「パチンコ打ちてえ」と海老名はぼやく。しかしそんなものは見渡せどどこにも存在しなかった。彼はため息を吐く。「夜になったら飲み屋を探すか」と言ったきり口を閉じ、部屋の中央に寝転んだ。土で薄汚れたバッグに頭を乗せ目を閉じる。程なく高い鼾が聞こえだした。

 目を開けると暗闇だった。海老名は勢いよく体を起こす。酷く慌てた様子で周囲を見渡し、しばらくの間体全体を縮こまらせていた。緊張は突然解ける。暗闇に「あ」という声がして、ごそごそと立ち上がる気配があった。海老名は正面の窓際まで歩く。カーテンを開けたままの窓からは闇に沈む町が見下ろせた。その中に民家や街灯とは違う、けばけばしいネオンの明かりを見つける。

「…飲みに行くか」

 彼は呟く。疲れ切った声だった。キーホルダーの付いた鍵を閉め尻のポケットに突っ込む。服装は柄の悪いものに戻っていた。民家の間から突き出る巨大な影を目印に歩く。人とすれ違うことはなかった。頭から影を被るデパートを通り過ぎ、石畳の敷かれた道に出る。街灯のまばらな通りは闇が濃い。だからこそ、遠くに光るネオンがはっきりと見えた。海老名はピンク色の光に吸い寄せられるよう近づいた。スナックの看板には、「華」というありきたりな名前が書かれている。チョコレート板に似た分厚い扉を引き開けた。途端大音量で吐き出される歌声に度肝を抜かれる。固まる彼に向け、「ちょっと、早く閉めてちょうだい!」と声が飛ばされた。急いで中に入り扉を閉める。既に歌声は止み、歌謡曲の古臭いメロディーだけが流れていた。改めて店内を見る。外観から予想はついたが酷く狭い。泊まっている部屋といい勝負だろう。スツールの三脚並んだカウンターが奥にある。手前には狭苦しいボックス席がひとつのみだ。カウンターの向こうには老婆が立っている。厚化粧でも誤魔化し切れない皺が顔を覆い、首などは細く萎びていた。端から期待などしていなかったが、いくら何でもこれは酷い。大外れ以下だ。海老名は回れ右をして店を出たい衝動に駆られた。

「なんだ、旅行客か?見ず知らずの前では気持ちよく歌えねぇから帰るわ」

 唯一の客が言う。こちらも萎びた老人だ。手にしていたマイクをカウンターに置くと、フィッシングベストの胸ポケットからしわくちゃの札を引き抜く。日に焼け枯れ枝のような手が二枚重なった千円札をカウンターに置いた。「じゃあママ、また来るよ」と老婆に告げ、老人は店を出ていく。逃げ出す機を逃した。そう気づいた時には既に遅く、獲物を狙う目とばっちり視線が合った。

「いらっしゃい。ごめんなさいね騒がしくって」

 老婆がしなをつくりながら言う。

 逆らえるべくもなく、海老名はカウンター中央のスツールを引いた。

 老婆はグラスに注いだ水とおしぼりを出す。それからカウンターの影へ小柄な体を隠した。戻って来た時、手には青色で絵付けされた小鉢が持たれている。「はい、どうぞ」という言葉と共に、小鉢は海老名の前に置かれた。

 海老名は中を覗き込む。薄く切ったちくわと豆苗、それから人参が和えられている。微かに胡麻の香りが立った。小鉢と一緒に渡された箸を割り、摘み上げた一口を食べる。咀嚼するごと、海老名の表情には変化が起きた。徐々に目が見開かれ、顔が強張っていく。彼はがばりと顔を俯向けるや小鉢の中身を掻き込みだした。しかし量はほんのささやかなものだ。手の平に乗る小鉢の中はあっという間に空になる。海老名は飢えた野良犬のような顔つきで青磁の底を見詰めた。

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