屋を訪ねた。襖を開ければ身支度を整えた姿が座っている。明空は感心した様子で口を開いた。

「近頃は随分と規則正しいんだな」

「寺での生活で心が洗われたんだろうよ」

 海老名は答える。愛想の良い笑顔は相手に真意を読み取らせなかった。明空は「ふうむ」と唸る。それから少しの間考え込む仕草をした。最後に何かを決めたよう頷く。彼は尋ねた。

「また山を下りる用が出来た。一緒に行くか?」

「行く」と海老名は答える。弓形に細めた目へ一瞬、鋭く狡猾な光が過った。


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