またしばらく歩いたところで私達は石畳の道を逸れました。風情があって美しかった町並みは、そこから突然、パッチワークのように模様を変えます。手前にカラフルな雲の暖簾を下げた蕎麦屋さんがあります。その隣には出窓があって、鉢巻きをしたお爺さんがせっせと手を動かしている様子がガラス越しに見えます。近づくにつれ、小麦と卵を溶かし混ぜて焼いた優しい匂い。それから、餡やクリームの幸せな匂いが漂ってきました。私は為す術もなく引き寄せられ、主人とそれぞれ一種類づつを買いました。温かい生地とカスタードクリームを口いっぱいに頬張りながら、私は十字路を挟んで斜向かいに建つ建物を見上げます。

「これは…何?」

 私は尋ねます。それくらい風変わりな見た目をしていました。古い建物です。廃墟になってずいぶんと経つのでしょう。壁を彩るペンキはすっかり色褪せ、ところどころが剥げています。白や緑、赤色などは、化粧品や雑貨、おもちゃの絵を描いています。一昔前らしい絵や文字が、ぼやけてしまった色彩と相まってなんとも言えず可愛らしいのです。何より興味を引くのは屋上に建つ御殿でした。冗談のように聞こえるかもしれませんが、本当に言葉の通りなのです。端の反り返った瓦屋根が堂々と聳え、棟の両端には、シャチホコでしょうか。金色の魚が一対、ぴちぴちと尾を上げています。小さなデパートの上にお城の天守閣が乗っている。まさにそんな風でした。

 ぽかんと見上げる私に主人が話しかけます。

「今でいうディスカウントストアみたいな所だったんだよ。屋上には小さいけど遊園地なんかもあってね。小学生の頃、上に建ってる経営者の家に友達と遊びに行ったっけ。いかにも成金って感じの中身だったなぁ」

 説明を聞きながら、私は当時の御殿の中を空想しました。極彩色の絵が描かれた白磁の壺は、子供一人がすっぽり入りそうな大きさです。窓枠は全て金色に縁取られています。廊下は転びそうなほど磨き上げられていて、案内された部屋には真っ赤な絨毯が敷かれているのです。そこへ踏み込んだなら、まるで降り積もった雪の上を歩くように感じられることでしょう。夢見心地のまま促され、私は後ろを向きました。途端に「あっ」と声をあげます。目の前には一本の通りが伸びていました。幅は狭く、車一台がやっと通れる程度のものです。その両端に様々なお店が並んでいました。縞模様の庇の下に新鮮な野菜と果物を溢れさせた八百屋が。縁日のように色とりどりののぼりを立てた駄菓子屋が。また、向かい側には洋菓子店や古本屋の看板が…。それらは交互に入れ代わり立ち代わり、入口に立つ私を誘惑するよう連なっているのです。私はふと、とある小説の一節を思い出します。深い山間に突然現れる夢のような街並み。幻想的で惹かれた物語の舞台に、この町は似ていると思いました。

「素敵ね」

 私はうっとりとため息を吐きながら通りへ足を踏み入れます。主人は黙って後を着いてきました。銀サッシに嵌るガラスの向こうでは、頭巾に割烹着姿の奥さん達がせっせと働いています。使い込まれた水槽を覗くと、真っ白な豆腐が一面に敷き詰められ、ひたひたと水へ浸っているのが見えました。豆腐屋を通り過ぎると現れる木造の古い建物。格子窓からは座り心地の良さそうなソファーや可愛らしい木のテーブルが見えます。今日はお休みらしいてすが、どうやら喫茶店のようでした。今度必ず来ようと心に決め、私は建物に背を向けます。そこから見えるのは私が何より念願にしていたお店でした。こじんまりとした平屋の建物です。壁は薄い緑色。オレンジがかった瓦屋根が太陽を浴びて、飴をかけたようにつやつやとしています。庇の下には看板が掛かっていました。小鳥が一羽ずつ、羽を休めるよう両端に描かれています。間には『古書店コマドリ』という文字が。私はいよいよ我慢できず足を踏み出しました。店先に立ち、ガラス戸から中を窺います。壁や床は明るい色の木目に覆われています。手前には同じ木で作られたテーブルがあり、細々とした雑貨が並べられていました。引き戸を開け中へ入ります。正面奥のカウンターに人は居らず、ひっそりと静まり返っていました。左手には本棚があります。とても、とても大きなものです。壁に備え付けの、というより、壁一面が本棚になっていると言うべきでした。数えて四段ある棚には本の背表紙がずらりと敷き詰められています。分厚いハードカバーから文庫本、それから絵本や雑誌などが、種類や高さによって揃えられていました。背表紙たちは澄まし顔の新品ではなく、どれも少しくたびれて、その分親しみのある人懐っこい印象を受けます。私は本棚の前に立ちそれら一冊一冊を眺めました。いつからか主人の気配はありません。本のことになると没頭してしまう私を気遣ってのことでしょう。ありがたく思いながら、引き続き本棚を物色しました。没頭した意識が戻ったのは声をかけられた時です。

「あら、すみません。お客さんに気づかなくて」と女性の声がしました。

 驚いてその方向を見ます。先程まで誰も居なかったカウンターに人が立っています。私と同じ位か、少し年上でしょうか。目鼻立ちは控え目で、肌の白さが印象的でした。綺麗な卵型の顔が傾くと、顎先ほどの黒髪が流れます。小鹿のようにつぶらで黒目がちな目が瞬きをしました。

「どうかしましたか?」

 尋ねられてはっとなります。

「いいえ、あの…素敵な本屋さんですね」

 私は慌てながらどうにか言葉を返しました。

「ありがとうございます。気に入ったものはありました?」

「はい、何冊か。本の取り揃えが良くてびっくりしました」

「私の主人が隣町で古書の卸業を営んでいるんです。その中からここに置かせてもらっていて、定期的に入れ替えているんですよ。だから次にいらした時にはもう置いてないかもしれませんね」

 女性はこう言っていたずらっぽく笑いました。私も自然と笑みがこぼれます。冗談めかしたセールストークに乗せられる形で本を二冊買いました。会計をする際、カウンターの端にも小物が陳列されているのに目が留まります。他の雑貨もそうですが、看板に描かれた小鳥をモチーフにしているようでした。本を紙袋へ包みながら女性が口を開きました。

「そういえばお見かけしないお顔ですよね。ご旅行ですか?」

「あ、いえ。主人の地元に嫁いで来たんです。今日は散策をと思って」

「ああ、さっき表に居たのがご主人ですね」

 女性は頷きました。

「私も移り住んで来たんです。主人と一緒に東京から。この町っておしゃれなお店が多いでしょう。昔からのお店ももちろんありますけど、移住して来た人達が始めた所も多いんですよ」

「どうりで。とても素敵な町だと思ったんです。古書が好きなので、特にこのお店に出会えて良かった…」

 ここまで口にして、私は自分がいつになく饒舌なことに気づきました。同時にそれ以上どう話していいかが分からなくなります。私は口ごもりながらうつ向き、小さく頭を下げます。そうして足早にお店を出ました。

 随分と長い時間が経っていたようで、外は日が暮れがかっていました。通りは青暗く沈み、頭上では透き通った金色が茜空に射していました。鼻から空気を吸い込むと奥がつんと痛み、金属っぽい冬の匂いがしました。私は胸の紙袋を抱え直します。温かい気持ちになりながら、ゆっくりと家路を辿りました。


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