⑩
日が暮れる。すっかり暗くなった空を窓から眺め、海老名は息を吐いた。彼は木でできた浴槽に身を沈めている。身じろぐごとに湯が溢れ、板張りの床を艶々と濡らした。泊まっていたホテルの浴場は床から浴槽まで年季の入ったタイル地だ。ならここはどこの風呂場か。答えとなる声が風呂場の外から届く。
「海老名さん、湯加減はどうですか。俺が熱い湯好きなもんで、少し火を焚き過ぎてるかもしれんです」
水面か大きく波立ち音をたてる。海老名は慌てた様子で背後の扉を見た。
「ありがとうございます。大丈夫です。でもすみません。泊めてもらったうえに一番風呂まで頂いてしまって」
動揺からか捲し立てるような口調になる。相手はそれを申し訳なさからくるものと受け取ったらしい。
「とんでもない。ゆっくり入ってもらって大丈夫です。それじゃあ俺は戻ります」
太い男の声は告げる。扉の外の気配はそれきり消えた。
海老名は詰めていた息を長々と吐く。それから立ち上がり浴槽を出た。首を伸ばし窓から下を覗き込む。屋外にある風呂用の火焚き場に人影はない。確認の後、彼は今一度大きく息を吐いた。
「無銭の宿が確保出来たのは有り難い。しかしこれじゃ気が休まらねぇな。ムサい男と二人ってのも最悪だ」
海老名はぼやく。いかにもウンザリとした態度だった。
「風呂も熱すぎんだよ。ジジイかあいつ」と愚痴は止まらない。彼は赤くなった体を夜風に当てた。火照りが収まったところで海老名は窓を閉める。外から音が届かない事を確認し、小さく声を出した。
「だがこれも同情を得られた証拠だ。聖職者が懺悔に弱いってのは本当だぜ。施しをガメてるホームレスのジジイに聞いた話が役立つとは思わなかったが…」
彼は立ったままボソボソと呟く。それから濡れた床に尻をつけ片膝を立てた。横へ開いた足に肘をつき、皿にした手の平へ顎を乗せる。
「ここからは粘り時だ。同情の次は信用を得なくちゃならねぇ。預金通帳の場所を探れるくらいには野郎との仲良しごっこを続けるか…。現金で溜め込んどいてくれれば手っ取り早いんだがな」
続ける態度はさながら戦略を立てる武将じみている。本人もそのつもりらしく、芝居がかった仕草で頷いた。立ち上がると自らの両頬を叩く。
「辛抱辛抱」と声に出し、海老名は勇ましい足取りで風呂場を出た。
「おはようございます」
枕元に雷が落ちたのかと思った。海老名は驚いて目を開ける。仰向けの視界には聳え立つ大入道の姿がある。海老名は布団を跳ね除け起き上った。
「はは、妖怪にでも見えましたか」
入道は言う。寝ぼけ眼を擦って見れば、標準的な大きさの坊主である事がわかる。昨日から世話になっている寺の住職だった。彫りが深く陰影のはっきりした顔立ちは、不思議と影にまで光が行き届いて見える。有り体に言って、目覚めと共に拝みたい顔ではなかった。海老名は顔を顰めるのを寸での所で堪える。それが欠伸を噛み殺すふうにでも見えたのだろう。明空は「疲れが抜けていないみたいだ」と労る顔つきで言う。
「寝かせていても良かったんだが、これから仕事で町に下りる用があるんです。海老名さんも荷物を引き取らなくちゃならんでしょう。どうせなら一緒に行きませんか」
「行きます」と海老名は食いつく。ホテルの荷物を回収するのは勿論の事だが、それに加えて理由がある。娯楽どころか商店すらない場所へ閉じ込められるのは、一日だって我慢がならなかった。借りていた部屋着から昨日と同じ服に着替える。玄関を出ると純和風の庭が広がった。丁寧に刈り揃えられた植込みが並ぶ。左端では松が節くれ立った太い枝を横這いに伸ばし、右端では葉の全て落ちた木が、細い枝を編み目のように広げていた。それなりに見事な造りの庭だが、海老名からすれば資産価値の勘定対象でしかない。買い付けをする業者じみた目で眺めた後、背後を振り返った。今しがた出て来た建物もまた純和風の日本家屋だ。間口が広く堂々とした外観で、漆喰壁の白さと濃紺の瓦屋根が印象的だった。
「いかにも金を貯め込んでいる家だ」
と海老名は呟く。肉薄な唇を蛇に似て長い舌が舐めた。背後から車のエンジン音が届く。山と田に挟まれた道路を白い軽トラックがトコトコと走って来る。農家の爺婆が乗っているのだと思い海老名は見向きもしなかった。しかし軽トラックは海老名の居る家の前に停まる。日光を反射する窓が下がり、運転席側から剃髪の頭が顔を出した。
「お待たせしました」
明空は笑顔で声をかけた。面食らった様子の海老名には気づかず「どうぞ乗ってください」と促す。海老名は呆然としたまま助手席に乗り込んだ。車は走り出す。運転する人間の性格からか、速度はのんびりとしていた。しばらく走った所で海老名が口を開く。彼は「この車は仕事用なんですか」と尋ねた。声はそれとなさを装ってはいるものの、僅かに焦りが滲み出ている。
「いえ。俺の車はこれだけですよ」
相手は答えた。ここでようやく海老名の動揺を感じ取ったのだろう。それに加え、何かを察した顔付きになる。彼は「あなたの知っている坊主とは印象が違いますか」と質問を投げかけた。海老名は言葉を濁しつつも「ええ、まぁ」と頷く。「街の歓楽街で見かける坊主頭は八対二で坊主かヤクザだと聞いた事があります。実際キャバクラなんかに飲みに行くと、VIPルームで坊さんがキャバ嬢を侍らせる、なんて場面に出会すのも珍しくないそうで」
「はぁ、それはあながち嘘でも無いだろうな。公然の秘密という奴で耳に痛い話です。だから俺が高級外車の一台でも乗り回しているはず、と海老名さんも考えた訳ですね」
「はい、すみません」
「謝る必要はないですよ。実際にそういう類も居るんだから。今回はたまたま俺がそうでなかったというだけです」
会話を続ける内、海老名は段々と気味が悪くなる。欲のない人間など廃人と同じだ。元々あったものを修行の末捨てたならまだ理解出来る。しかしこの男に限っては、端からそんなものを持って産まれなかったように感じた。海老名はそれ以降言葉を返さなくなる。住職は相手の反応にすら頓着が無いようで、機嫌良さそうにハンドルを操作する。やがて山麓の町が見えた時、海老名は住み慣れた故郷へ帰り着いたような安堵を覚えた。オレンジ色の橋を過ぎた所で堪えきれず声を出す。
「あの、ここで降ろしてもらって大丈夫です。町の様子は大体わかってますから」
「遠慮なさらず。宿まで送りますよ」
「本当に大丈夫です。明空さんもお仕事があるでしょう。荷物を纏めたらそこら辺で時間を潰しています」
強い語調に住職が折れた。「わかりました」と言った彼は懐から財布を取り出す。そこから一万円札を抜き取り海老名へ差し出した。
「宿代はこれで。余った分は時間を潰すのに使ってください。商店街なんかが丁度良いですね。腹が減っているなら少し外れた所にレストランがあります。安くて量の多い人気店ですよ」
海老名は頭を下げ札を受け取る。軽トラックは海老名を降ろし走り去った。海老名は車体が完全に見えなくなってようやく人心地つく。「朝からそんなに食ってられるかよ」と吐き捨て、商店街の方向へ歩きだした。
「ったく…あの偽善者野郎。金を持ってるのか持ってないのかはっきりしろってんだ」
海老名は商店街へ入った。ぶつくさと呟きながら通りを進む。足取りは酒屋の前で鈍った。しかし日本酒専門が趣味では無かったらしく、一瞥の後にまた歩き出す。和菓子屋や洋菓子店、古いカメラ屋の前を素通りした。
「コーヒー飲みてぇ。喫茶はどこだ?」
苛立った声が出る。興味の無いものばかりが現れる景色に辟易した様子だった。「引き返しちまうか」という言葉が漏れたのは通りの中間でのことだ。足が完全に止まり方向転換をする。その最中、視界が微かな灯りを捉えた。彼は動きを止め建物を見る。木造の古い屋敷だ。全体が焦げ付いたような色に覆われている。格子窓のせいか、覗き込む中もひどく薄暗かった。吊るしの電飾が光っている様子から、辛うじて営業していることが窺える。カウンターへはサイフォンの丸いガラス容器が並んでいた。洒落た古民家風の外観だが、海老名からすればそんなものはどうでも良いらしい。「わかりにくいんだよ」という文句さえ吐かれる。ぶつぶつ言いながらも格子の引き戸を開け中へ入った。開店したばかりなのか客の姿はない。海老名は窓際の一人掛けソファーに座った。程なくカウンター裏から男の従業員が出て来る。海老名は従業員に向け、「ブレンド」と声をかけた。それから格子窓の外へ視線を放る。耳にはゆったりと流れるクラシックが届く。次第にビーカーの中で気泡が生まれる音も加わった。漂いだす香ばしい匂い。磁気や金属の重なる音。従業員の男が再び現れ、ソーサーに乗るカップをテーブルへ置いた。海老名は絵の描かれた白磁のカップと中で揺れる黒い液体を見下ろす。華奢な持ち手を摘み、特に味わう様子もなく中身を啜った。カップを一瞥した後の視線は再び窓の外へ投げられている。何を見るでもなしに人気のない通りを眺めた。その顔が突然、強く興味を惹かれたふうに変化する。視線が釘付けになるのは通りの真向かいだ。道の幅が狭いため並ぶ建物との距離も近い。小さな平屋の一軒家はいかにも女子供が好きそうな外観をしている。ガラスの引き戸越しに動く姿があった。女だ。顔立ちははっきりと見えないが、海老名はその肌の白さに惹きつけられた。女は白シャツの上にくすんだ青色のカーディガンを羽織った格好で外へ出て来る。看板を中から運び出し、戸口へ置いた。重たげなそれを押してずらす際には腰を突き出す姿勢になる。黒のロングスカート越しに、控えめだが形良い尻の輪郭が見て取れた。海老名の細い目が限界まで開かれる。喉仏が上下し大きな音を鳴らした。壁掛けの看板が引っくり返されるのを確認するや、海老名は慌てた様子でカップのコーヒーを飲み干す。直ぐ様席を立ちカウンターへ向かった。姿を消していた従業員を呼び出し会計を済ませる。喫茶店を出る間際、彼は一度立ち止まり大きく深呼吸をする。試用運転のつもりだろうか。誰へ向けるでもなく微笑みを作った。道を渡り、ガラス越しに店内を覗く。いかにも興味津津という態度で引き戸を開けた。
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