⑥
「やめ、で……やめで」
私は老婆のような嗄れ声で訴えました。踏みつける足から逃れようと手足をばたつかせると、頭の上で鈴を転がすような声が。途端重さが消え、体が自由になりました。私は必死の思いで空気を吸い吐きします。次の瞬間背中へ浴びせかけられた衝撃を、すぐには理解できませんでした。まず頭を占領したのは痛みです。背中全体が焼かれたようで、それは熱湯をかけられたからだと遅れて気づきました。叫びかけた口を素早く塞がれます。細く滑らかな指は私の唾液塗れになりました。滑りを借りたそれらは束になった状態で喉奥へ潜り込みます。嘔吐感が込み上げ、私は繰り返し激しくえづきました。
「こんなにされても噛んだりしないのね」
ぼやけた意識に声が流れ込みます。それが誰のものかわからず、私は視線をさ迷わせました。生理的な涙で目までぼやけていたからでしょう。私の視界いっぱいに、またあの白い花が現れました。以前より一層白く冴えた花びらが頬に触れます。天鵞絨に似た肌触りは、溶ける寸前の淡雪のような冷たさでした。
「笑っているの?おかしい人」と声がします。指摘されるまで、私は自分の口角がだらしなく上がっていることに気づきませんでした。ずるりと口の中から異物が抜けていきます。私は確かにそれを寂しいと感じました。
息も絶え絶えに倒れていた私は、突然上の服を捲り上げられたことではっきりと意識を取り戻しました。
「えっ?何?」と言いながら身を起こそうとします。すると上から声が降りました。
「動かないで。薬を塗るだけだから」冷静に告げる声は陽子さんのものです。
先程までと打って変わった様子に混乱しつつ、私は言われた通りにしました。すぐ側で立ち上がる気配がします。足音は一度遠のき、また近づきます。直後、ひんやりと濡れた感触が背中に落ちました。その後にひりひりとした痛みが追いかけてきて、私は顔をしかめました。
「少し赤くなってるわ。けれど沸騰する前のお湯だったから、火傷にまではならないはずよ」
陽子さんは言います。その手はゆっくりと丁寧に薬を塗り拡げていました。
「そうなんですね。良かった」
私は思ったままを口に出しました。
背中を撫でていた手が止まります。呆れたようなため息が体の上で吐かれました。
「…馬鹿なのかしら」
陽子さんは歯に衣着せぬ物言いをします。それが何だか可笑しくて、私は肩を震わせました。
もう一度ため息を吐いた後、陽子さんは「寒いでしょう」と言葉を続けます。私の返答を聞く前に立ち上がり、何か重そうな物を引きずってきました。ガチガチと荒っぽい音がして、後からぼうっと温かくなります。ストーブの熱に身を浸していると、疲れがどっと押し寄せて眠くなります。私はいつしかうとうとと微睡んでいました。
少しの息苦しさを感じ、私は瞼を持ち上げました。下着のホックを留められたからだということは、身についた習慣から自然と理解出来ました。
「薬が乾いたから起きていいわ」
そう言われ体を起こします。直立して見る景色はとても久しぶりなように感じました。元通りに下ろした服は濡れて着心地が悪く、ストーブの存在があっても身震いが置きます。すると目の前に白いシャツが差し出されました。
「脱いでこれに着替えて。その間に車を出してくるから」
陽子さんは言います。彼女の着ているシャツと差し出されるものはよく似ていました。
お揃いのシャツを着て車の助手席に乗り、自宅まで送り届けられます。私は最後まで夢見心地のまま遠ざかっていくライトを眺めました。
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