「おい、寺へ戻るんだろう。どこへ行く気だ」

 海老名は尋ねる。視線は忙しなく窓の外を探った。交番へ突き出される事を恐れているのだろう。

「行きつけの店だよ。今日は麓で食べて行こうと思って。飯が旨い所なんだ」

 明空は答える。海老名の心境も知らず、のほほんとした口振りだ。海老名は脱力し助手席のシートへ沈み込む。軽トラックは廃デパートの前を過ぎた。続いて現れる石畳の通り。それを挟んで向こうには砂利の敷かれた駐車場がある。入り口には登山コースの描かれた看板が立っていた。車は駐車場へ入り、その一角に停まる。明空に続き海老名も砂利の上に下りた。駐車場の柵を越え、二人は石畳の道を歩き出す。既視感のある道のりに海老名は不安を覚えた。気持ちを誤魔化すように口を開く。

「なぁ、飯屋っていうのは今朝言ってた所か?」

 前を行く明空が振り返った。

「いや、そこじゃない。というか本来飯屋でもないんだ。でも出してくれる料理がどれも旨くてなぁ。酒も飲めるから、あんたの飲み納めにも良いかと思ったんだよ」

 会話をする内に到着したらしい。明空は立ち止まり体の向きを変える。彼が正面を向けるのは左手に建つ建物だ。白い板張りで、小屋ほどの大きさしかない。白い板チョコレートのような扉の前にはネオンの看板が置かれている。既に明かりが灯り、けばけばしいピンクの光と「華」という文字が浮かび上がっていた。海老名が卒倒しかける間に、行慧はドアノブへ手をかける。あの日は気づかなかったベルの音が虚しく海老名の耳に響いた。ベルが鳴り終わらない内に鋭い嗄れ声が飛んで来る。

「おや、随分早いね。三浦の爺が歌いにでも来たかい」

「いいえ、俺です」と明空が応じる。彼は扉を開けながら言葉を続けた。

「ご無沙汰してます、小百合さん。今から二人良いですか」

 小百合、小百合とはどんな女だろうか。淡い期待を抱く海老名は扉の向こうへ顔を覗かせる。狭い店内を眺め回す視線は正面奥のカウンターで止まった。猛禽類のような力強い目に捕らえられたためだ。皺だらけの顔の中、大きな目玉がぎょろりと動く。

「なんだい坊主と…この前のボウズじゃないか。呆れた。本気で寺まで行ったのかい」

 老婆は言う。海老名の期待は虚しく、あの晩啖呵を切った相手に間違い無かった。

 海老名の前に立つ明空が言葉を返す。

「やっぱり親切なお婆さんというのは小百合さんでしたか」

「一丁前に生意気な口をきく小悪党だったからね。あんたの所に送るのが丁度良いと思ったんだよ。…しかしまた、随分と気に入ったようじゃないか」

「本堂で腹を割って話したらすっかり意気投合したんです。しばらくは家に住んでもらう事になりました」

「へぇ。そりゃまた、良かった事だねぇ」

 老婆はこう言ってニタニタと笑った。

 海老名は怒鳴りつけてやりたい気持ちを寸での所で堪える。直後ある事実に思い至り背筋が寒くなった。もしや自分は老婆の策略に嵌り、厄介な人物の元へ送られたのではないか?彼は今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。しかし今ここで姿を眩ませれば他での犯行を怪しまれかねない。次の金策の手立ても見つかっていなかった。海老名は胃を押さえる。額へ脂汗が滲んだ。先にスツールへ座った明空は不思議そうにこちらを見ている。小百合という似合わない源氏名の老婆が、「何をぼーっとしてんだい。早く座りな」と海老名をどやしつけた。

 海老名は内心毒づきながらスツールへ腰掛ける。その後は出される料理へ舌鼓を打つふりをしながら思考を巡らせた。

「ボウズ、次は何を飲むんだい」と老婆が尋ねる。この時海老名は逃げの一手を思いついた。

「ええと、じゃあ角をロックで」水割りの入っていたグラスを返しながら答える。

 程なく萎びた手がロックグラスを手渡した。いかにも安酒が似合う質素なグラスにロックアイスが数個、薄茶色の液体が半ばまで注がれている。人工的なきつい香りが鼻を突く。海老名は息を止めた。グラスをほとんど垂直に傾け、中身を一口で飲み干す。味は苦みしか感じない。後には舌の痺れと喉を落ちていく熱さが順を追って襲った。上向けた顔を戻し大きく息を吐く。血中へ質の悪いアルコールが回り、頭がくらくらとした。隣から驚いた声がかけられる。

「いきなりどうしたんだ。急いで飲むと倒れるぞ」

 明空は言う。声には偽りのない心配が表れていた。「飲むならもっとゆっくりだな」と続く言葉を、海老名は「うるさい」と言って遮る。

「明日からしばらくの間は酒が飲めないんだ。今日くらい好きなだけ飲ませてくれたっていいだろうがよ。これでも気を遣って安酒にしてんだ。俺は飲めるだけ飲むぞぉ」

 海老名はいかにも悪酔いをした有り様で喚く。その後も静止を聞かず、立て続けにウィスキーのロックを五杯呷った。…やがてゴトンと音をたて、グラスの底と頭部がカウンターへ落ちる。「言わんこっちゃない」と老婆が呆れた声で言った。少しの間、海老名は沈黙したままでいる。それからゆっくりと動きだした。上半身がゾンビじみた動きでカウンターを這いずる。手探りで水のグラスを掴み、顔を伏せたまま中身を飲んだ。続いてスツールを降りる。細長い体はふらつきながら扉へ向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る