「わあ、びっくりした」と声があがります。陽子さんは雑貨の整理をしていたらしく、お店の入口近くに立っていました。瞬きをする顔はやはり草を食む無害な動物の印象を受けます。対して私の形相は血肉を啜る凶暴な獣のように見えたでしょう。目を血走らせ、開き放しの口から荒い息を吐きます。呼吸の合間にどうにか声を出しました。

「あの、本を……」こう言ったきり、私は言葉を続けられません。肩で息をする様子を眺め、陽子さんは「ああ」と声を出しました。

「本ね。もちろん準備しているわ」

 彼女はこう言って背中を向けます。カウンターまで歩き、奥の壁に手を掛けました。明るい色の木目がそのまま横へずれます。音をたてず、暗い奥の間が現れました。

「通りへ面した建物にはよくある形なのよ。うなぎの寝床っていうのかしら」

 驚く私に陽子さんが言います。

「わざと隠していたわけでもないの。同じ材質の板にしたらピッタリ嵌っちゃったのね。取っ手もシンプルにしたから余計に…」

 言葉の途中で靴を脱ぎ、陽子さんは部屋へと上がります。それから私へ向けて手招きをしました。

「繭子さんも入って来て。本は奥の箪笥に仕舞ってあるの」

 私が恐る恐る近づく間に陽子さんは壁のスイッチを押します。得体の知れなかった部屋は蛍光灯の光によって照らし出されました。その場に立ってみれば何てことはない六畳間の和室です。更に奥の部屋があるようで、向かい側には障子の貼られた襖が立っていました。

「そっちはトイレと台所よ。小さいものだけどね。今お茶を入れて来るわ」

 陽子さんは襖を開け居なくなりました。隙間から見えた眺めは確かに奥行きもなく、簡易的な流し場があるだけです。部屋の中央で手持ち無沙汰にしていると、カチカチとコンロに点火する音が聞こえてきました。しばらく戻って来ないのをいいことに、私は自分の居る部屋をじろじろと眺め回します。置いてある物は少なく、壁際に折り畳み式の古風なちゃぶ台が立てかけてあります。その隣にはこれも古めかしい箪笥が。しかしよく手入れをされているようで、濃い茶色の木目も黒い鉄製の取っ手も艶々としています。ここにあの本が入っていることを、私は今更になって思い出しました。足音を忍ばせ畳の上を歩きます。箪笥が少しづつ近づくにつれ、息は乱れ動悸が早くなります。一歩また一歩…畳を擦る足はついに立ち止まりました。自分より少しばかり背の低いそれを見下ろします。取っ手のついた引き出しは全部で六つ。息を詰め、私は右側の上段に手を伸ばしました。

「あら、いけないわね」

 斜め後ろからの声に息の根が止まる思いをします。弾かれたように振り返れば、襖の前に陽子さんが立っていました。手には湯呑み茶碗を二つ乗せたお盆を持っています。陽子さんはちょっと困ったような笑みを浮かべました。

「私が来るまで待てなかったの?今出すから少し待ってね」

 彼女は言います。それから自分の手元を見下ろし、再び口を開きました。

「まず湯呑を置かなくちゃ。そこのちゃぶ台を組み立ててくれる?」

 壁際のちゃぶ台を目で示されます。私は頷いて真横に移動しました。折り畳まれた状態のまま部屋の中央に運び、一本一本脚を伸ばします。四本全てが伸びたところで畳の上に立たせました。この時、前屈みになった私の背中へ柔らかな感触が触れます。服越しにじんわりとした温かさも伝わりました。次に強い力が加わります。伴って触れるものの形がはっきりとします。私はそれが人の足裏であることを感じ取りました。激しい音をたて、胴体がちゃぶ台の上に叩きつけられます。脚との接続部分がぎしぎしと軋みました。胸をまともに打ち付けたせいで息が出来ません。私は濁った声を掠れ掠れに洩らしました。ただでさえ呼吸が続かないところに背中への圧迫が追い打ちをかけます。肩甲骨の間に置かれた足は退く気配を見せず、それどころかじわじわと力を増しているように思えます。

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