⑥
「おはようございます!」と溌剌とした声が届く。何事かと振り返れば少年が一人立っていた。無地の白シャツに紺のスラックス姿は高校の制服だろう。この辺りの学生だろうか?と海老名は首を傾げた。すると受付嬢が親しげな声を出す。
「おはよう、澤邊君。少し早かったんじゃない?」
「何だか目覚めが良くって。張り切って来ちゃいました」
「元気ねぇ。昨日は夜勤だったでしょ。流石の若さね」
「雅さんこそ今日もお若いっすね!」
「あら、ありがとう」と受付嬢が返す。いくつか気になる点はあったが、海老名はその中で最も重大な疑問を投げ掛けた。
「あの、その男の子は?学生さんですよね」
受付嬢と少年はきょとんとした表情を浮かべる。それから弾けたように笑いだした。
「外の人が訪ねて来るのは久しぶりだものね。にしても澤邊君、あなた本当にすごいわ。羨ましいくらいよ」
「格好のせいですかね。でもまさか高校生に間違えられるなんて。嬉しくないですよ」
少年は最後の方で口を尖らせた。受付嬢は目尻の涙を拭いつつ「ごめんごめん」と謝る。そうしてようやく海老名へ向き直った。
「置いてきぼりにしちゃってすみません。こちらは澤邊といいまして、当社の運転手なんです」
「どうも、澤邊大輔です。見た目はこんなですが今年で二十七になります。当然免許も持ってますのでご安心ください」少年…いや、青年だという人物は名乗る。男に使うのはどうかと思うが、愛嬌のある可愛らしい笑顔だった。直後、その表情が訝しげなものへ変わる。次の瞬間、彼は海老名を指差し声をあげた。
「あの時のお客さんじゃないですか!お子さんは無事に産まれましたか?」
当然だが海老名はわけがわからない。今度はこちらが怪訝な顔でいると、「ああそうか」と青年が苦笑を浮かべた。
「俺ですよ俺。あの時のタクシー運転手です」
青年はこう言うやいなや奥の部屋に飛び込む。すぐに戻って来ると、手に持っていた制帽を頭に被った。横を向いた顔が得意げに笑う。海老名は先程の青年よりも大きな声を出す。その横顔に確かな覚えがあったためだ。昨日スーパー前に停まっていたタクシーの運転手。居もしない妻が出産寸前だと騙し、町まで送り届けさせた人物だった。
「あ、ああ。その節はどうも。無事に産まれましたよ。お陰様で」
海老名は答える。どうにか平静を装うが、額にはあの時と同じ冷や汗が湧いた。
「それは良かったです!頑張った甲斐がありました」
青年は満面の笑みで言う。それから丸く大きな目を見開き首を傾げた。
「それで、今日はどんなご要件で?またお遣いですか?」
「お遣い……そう、そうなんです。義母にお寺までの用足しを頼まれてしまって。ほら、なにぶん私くらいしか自由に動けませんから」
「ああ、そうでしたね!義理のお父さんがギックリ腰なんでしたっけ」
「はい、だからバタバタしてまして…」
海老名は困り果てた笑みで言う。どうにか上手く取り繕えつつあると安心した。
「ちょっと、澤邊君。お客様はお待ちなんですよ。立ち話はそれくらいにして早く着替えてきなさい」
受付嬢が叱りつける。眉を吊り上げた顔も可愛く、海老名は自分も嗜められたいとすら思った。
青年はおどけた仕草で頭を下げる。軽い足取りで再び奥に引っ込んだ。急いで支度をしたのかすぐに姿を現す。先程の服はタクシー運転手の制服だったらしい。シャツの上に紺のベストを重ねれば、流石に学生とは見間違えない。職業人の顔になった青年は低い位置から海老名を見上げた。「お待たせ致しました」と屈託ない笑顔で言う。
「行き先は山のお寺ですよね。この辺りにはお寺も一軒しかないんです。最近代替わりした和尚さんは学生時代の先輩なんですよ」
海老名は澤邊という青年を運転手に後部座席へ乗り込む。タクシーは商店街を来た道と反対側に抜けた。左折し橋を渡る。オレンジ色の欄干から覗く川幅は広い。河原にはちらりと遊具が見えた。
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