⑦
「綺麗でしょう。初夏は鮎なんかも登って来ますよ。ここだけの話、たまにサボって釣りすることもあります」
前方から澤邊が語りかける。さながら観光案内人のような調子で、最後には悪戯っぽく笑った。道沿いに住宅や洋菓子店、古びた電気屋が過る。右手にスーパーが現れて消えた。そこから緑が多くなる。タクシーは緩やかな坂道を登る。一度平坦になった所にガソリンスタンドが建ち、今居る道とは垂直に幅の広い道路が通っていた。信号待ちの間にまた運転手が話し出す。
「これは国道で、日本海側の方まで続いてるんです。途中には温泉地もありますからぜひ一度行ってみてください」
バックミラーに映る目は楽しげだ。地元の人間からすれば面白味などまるでないだろうに、余程生まれ育った土地が好きらしい。
「とても楽しそうですね。よっぽどこの町がお好きなんだ」
海老名は思ったままを口にした。声へ僅かに皮肉めいた響きが滲んだ気がする。しかし運転手に気づいた様子はない。照れ臭そうな声が返ってきた。
「あはは、そう言われると恥ずかしいですね。でも仰る通りです。若い人があんまり出て行くもんだから、他県からの移住計画なんてものもやっていますが、俺はこの町から出る気はないです。見ての通り刺激的な娯楽はありません。でもここが一番自分らしくいられるし、楽しみ方だっていくらでもあります」
「サボって釣りをするとかですか」海老名はすかさず言葉を挟んだ。
一拍の後、運転手は盛大な笑い声をあげる。
「はい、それもありますね」
答える声からは笑いを噛み殺しているのが伝わった。
「お客さんは面白いなぁ」運転手が呟いた直後に信号が変わる。白手袋をはめた手がハンドルを動かし、タクシーは左に曲がった。
国道へ入ってすぐ脇道に逸れる。狭い道路を進むと再び坂道が現れた。勾配は先程より急だ。緑は一層濃く、人里から山の中へ入ったことがわかる。海老名は走るごとに道が狭くなるように感じた。鬱蒼と葉を繁らせる枝が視界に覆い被さってくるためだ。幹との距離も近い。真横からは下生えの藪が車体に擦れる音が伝わった。不穏な振動まで感じ取り、海老名は堪らず大声を出す。
「運転手さん!この道は大丈夫なんですか?」
「いやだなぁ、お客さん。もう澤邊か大輔って呼んでくださいよ」
「何を言ってるんだあんたは!?」
場違いな返答と朗らかさに演じていた役が剥がれそうになる。海老名は一度深呼吸をした。それから舌を噛まないようゆっくり口を開く。
「この道は大丈夫なのか、と聞いているんです。安全面でも、経路についても」
運転手は後部座席を振り向いた。例の屈託ない笑みが海老名へ向けられる。
「大丈夫です。お寺までの道は仕事でもプライベートでも何度も通っていますし。こっちはプライベート用の近道なんですよ」
「わかった!もういい、返事はもういいから前を向け!」
悲痛な声が車内へ響き渡った。直後下向きだった後部座席がシーソーのように浮き上がる。浮遊感の後、車は急勾配を下り始めた。後部座席から悲鳴が尾を引く。スピードは一切落ちていない。にも関わらず、行く先の道は蛇行を繰り返している。
「あはは、ちょっとしたアトラクション気分でしょう」
愉快そうな声が届く。海老名はそれを聞きながら意識が遠のきかけるのを感じた。…気づくと車窓の景色は変わり、平坦な道をトコトコと走っていた。ここはあの世だろうか。虚ろな目で風景を眺める。木々の一本一本がわかる程山肌が近い。杉の群立ちの中へ紫色に光るものが垣間見えた。山肌の傾斜が終わる辺りから田園が敷かれている。まだ水の入っていない田は車が走る道路と山とに挟まれ、長々と横這いに続いていた。反対側の車窓を見る。間近な山を背に、こちらは民家がぽつりぽつりと建っている。どれも農家の家らしく、広い庭の隅に農耕機や農耕具が片付けられていた。前方から悪魔の声が届く。
「ここは山を少し登った所なんですよ。お寺ももうすぐ見えて来ます」
運転手は言った。景色と同じくのどかな声だ。
海老名は化け物を見るような視線をバックミラーに送った。やや垂れたどんぐり眼は絶えず左側を向いている。それが瞬きをし、「あ、着きましたよ!」と声を出した。
海老名はつられてそちらを見た。草に覆われた斜面を背に狭い駐車場がある。斜面の端には石造りの階段が伸び、頂上に木の門が建っている。こじんまりとして酷くボロい。ほとんど朽ちかけと言って良かった。辛うじて乗っている屋根は軒がごっそりと欠けている。その下の木板は黒ずみ、書いてある文字が読み取られない。
唖然としている間に車が停まった。精算を済まさない内に運転席のドアが開き、何故か運転手が駐車場へ降りた。彼は後部座席に回りドアを開ける。
「俺も久しぶりに挨拶がしたくなったんです。どうせなら一緒に行きましょう」
座ったままの海老名を覗き込み、運転手はそう言った。縦に並んで石段を登る。頂上が近づくにつれ海老名の足取りは重くなった。前を行く運転手から見えないのをいい事に、「とんだ徒労だ」という感情がデカデカと顔に書いてある。対する運転手は軽い足取りで階段を登り終えた。山門の向こうに消えた背中を追い、海老名も恐る恐る屋根を潜る。山門の先は墓地だ。夥しい数の墓石が、背後の山々へ抱かれるよう佇んでいる。運転手がその奥へ向け大きく手を振った。山に跳ね返るような大声が出される。
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