④
正方形の絵の中で行われる惨たらしい光景に私は言葉を失います。どれほど時間が経ったのでしょう。すぐ隣から届いた声に私は肩を跳ねさせました。
「びっくりしちゃったかしら。ごめんなさい」
陽子さんの声が耳をくすぐります。こそばゆく心地良かった響きがどうしてか恐ろしく、私はそちらを向くことが出来ません。ぴくりとも動かない私に構うことなく、陽子さんは言葉を続けました。
「あなたの好みからいって、きっとこういうのも好きじゃないかと思ったんだけれど…違っていたみたいね。本当にごめんなさい。嫌な気分になったでしょう?」
視界の外から白い手が伸びます。指先が画集の角を摘み、棚から取り出そうとしました。「待って」と誰かの声がします。とても近い場所から聞こえましたが、陽子さんではありません。それが自分の喉から飛び出たものであることに、私はずいぶん遅れて気づきました。信じられない気持ちでいると、鈴を転がすような笑い声が鳴り響きます。耳に温かく湿った息がかかりました。私は本の表紙から視線を引き剥がし真横を向きます。鼻先が触れ合うほどの近さに真白い顔がありました。黒目がちな目は柔らかく潤んでいます。それから、私の顔は大きな白い花に覆われました。花の蜜に似た香りがして、半分開いた唇が花芯の冷たく濡れた感触に触れます。覆い被さっていた花が離れると、陽子さんの顔がまた現れます。彼女は一歩後ろに下がり、にっこりと笑みを深めました。
「この本は繭子さん専用に取っておくから、欲しくなったらいつでもいらっしゃいね」
それからどのようにして帰ったのかを、私は全く覚えていません。気づくと自宅のソファに座りぼんやりと窓の外を眺めていました。主人が借りてくれた借家は平屋の戸建てアパートで、リビングに大きな窓と縁側があります。遮る家々がないため、二枚のガラスへは空が大写しになります。レースのカーテン越しに見る色は濃紺でした。下の方へわずかに、熾火のような赤が燻っています。私はぶすぶすと煙を立ち昇らせそうな部分を見つめます。意地悪く夜空を焦げつかせようとする火が、自分の胸にも移ったように感じられました。
再び書店を訪れたのは一月後のことです。その日はレストランの仕事がお休みでした。加えて主人が朝から実家に用事があり、そのまま泊まるというので、私は午前中から時間を持て余していました。家事を一通り済ませ本を読んでいる内にようやく日が傾きだします。刻々と変わる空の色を眺めながら、私は深く安堵のため息を吐きました。今日も彼女の元へ行かずに済んだ。その思いからです。しかし同時に、安堵よりも強い焦燥が胸を焦がしてもいました。いつもであれば仕事を終えた主人が帰って来る頃です。しかし今日に限ってその予定はなく、一人で過ごす長い夜が始まろうとしていました。私は膝上の本を閉じます。ハードカバーのそれは私が書店を訪れた最後の日に買ったものでした。男が一人の少女を美しい女に育てあげ、自分の伴侶にする物語です。美しく育った女はやがて妖艶な悪女になり男を破滅させます。…私は破滅したいのでしょうか。窓の外のへ視線を向けます。何度も見てきた熾火を目の前に眺めながら、心の中で呟きました。私は財布だけを手に外へ出ました。冷え切った空気がより一層体内の火照りを覚えさせます。自販機で飲み物を買うだけという言い訳はそこを過ぎた途端消えました。地域で唯一のスーパーは反対方向です。
「読む本が無くなってしまったから」そう、読む本が無くなってしまったからだと繰り返し口にします。うわ言のように呟きながら進めた足は、目当ての通りに差し掛かる手前で止まりました。目の前には巨大な影が聳えています。不気味な輪郭があの可愛らしいデパートであることに気づくまで、いくらか時間がかかりました。
建物に背を向け商店街へ足を踏み入れます。そこからの眺めもまた雰囲気が異なりました。おもちゃ箱のように賑やかだった店々は灯りを消し、シャッターを下ろして、暗闇の中に輪郭だけを浮かび上がらせています。街頭がぽつりぽつりと落とす白い光が、より一層辺りの暗さを際立てました。私は歩き続けることを躊躇います。この時、視線をさ迷わせた先に一軒の明かりが見えました。足が勝手に駆け出します。わざわざ道の反対側から覗うことなく、私はガラス戸の向こうに飛び込みました。
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