翌日目が覚めると昼の十二時を回っていた。海老名は頭を掻きながら起き上がる。狭い部屋を見渡し、ボサボサと乱れる髪を掻き上げた。壁掛け時計を確認し顔を顰める。口を開けばガサガサと掠れた声が出た。

「しまった、寝過ごした」

 こう言うや、布団を這い出し立ち上がる。電灯の傘が頭へぶつかりそうになった。慣れた動きでそれを避け、窓際へと向かう。頭上を薄く覆う雲は消え、淡い群青の空が広がっている。町を取り囲む山々は萌え出す緑に輝いていた。

「寺は山の方にあるって言ってたな」

 海老名は呟く。薄く髭の生えた顎を撫で、背後を振り返った。壁の凹凸に引っ掛けるハンガーへ、白とベージュの服一式が吊り下げてある。バッグやビールの空き缶などが散乱する中、皺一つなく伸ばされたそれらには違和感を覚えた。

「まずは身嗜みを整えなくちゃな」

 海老名は言う。舌舐めずりをするかのような声だ。彼は顔全体を意地悪く歪める。それから鞄を漁り、髭剃りと整髪剤を手に部屋を出た。

 二十分ほどで海老名は戻って来る。共同の風呂へ入って来たらしい。髭や目ヤニで小汚かった顔はさっぱりとし、髪も整髪剤で整えられていた。彼は部屋付きの洗面台に立つ。鏡の前に置かれた眼鏡を取り、顔へ掛けた。細縁の丸眼鏡を通すと、狡猾さが全面に出る顔立ちがいくらか緩和される。海老名は仕上げとばかりに目を細めにっこりと微笑んだ。些かの胡散臭さは拭えないものの、柔和な印象を与える人物が出来上がった。

「さあ仕事だ」

 海老名は鏡の中の男に声をかける。洗面台から離れ、畳の上に落ちた鞄を拾い上げる。汚れの目立つボストンバッグではない。革製の斜め掛け鞄だ。ボタンを外し鞄の中身を確認する。白い綿のハンカチとポケットティッシュ、それから箱入りの絆創膏が取り出しては戻される。点検を終えた彼は満足げに頷いた。革靴を履き部屋を出る。

「まずは足が必要だ」

 外を歩きながら海老名は言う。携帯電話を取り出し、手近なタクシー会社を調べた。運の良いことにここからそう遠くない距離に本社があるらしい。海老名は液晶画面の地図を頼りに進んだ。程なくして廃デパートの前に着く。ここから右へ曲がった通りに目的地が示されていた。道路を渡り、通りへ足を踏み入れる。通りは商店街であるらしく左右に店が立ち並んでいる。海老名は一切興味がない様子で足を進めた。半ばを過ぎた所で左手にタクシー会社が現れる。車は一台のみ停まっていた。これを逃すまいと海老名は社屋に駆け込む。受付に居たのは若い女だった。落ち着いた色の茶髪を後ろでゆるく纏めている。おっとりとした垂れ目が可愛い。若い女を久しぶりに見たためか、海老名は眩しそうに目を瞬く。相手も見慣れない人物に驚いた様子だったが、すぐ本来の職務を思い出したらしい。姿勢を正し愛想の良い笑顔をつくった。

「こんにちは。配車のご希望ですか?」

 受付嬢は言う。声も文句なしに可愛いかった。

 海老名は少し狼狽えてから、「ああ。はい、そうです」と答える。

「山手にあるお寺へ用がありまして。地理に詳しくないので道をよく知ってる人に頼みたいんですが」

 受付嬢は胸の前でぱちんと手を合わせた。

「ちょうど良かった。それならもうすぐ遅番の運転手が来ますよ。若いですけどこの辺りにも詳しいので安心してくださいね」

 弾けるような笑顔と手を合わせることで気づいた胸のふくよかさに、海老名はごくりと生唾を飲む。だらしなく鼻の下を伸ばし、「貴女だってお若いじゃありませんか」と返した。受付嬢は「そんなことないですけど。ありがとうございます」とはにかむ。しばらくの間談笑が続く。海老名が山寺へ行く予定を放棄しかける頃、背後で勢いよく引き戸の開く音がした。

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