喫茶店を出た先は繁華なアーケード街になっている。半透明の屋根を透して光の降り注ぐ中を、連れ立って歩く学生や百貨店の袋を提げた老婦人達が楽しげに行き交っている。ガラスの押し扉を潜り抜けた途端、見計らったように両脇から男達が現れた。海老名は左右を固められ、強張った笑顔のまま直進を余儀なくされる。一見たまたま同じ方向へ歩いているような集団は、アーケードを横断し路地へと入った。それを抜けるとごく狭い通りに出る。細々とした飲食店が軒を連ねているが、どの店も扉を締め切り静まり返っていた。集団は寂しい小路をまた横断する。次に現れるのは先のアーケード街と並ぶほど広い通りだ。しかしその性質はまるで正反対と言っていい。道の両側には様々な外観のビルが立ち並んでいる。大理石のように黒く磨かれた外壁であったり、白亜の宮殿風であったり。それぞれ異なった趣向を凝らしているが、どれひとつをとっても下品な印象を拭えない。ビルの上部にはけばけばしい色の看板が連なっている。夜になればさぞかし賑わうのだろう歓楽街をも集団は通り抜けた。

 現れたのは入り組んだ路地裏だ。これといって特徴のない雑居ビルが視界を塞ぐよう犇めいている。いや、よくよく見れば特徴らしい特徴がちらばっていた。一目ではわからないような看板に休憩や宿泊の文字、それから料金らしい数字が書かれている。若い女と老人の姿はいつの間にか消えている。スーツの男と海老名、その両脇の男ふたりが一段と古く外壁の汚れた建物へ入った。分厚いガラス戸を押し開けると狭いホールに出る。ひどく薄暗い。電灯は天井からぶら下がるひとつのみだが、それすら明かりをつけていなかった。加えて人の気配もない。このような建物にありがちな目隠し付きの受付は見当たらず、代わりにボタンの並ぶパネルが壁に掛けられていた。各ボタンの上には三桁の数字が書かれている。先頭に立つスーツの男が斜め上のボタンを押した。特に反応はないが構わないという様子で次の行動に移る。背広の後ろ姿は黙ったまま暗がりの奥へ歩きだした。海老名の足は根が生えたようにその場から動こうとしない。この時それまで口を開かないでいた人物が声を出す。海老名の右隣に立つ男だ。口にしたのは「おい」という一言だけだ。それに対し海老名は大袈裟なほど体を揺らした。細められていた目がわずかな開きを見せ、小さな黒目が下へと向けられる。薄暗がりの中、ガラス戸から射し入る光を反射するものがある。脇腹に突きつけられるナイフの刀身だった。切っ先が潜り込むように動くと微かな悲鳴があがる。その後の彼は再び従順になった。暗闇へ足を進め、突き当りのエレベーターに乗り込む。息の詰まる空間から吐き出され、均等に扉の並ぶ薄暗い廊下を進んだ。横並びになれるほど幅がないため縦一列になっている。ナイフは真ん中に挟まれる海老名の背へ突きつけられた。先頭を行く男は廊下の突き当りで止まり、右手の扉を開ける。

 細長い入口から部屋へ入る。背後で扉の閉まる音を聞いた直後、海老名の後頭部を強い衝撃が襲った。前のめりにふらついた所へ背中を蹴りつけられる。彼は倒れ込むと同時に大きく咳き込んだ。間を開けず額中央で分けた髪の付け根が掴まれ、前へと引きずられる。引き攣れた悲鳴が小さくあがった。数歩分移動した所で動きが止まり、頭上から声がかかる。

「これくらいされてもデカい声ひとつあげないか。ずいぶん拉致られ慣れてるな」

 髪から手が離された。海老名は床に這いつくばる。靴先で額をごつかれようやく顔を上げた。低い位置から見上げる視界はほとんどベッドに占められている。取り囲む壁の近さからして部屋自体がそれほど広くはない。室内がベッドに占領されているという印象はあながち間違ってはいないのだろう。薄目で室内を見渡した海老名は正面を見た。ぶらぶらと揺れる革靴の先がすぐ目の前にある。そこから視線を上げれば脚を組みベッドへ座る男と目が合った。黒光りする肌の男はこちらを見下ろしながら笑っている。しかし笑顔の種類が先程までとは違っていた。ニタニタと楽しげな、惨たらしいことを平気でする人間の顔だ。男は言葉を続ける。

「店でもそうだった。女かジジイを突き飛ばして逃げることも出来たのに、端からそれを選んじゃいなかった。外に仲間が居るだろうと踏んでいたんだな。どうだ?」

「…あとが酷いのは、勘弁ですので」

 海老名は答える。細めていた目が徐々にはっきりと開かれた。そうすると、こちらも驚くほど人相が変わる。瞼が薄い吊り目の三白眼。細い鉤鼻に、肉の薄く歪んだ口。面長な輪郭も相まってまるで蛇のようだ。海老名は乱れた髪の間から相手を見上げた。男は「ふん」と虫けらを見るように目を細める。

「おおかた、跡が着くんで殺しまではされねぇとでも高を括ってるんだろう。大胆なんだか小賢しいんだかわかりゃしねぇ。詰まる所、小狡い馬鹿ってとこだな。ぶんぶん飛び回る蝿みたいな奴だ」

「しかしなぁ」と言葉は続く。

「蝿に肉を掻っ攫われちゃ、こっちもたまったもんじゃねぇんだよ。あの女、これから絞りがいが出てくるところだっただろう。独身OLの作れる金なんざたかが知れてるが、結婚すりゃ旦那の口座から引っ張れる。借金の保証人にもなって一石二鳥だ。…それをみすみす見逃すなんざ、喉から手が出るほど悔しいよな」

 男が視線を持ち上げる。薬でもやっているのだろうか。どろりと澱んだ目が左右に動いた。海老名は自身の両側で人の動く気配を感じ取る。

「俺も同じ気持ちだ。そういう意味じゃあ俺達は同胞だな」

「あ、あの、助け…」

「安心しろよ、俺だって腐っても神の信徒だ。お前の読み通り殺しはしねぇよ」

 こう言うが最後、男は興味を失った様子で顔をそらし煙草を吸い始める。すぐに両側からの暴力が海老名へ降り掛かった。


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