⑨
反射で瞼を閉じる。それから恐る恐る開いた。堂の中は薄暗い。照明はついておらず、だだっ広い空間の端までは見通せなかった。にも関わらず先程のように感じたのは、目の前に広がる極楽浄土のためだ。羽衣をたなびかせた天女が空を舞っている。夥しい数の楽隊が奥から前へと並び、琴や笛を奏でている。楽隊の中央は開けており、そこへ金色の雲が階のように重なっていた。階の半ばには、しずしずと降りてくる牛車がある。御簾は上がり、坐して合掌する仏の姿が望めた。
これら全てが金襴の輝きを放ちながら静止している。仏像なので当然だった。堂の中央に設けられた祭壇。そこを飾る金の像は、入口から射す日光を正面に浴びるよう計算されているらしい。
「夕方には西日が射して朱金色になるんです。俺にはよくわからんこだわりですが」
口をあんぐり開けていた海老名は正気に戻る。声のする方向を見た。祭壇の横に立つ住職は腕を組み、呆れた目で浄土の風景を見上げている。
「これは、本物の金なんですか?」
海老名は生唾を飲む音を押し殺して尋ねる。
「まさか」と住職は笑った。
「いくら業突く張りな親父でもそこまでの金は集められません。ほとんどが金メッキで、金箔を貼ってあるのは中央の仏像とその周辺くらいなもんです」
海老名は目を剥く。祭壇の中で最も大きいのがその仏像だ。薄皮一枚のほどの厚みだとしても、一体どれほどの値打ちになるのか。前言撤回だと口の中で呟く。田舎の寺にこんなお宝がしまわれていたとは。価値がわからないのなら俺が根こそぎ貰っていこう。海老名は心に決め、一層目尻を垂れ下げた。
「素晴らしいです。ご住職は清貧を重んじていらっしゃるのですね」
「そんな大層なもんじゃありませんよ。物の価値がわからないってだけです」
海老名は内心を言い当てられたかのようでドキリとする。しかし住職に気取った様子はない。彼は祭壇の陰から座布団を二枚運んで来た。間隔を空け祭壇前に並べる。
「どうぞ、落ち着かないかもしれませんが」
住職はこう言って座布団を勧めた。海老名が座ると正面に膝を畳む。
「それで、ご相談とは何でしょう」
無邪気な子供のような目で住職は尋ねた。
ここからが本番だ。海老名は意を決する。次の瞬間彼は床に突っ伏した。額が床にぶつかり鈍い音をたてる。
「申し訳ありません!」と海老名は言う。悲痛に叫ぶような声だ。相手が言葉を失っている内に休まず口を動かす。
「私は…いや俺はあんたを騙そうとしていたんです。俺は詐欺師だ。あんたの親父さんと同じ、いいやそれより質が悪い」
「どういう、ことでしょうか」と低く強張った声が落ちる。海老名の体は大きく跳ねた。直後もう一度額を打ちつける。先程よりも大きな音が響いた。「すみません、すみません」と半泣きの声で繰り返す。すると両肩に生温かい感触を覚えた。それは海老名の肩を掴み強く押し上げる。彼はなすがまま上体を持ち上げた。
「もう謝らんでください」住職は言う。黒衣の姿はいつの間にかににじり寄り、海老名の両肩を掴んでいた。真っ直ぐで情に厚い目が海老名へ向けられる。
「あなたはまだ何もしていないでしょう。だから謝るのはもういいです。それよりも、訳を話して貰えますか」
海老名は鼻水を啜り上げる。それからがっくりと項垂れ、「はい…」と答えた。
「住んでいた街で借金を作ってしまいまして、どうにも首が回らずここまで逃げて来ました。所持金も底を尽きましたが、借金取りに見つかるのが怖くて働き口も探せません。もう死ぬしかないと考えたところで親切な地元のお婆さんが、ここの住職さんなら手助けをしてくれる、と教えてくれたんです。最初は少しの生活費を貸して貰えたら、と思って来ました。でも、あの仏像を見たら欲に目が眩んで…っ、親切なあんたを騙せば、借金が返せるだけの金が手に入るんじゃないか…と、そう思ってしまったんです。俺は、俺は最低な人間だ」
言い終わるや海老名は再び床に伏した。額を打ちつける音はしない。その代わり、呻きと啜り泣く声が途切れ途切れに続いた。
どれくらいそうしていただろうか。頭上から「なるほど」という声が届く。憤った調子ではない。ひどく穏やかなものだ。「顔を上げてください」と言われ、海老名はのろのろと従う。正面を向いた顔は涙と鼻水に汚れ、先程よりも酷い有り様だった。住職は幼い子供を見るような目を向ける。あまつさえ微笑みを浮かべ彼は話しだした。
「俺は、人間は元々悪行をするように出来ていると思っています」
切り出された言葉の意外さに海老名は困惑を浮かべる。住職は先程こぼしたような苦笑を見せた。「きっとあの父親を見て育ったからですね」と言葉が続く。
「あそこまでではなくとも、俺やあなた、親切にしてくれたというお婆さんにだって、大なり小なり悪行を成した経験はあるはずです。産まれたてのまっさらな時から誰しもがその素質を持っていて、正しく生きてきた人間というのはたまたまそれが芽吹かなかったというだけ。そんなふうに考えているんです。だから何より大切なのは、悪行を犯す前に踏み留まれるか、そして犯してしまった後に償えるか。この二つになります。出来るなら前者であるに越したことはない。あなたはその前者になれたんです。決して最低な人間なんかではありませんよ」
「ご住職…」
「他人行儀はよしてください。どちらも腹を割って話したんだ。友人も同然でしょう」
住職はさっぱりと告げる。彫りの深い顔をくしゃくしゃにして笑った。それから大きな手の平を海老名へ差し出す。
「法名は明空(みょうくう)。俗名は斎藤明空といいます。あなたの名前も教えてもらえますか」
「海老名です。海老名博実といいます」
「ああ、そこは本名だったんですか。てっきり偽名だとばかり」
明空住職は照れ臭そうに頭を掻く。そして「よろしくお願いします。海老名さん」と続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます