「なんだか嬉しそうだね。いいことでもあった?」

 その日の夜、先に帰っていた夫と夕飯を囲んでいた時です。向かいに座る夫がこう問いかけてきました。私はどきりとします。それからすぐ自分がそう思ったことを不思議に思いました。私は食べていたものを飲み込み、正面へ笑いかけます。

「この町に住めて良かったと思ったの。風景は素敵だし、何よりいい本を置く本屋さんがあるから」

「本当?それなら良かった。いや、本当に良かった」

 主人は満面の笑みで言います。それから卓上の缶ビールを掴み一気に呷りました。酔いの回った目がじっとこちらを見ます。

「そういえば、働くのはいつからだっけ?」

「来週の頭から」

「そう。仕事もすぐ見つかって良かった。近所のレストランだよね。あそこは昔からやってる店なんだよ」

 話し続けながら、主人はどこか心ここにあらずといった様子でした。それでいて、視線は絶えず私へ注がれています。主人はこのあと私を抱こうとするだろう。そんな確信がありました。そして私はそれを拒まないでしょう。主人以外との男性経験はなく、行為に苦手意識があります。でも今晩は別でした。彼に抱かれる必要があるとすら考えていました。夜更け、隣の布団から潜り込んでくる気配に、私は暗闇の中で開いていた目を閉じました。

 新しい土地での生活は思っていたよりずっと色鮮やかなものになりました。勤め先のレストランは三角屋根のおとぎ話に出てきそうな建物で、地域の人々はもちろん、遠方からもたくさんの来店があります。二代目だという店主夫妻は要領が悪い私にも優しく、忙しいながらも仕事は楽しく感じられました。…嘘です。人付き合いが苦手で陰気な私が見知らぬ土地での生活を楽しいと思えるのは、たった一人の存在があったからでした。昼過ぎまでの仕事が終わると、私は決まって家とは反対方向へ足を向けます。少し歩いたところのT字路を左に曲がれば、色褪せたペンキに彩られた廃墟が現れました。屋上の御殿では今日も金のシャチホコが尾ビレを上げています。私は道路を渡り、通りの中へ入りました。駄菓子屋を過ぎ、八百屋を、豆腐屋を…そして木造の喫茶店の前まで来たところで立ち止まります。道を挟んで向かいにある平屋の建物。ガラス戸の向こうを目を凝らしました。奥のカウンターに人の姿を見つけると心臓が跳ねます。影の中の白い顔は、夕暮れ時に咲く花のようにぼんやり光って見えました。戸口へ近づくと、こちらに気づいたらしい顔がほころびます。私もはにかみながら会釈をし引き戸を開けました。中へ入ると木と古びた本の匂いに包まれます。

「こんにちは。お仕事帰り?」

 店主の陽子さんが尋ねます。

 私は「ええ」と頷きました。同時にシャツへついた油汚れを思い出し、上着の前を閉めます。慌てた仕草を誤魔化すよう足早に本棚へ向かいました。整列した顔ぶれを眺め「あ」と声を出します。

「また新しい本が入ってる」

「熱心に通ってくれるお客さんがいますから」

 陽子さんが言います。からかうような笑いを含んだ声でした。耳がくすぐったくなる声は続きます。

「主人も喜んでいて、繭子さん好みの本を選ばせてくれたの。このままいくとあなた専用の本棚になっちゃいそうね」

「そうなったら、お店ごと買い取らなくちゃ」

 私の柄にもない冗談に、陽子さんは声をあげて笑いました。心地良い音を聞きながら、私はさっそく新顔の本を引き抜きます。手に馴染むハードカバーには好きな作家の名前が書いてあります。本当に私の好みを熟知してくれていることに胸が熱くなりました。その一冊を胸に抱いたまま棚の端まで移動します。カウンターから一番離れたそこは板の間隔が広く取られています。絵本や写真集、大判の画集などが収まっているためです。その中で一冊だけ表紙が見えるよう陳列されていました。私はぎょっとします。目に飛び込んできたものが、お店の雰囲気とあまりにかけ離れていたからです。それは大判の画集でした。平面的な画風、単調な色彩から浮世絵であることがわかります。赤い縄が一本、松の枝から下がっています。その先では半裸の女性が逆さまに吊るされていました。筆一本で肉感的に描かれた女性の体へ、赤い縄が痛々しく食い込んでいます。しかし最も鮮やかな赤は女性の喉から噴き出る鮮血でした。肉づきの良い顎から伸びる真っ白な首。その中央がぱっくりと裂け、噴水のように赤い血を撒き散らしているのです。紅色をした見事な模様の着物が、腰からだらりと垂れ下がっています。同じように力なくぶら下がる腕は、手首に赤い縄が巻きついています。柔らかな二の腕の間には絶命する女の顔がありました。元は涼しく切れ長だったのだろう目を見開き、こぼれ落ちそうな眼球は黒目がぐるりと上を向いています。紅の剥げかけた口からは桃色の舌が小さく垂れていました。

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