「いらっしゃいませ」

 女が声を掛けてくる。店前での様子を見ていたためだろう。堪えきれない笑いが顔に表れている。

「開店早々にすみません。向かいの喫茶店から見て気になったもので」

 海老名は気恥ずかしげに答えた。それから物珍しそうに辺りを眺める。

「可愛らしいお店ですね。雑貨と古本を一緒に販売しているんですか」

「はい、そうなんです。ご興味がおありですか?」

「どちらかといえば本の方に」と海老名は言い、左手の本棚へ近づいた。そうして言葉を続ける。

「写真集から絵本まで。へぇ、全集なんかもあるんだ」

「気に入った作家のものがあればお取りしますよ。お声がけくださいね」

「ありがとうございます。ところで、このお店は一人でやっているんですか?」

「はい、店で働いているのは私だけです。仕入れは主人がしてくれています」

「へえ、そうなんですね」

 海老名は言う。返答を聞くにつれ、気分が露骨に盛り下がるのがわかった。彼はズボンのポケットを触り声を出す。

「そうでした。今日は手持ちが無いんです。冷やかしに居座るのも申し訳ないですから、また後日改めてお邪魔します」

「そうですか。またのお越しをお待ちしていますね」

 女は言う。微笑みは楚々として品があった。笑顔が魅力的な分だけ悔しさが募る。海老名は誘惑を振りほどくように会釈をして店を出た。店頭から離れた所で空を仰ぎため息を吐く。

「はぁ、人妻か。まぁそうだろうな。せっかくの軍資金を進展の望み薄な相手に使うのも勿体ない」

 海老名はぼやいた。彼は通りの向こうから来る人影に気づく。これも女だったが、すれ違うまでの間に海老名の関心は失なわれた。黒の長袖にジーンズ姿は凹凸に乏しく、顔にも魅力を感じられない。古本屋の店主のような清楚さもなければ、タクシー会社の受付嬢のような愛らしさや華やかさもなかった。黒い髪をこけしのように切り揃えている。鼻や口は不格好に小さく、目だけが異様に大きい。しかしその目も美点にはならず、むしろ顔全体のバランスを損ねていた。例えるなら、南国のジャングルに住む目の大きな猿に似ている。失礼極まりない結論を出した所で女とすれ違う。あちらが一度たりとも視線を向けなかった事が海老名には癪だった。「陰気な女だ」と口の中で毒づく。直後、彼は背後で引き戸の開く音を聞いた。

「あら、いらっしゃい」と華やいだ声が届く。柔らかな声はつい先程聞いたものだ。海老名は振り返る。古本屋の店先に二人の女が立っている。一人はすれ違った女。もう一人は古本屋の女店主だった。陰気な女の顔は横髪に隠れて見えない。女店主の方は髪を襟足で一纏めにしているため白い横顔がよく見える。店主は黒く潤んだ目を細め、「今日は早いのね」と続けた。相手が頷くと笑みを深める。

「お茶の用意をしてあるの。どうぞ入って?」

 店主は言う。それから相手の腕に腕を絡め、引き戸の内側へ迎え入れた。すぐに扉の閉まる音がする。人の居なくなった通りを眺め、海老名はしばし呆然とした。今しがたの親密ぶりを見れば、自分がいかに冷淡にあしらわれたかがわかる。謎の敗北感を覚え、彼はふらふらと商店街を出て行った。

「…やっぱりおかしい」と海老名は声に出す。彼は白い石畳の敷かれた道の途中、川沿いの東屋に居た。コンビニエンスストアの袋から缶ビールを取り出す。プルタブを開け中身を呷った。三口飲んだ所で口から缶を離す。東屋の屋根を仰ぐ顔は気難しげに顰められている。低く唸った後、彼は「やっぱりおかしい」と繰り返した。

「常連と親しくなるのはわかる。でもあそこまで態度が違うのは変だろう。女同士ってのはそんなもんなのか?」

 海老名は首を傾げる。一度は納得しかけるが、すぐに「いやいや」と首を振った。

「雰囲気だ。やっぱり雰囲気が変なんだ。ありゃあまるで…」

 言いかけて彼は口を噤んだ。口に出すのを躊躇った訳ではない。石畳の道を横切ろうとする姿を見たためだ。海老名は東屋を囲う植込みから首を伸ばす。車の往来を確かめる顔は先程すれ違った女で間違いない。女は小走りに道を渡り、そのまま交差する通りへ消えた。海老名は立ち上がる。缶ビールやビニール袋を放置し東屋を出た。ゆっくりとした足取りで石畳の道を戻りつつ、交差する通りへ視線を向ける。アスファルトの道は細く、左右を田んぼに挟まれている。手前には鉄錆びて草に覆われた線路が横たわっている。女の後ろ姿はその道を真っ直ぐ歩いていた。海老名は一度通り過ぎた後、道が交差する地点まで戻って来る。充分距離が開いた事を確認し、女と同じ方向へ曲がった。

 小さな市街地を出れば後は田園が広がるばかりだ。見晴らしが良いため人の姿は目につきやすい。海老名は辺りを見渡し、いかにも道に迷ってしまったという様子で進んだ。演技の合間に前方を確認する。女は一度も振り返らず歩いていた。程なくして道が二車線の道路と交差する。女はそこも渡り、一際狭い道へと入っていった。海老名は道路を渡らず左折する。道路沿いの歩道を歩きつつ左側を見た。田んぼをひとつ挟んだ先にフェンスが張られている。その向こうには赤い煉瓦模様の家が並んでいた。全て平屋建てで同じ大きさ、同じ形をしている。数は六棟。その内のどれかが女の住居なのだろう。間取りはおそらく三LDK程だ。女の一人暮らしにしては広すぎる。つまりは結婚して二人暮らし、加えて小さな子供が居る可能性もある。

「どちらも旦那持ちで女同士。やっぱりさっき感じた印象は勘違いか」

 海老名は独り言を言った。その後は興味を失った様子で方向を変える。彼は直後はっとし、「ビールが飲みかけだった」と言って来た道を戻った。

 宿へ着いた海老名は酔いに任せて昼寝をする。目が覚めると午後の三時を回っていた。大の字になっていた畳から起き上がる。散らかったままの部屋を見渡しため息を吐く。彼は面倒臭そうな顔をしながら重い腰を上げた。荷物を纏め終え、海老名は壁掛け時計を見る。時刻は午後四時半。たった一間の片付けに一時間以上がかかっている。合間合間にテレビを観ながら寝転んでなどいたせいだ。彼は仕上げとばかりに白から黒へ服を着替えた。洗面台の前に立ち、髪を一纏めに縛る。鏡の中から目つきの悪い悪人面の男がこちらを睨みつけた。

 窓の外でクラクションが鳴る。二階から見下ろせば、ホテルの入り口に見覚えのある軽トラックが停まっていた。運転席の窓から明空が顔を出し、すぐに二階の海老名を見つける。遠目にもわかるくっきりとした笑顔を見下ろし、海老名はうんざりとした気分になった。また野郎と二人きり、山の中での禁欲生活が待っているのだ。隠し酒を買い込んでおくべきだったと深く後悔する。しかし目が合ってしまったのだから居留守を使う訳にもいかない。海老名はボストンバックを提げ、のろのろと部屋を出た。階段を下り会計を済ませる。外へ出ると真っ赤な西日に照らされた明空が彼を出迎えた。色艶の良い男の肌は、まるで本堂で見た仏像のように…いや、それよりも赤く輝いている。海老名は盛大に顔を顰めた。

「すまんすまん、眩しかったか。太陽の光が一番反射するんだ」

 明空は言う。彼は笑いながら自分の頭を撫でた。続けて口が開かれる。

「待たせて申し訳ない。さあ乗ってくれ。荷物は荷台でいいか?」

 安心感と親しみを与える声だ。しかし海老名からすれば熱苦しさと馴れ馴れしさしか覚えない。こちらだけ敬語を使うのも馬鹿らしくなり、彼はぶっきらぼうな声を出した。「ああ、それで良い」とだけ答える。

 明空は頷いた。海老名の荷物を受け取る。それをトラックの荷台に下ろすと運転席へ戻った。海老名が助手席に乗り込みシートベルトを着けると車が走り出す。相変わらずゆっくりとした速度で道を進んだ。ホテルの前を通る四車線の道路から細い道へ入る。迂回する形で進み、豪邸と並び立つ二階建ての病院前を過ぎた。廃デパートが見えた辺りで海老名はいよいよおかしいと確信する。

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