④
この時、とん、と音をたて、下げた視線の先に握り飯をふたつ乗せた皿が置かれる。握り飯は大の男のこぶし程も大きく、真っ白い米粒がつやつやと輝いていた。海老名は驚いて顔を上げる。
「まったく、見ちゃいられないわよ。そんなに腹が空いていたのかい」
老婆は言う。年季の入った酒焼けらしい酷く嗄れた声だ。カウンターの向こうで腕を組み、野良犬へ餌付けしているかのような表情をしていた。真っ赤な口紅を塗った唇が動く。
「空きっ腹に飲んで悪酔いされても迷惑だからね。早く食いな」
海老名はぽかんと呆けた顔をする。そこへ畳み掛けるよう脅しつけられ、慌てて握り飯に手を付けた。がつがつと貪り食う最中、海老名は正面を窺い見る。老婆はカウンター向こうに置かれたスツールに腰掛け煙草を燻らせていた。顔を横向け煙を吐き出す。弛んだ皮膚に半ば隠れる、力の強い大きな目が横目に海老名を捉えた。
「確かにあんた、見ない顔だね。旅行客ってふうでもない。大方ヤクザか借金取りにでも追われて逃げて来たんだろう」
海老名は本気で動転した。「はっ、えっ、どうして」としどろもどろに声を出す。
「ここは県境の田舎町だからね。たまにそういう人間が命からがら逃げ込んで来る。まぁ、その後はすぐ居なくなるから顔も覚えちゃいないが」
「はぁ、なるほど」
「で?あんたは何をしでかしたんだい。よく見たらヤクザに喧嘩売れるような面はしてないね。大きな犯罪を犯せるタマでもなさそうだ。とすると借金か、それとも詐欺あたりか」
「い、いやそんな。滅相もない」
「無駄な嘘はよしな。小悪党の顔は見慣れてるんだよ」
いよいよ太刀打ち出来ないと悟ったのか、海老名はがっくりと項垂れる。
老婆はそのざまを見て満足したらしく、「まあいい」と言って話題を転じた。
「そろそろ胃も落ち着いただろう。何を飲むんだい」
「…ええと、じゃあ角の水割りを」
「しみったれてるねえ。逃亡劇の真っ最中なんだろう。景気づけにもっとイカしたモンを飲みな」
老婆はぴしゃりと叱りつける。それから自身が座るスツールを半回転させた。酒瓶の並ぶ棚の内、ガラス扉のついた場所へ滑るよう移動する。扉を開け、中から埃を被る瓶を取り出した。拭かれることで現れたラベルに海老名は仰天する。
「ちょっと待て!吹っ掛けるにも大概にしろよババア。山崎の年代物なんて払えるわけねぇだろうが」
取り乱し声を荒らげる態度にも老婆は怯えた様子を見せなかった。それどころか顎を上げ、見下した笑みで鼻から息を吐く。
「いっちょ前に汚い言葉を使うんじゃないよ。クソ坊主が。それに夜逃げ同然の貧乏人にたかるほどアタシは落ちぶれちゃいない。これはアタシからの奢りだ」
「は、奢り?そんな高級な酒を?」
海老名は唖然として呟く。二度目の呆けた顔を前に老婆は吹き出した。
「うるさいねぇ。男ならさっぱり飲みな」
笑いを含んだ声で言いながら瓶の栓を抜く。取り出したロックグラスに球体の氷を入れ、瓶の口を傾けた。とろみのある琥珀色がゆっくりと注ぎ入れられる。響く水音さえ重厚だった。グラスの半はまでを満たした所で注ぎ口が上向く。食い入るように見つめる海老名の眼前にグラスが置かれた。よくよく見れば、そのグラス自体も上等なものに違いない。全体に緻密なカットが施されている。琥珀色の光が複雑に屈折する様は、一顆の巨大な宝石を思わせた。
海老名は恐々とした手つきでグラスを包み込む。煌々と輝くそれを顔と同じ高さに掲げた。その間に老婆は同じグラスへ酒を注ぐ。片手でそれを持ち上げ、カウンターの外へ突き出した。
「あんたもすぐに居なくなるだろうけど、せいぜい旅の無事を祈ってるわよ」
老婆は言う。酒と等しく年輪を感じさせる笑みを浮かべ、グラスを傾けた。
海老名もそれに応え、一対のグラスが重い音を奏でる。海老名は舐めるように酒を飲んだ。一口で脳が酩酊するような味わいなのだろう。蕩けた顔で視線を彷徨わせる。老婆は面白そうにそれを眺めながらグラスの半分を呷った。それから灰皿の煙草を指で挟み、心底旨そうに頬をすぼめる。肺の煙を全て吐き出した所で口を開いた。
「ところで、あんたはいつまでここに居るつもりなんだい」
「いつまでですか」
海老名はオウム返しをする。それから黙り込んだ。何しろほとんど老婆の推察通り、着の身着のまま逃げ出して来たのだ。前の住所は割れているため帰る訳にもいかない。次の行動に移るための資金も計画も、まるで目処が立っていない状況だった。とにかく即金で金が必要だ。うつ向きながら頷く。海老名は金の作り方を思案しつつ正面を盗み見た。目を眇め、恐ろしい形相でこちらを睨む老婆と視線がぶつかる。海老名は慌てて下を向く。内心で激しく首を横に振った。この婆は駄目だと肝に命じる。もっと容易くカモになる人間を探さなければ。
「悪いことを企んでる顔だね」
正面からの言葉に海老名は固まった。黒目だけを上に動かせば、ニタニタと笑う老婆の姿が映る。睨み返す海老名の顔に先程までの狼狽はなかった。
「あんまり口を突っ込むなよ、婆さん」
口を開けば驚く程冷たい声が出る。
海老名はスツールを蹴倒す勢いで立ち上がった。ズボンの尻ポケットから輪ゴムで留めた札束を取り出し、一万円札を一枚カウンターへ置く。
「これはお節介への気持ちだ。だが次からは受け取るつもりはない。老い先短いんだから命を大事にしろよ」
海老名は薄ら寒い笑みを浮かべて言った。後はもう用がないとばかりに踵を返し、所々ペンキの剥げた白い扉へ手を掛ける。店を出る間際、それまで黙っていた声が背中に届いた。
「忠告ありがとうよ。お礼にもうひとつ余計なお節介を焼いてやる。山手にある寺の和尚を訪ねてみな。親の跡を継いだばかりの甘ったれた坊っちゃんで、お人好しだと有名だ。親父がアコギな商売をしていたから、さぞかし金も貯め込んでいるだろうよ」
海老名は嗄れ声を無視する。そのまま力まかせに扉を閉めた。田舎の夜の静けさが破られる。足音が立ち去った後には、水路を流れる水の音だけが残った。
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