②
スキップしかねない足取りでタクシーへ近づく。伴ってフロントガラス下の表示器がはっきりと見えだす。予約車の文字が赤々と点灯していた。海老名はある程度距離を空けた位置で立ち止まる。不愉快を前面に表した顔はしかし、すぐ様何かを企む表情に変わった。
海老名は大きく迂回をする。それから薬局の中へ入った。平日の午後は客の出入りも少ない。まばらに人々が行き交う中、出入り口から一人の男が飛び出してきた。白いシャツにベージュのスラックス、中央で分けられた髪と眼鏡の優男にはどこか見覚えがある。服と髪型を変えた海老名だった。趣味と柄の悪い服一式を入れているのだろうバッグを抱え、彼は一直線に駐車場を横切る。ふらつきながらも走る体は勢いのままスーパー前のタクシーへ飛び込んだ。若い運転手がぎょっとした顔で振り返る。
「ちょっと、困りますよお客さん!これは予約車なんです」
運転手は言う。剣呑を隠しきれない声だ。
「すみません!」
海老名は声を張り上げた。狭い車内へ不相応な声量に運転手が固まる。その隙を突き、海老名は堰を切ったように喋りだした。
「妻が里帰り出産中にいきなり産気づいたんです。今は病院に運ばれたんですが、保険証やら必要なものを実家に忘れてきたそうで。どうしても急いで取りに行かなきゃ産まれてくる子供に立ち会えない」
「えっ、それは大変だ」
運転手は顔色を変える。酷く心配そうな、それでいて使命感に燃えた表情で頷いた。彼は言葉を続ける。
「わかりました。会社には他の車を手配してもらうよう連絡します。それで、行き先はどちらですか?」
「ああ、ありがとうございます」
海老名は言う。感極まった声だ。取り出したハンカチで噴き出す汗を拭う。
「実は妻の実家に来たことがなくて、妻や親族も動揺していたものですから、ここから一番近い町としか説明されてないんです。いや、聞いたんだったっけか。何しろ僕が一番動揺していまして…」
「それはそうでしょう。しょうがありませんよ」運転手もっともだという態度で頷いた。存外若いらしい、人懐っこそうな横顔がにっと笑う。
「安心してください。それくらいが分かれば問題ないです。俺はここら辺が地元ですから」
「しっかり掴まっててくださいよ」と声がかかるや、タイヤがギュルギュルと音をたてる。激しい摩擦音に海老名はぎょっとして声を出した。
「あの、安全運転でお願いしますよ。警察に捕まっては困りますから」
「ははは、お客さん心配症ですね。非常事態だったら警察も見逃してくれますよ。田舎ってのはそんなもんです」
快活な笑い声をあげた後、運転手の青年はことさらにアクセルを踏み込む。海老名は天井の手すりに掴まりながら、アルコールスプレーで作った汗が本物の冷や汗に変わるのを感じた。特徴的な建物が目に入った所で彼は声をあげる。
「あのっ、ここで、ここで大丈夫です。下ろしてください」
「ここですか?もう少し行くと交番があるので、そこで詳しく調べてもらおうと思ったんですが」
「いえ、もう十分結構ですので」
海老名は応える。同時に手元の携帯電話へ目を落とした。
「義父から迎えに来ると連絡が入ったんですよ。目立つ建物の近くに居てくれと書いてあるので、あのデパートの所で待とうと思います」
「ああ、あれですか」
運転手はちらりと右側を見た。家々の屋根から頭一つ飛び出た建物が車窓に映る。
「あれは廃墟ですよ。遠くから見る分には立派ですが実際にはおんぼろで、震災の後は崩れる危険性があるっていうので立ち入り禁止になってるはずです」
「もう少し行くと道の駅があるのでそこまで行った方が」と続く言葉を海老名は強く遮った。運転手は多少怪訝そうにしながらも、気の動転故と判断したのだろう。それ以上食い下がることをせず、指示通りの場所で車を停めた。
「ふざけんな。お巡りに顔を覚えられてたまるかよ」
遠ざかっていくタクシーに向け海老名は言う。それから首を捻り、背後の建物を見上げた。「趣味の悪い建物だな」と端的な感想を述べる。後は興味を失った様子で頭の向きを戻した。交番を避けて町を歩き回り、外れに建つ宿泊施設を見つける。ホテルとは名ばかりの古びた二階建てだ。すんなりと部屋が取れ、二階へ案内された。八畳の角部屋で窓が二つついている。愛想のない中年女が部屋を出た途端、海老名はその場へどかりと腰を下ろした。胡座をかき天井を見上げる。所々に茶色い染みのある木目と、吊り下げ式の傘付き電灯が視界に入った。一息吐いた後、彼は立ち上がる。道中のコンビニで買った缶ビールを袋から取り出しプルタブを開けた。正面の窓際へ近づき、缶へ口をつけながら外を見る。廃デパートは通りを二本挟んで向こうにあった。直線上に個人病院の看板を下げた二階建ての建物があるため、ここからは屋上だけが見える。馬鹿げた成金趣味の御殿は、薄曇りの下で虚勢を張るようふんぞり返っている。他には民家と商店街、それから少しの飲食店があるばかりだ。全体的に彩りの乏しい、いかにも寂れた田舎町という眺めだった。
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