【因習村不仲バディシリーズ①】翻弄

疋田匹

第1部①


 窓から白々とした光が射している。天から降る階のような中を、埃が天使の羽のように舞っている。喫茶店の二階は閑散としていた。週半ばの昼過ぎという時間だからだろう。十ほどあるテーブルはその内の三席のみが埋まっている。空のコーヒーカップを前に船を漕ぐ老人が一人。あとは二組の男女だ。不自然なほど黒光りした肌の男が、だらしなく肌を露出した若い女へ勤務時間と金額の説明をしている。若い女はスマートフォンを弄りつつ金の話にのみ反応を示した。もう一組は窓際のテーブルを挟んで向かい合い、和やかに談笑をしている。先程の男がダークスーツと日焼けした肌であるのと対照的に、こちらは全体が白い印象だ。日当たりの悪い場所で育った胡瓜のような顔をしている。薄い色の髪は緩く波打ちながら顎辺りまで伸びている。服装は無地の白いシャツにベージュのズボン。糸のような目を柔らかく弛め、男が口を開く。

「そうですか、いよいよご成婚ですか。それは本当におめでとうございます。お幸せになってくださいね」

「ありがとうございます」と女が言葉を返す。しかしながら、こちらはどうも手放しで喜んでいる様子ではなかった。声には気恥かしさと滲み出る誇らしさがある。三十路をとうに過ぎただろう浮腫んだ顔へ、似合わない濃い化粧が塗りたくられている。赤すぎる頬は微笑みに持ち上がっているものの、テカテカとした唇の描く弧はぎこちない。殴られたような色の瞼が、とうとう憂いを隠しきれなくなったという風に伏せられた。

「あのでも、ここまで応援してもらっておいて本当に申し訳ないんですけれど、あたしまだ不安に思っていることがあるんです」

「ええ?」男は素っ頓狂な声を出す。

「どうしてです。婚活も成功して、貴女はこれからずっと幸福なはずでしょう」

「概ねですよ。概ね成功です」

 女は概ねという部分を唾を飛ばすほど強調した。

「だって、こう言っちゃなんですけど、十分に満足できるはずがないじゃありませんか。相手は太っている上に背だって低くって…年なんて十近く離れているんですよ。友達にも紹介できやしないわ」

 女はテーブルへ肘を付き、手の平に肉づきの良い顎を乗せる。それから長々甘酸っぱい臭いのする息を吐いた。今度はわざとらしく横を向き、腫れぼったい瞼に潰されかけた流し目を送る。

「ねぇ、海老名さん。でもあたし貴方には感謝してるの。碌でもない婚活会社に騙されていたあたしを救ってくださったんですもの。合格点には程遠いけれども、希望の期間内に結納することが出来ましたし…。どうぞこれからも相談に乗ってくださいね。…あら、でも人妻になってしまったら難しいかしら」

 海老名と呼ばれた男は柔和な笑みを殊更深くする。「とんでもありません」と慈愛に満ちた声で言った。

「私は自分の信じる正しい行いをしているだけです。これからも貴女が道に惑うことがあれば、お手伝いをさせて頂きますよ」

「素晴らしい。それでこそ私達の同胞です」

 突如第三者の声が挟まれる。海老名と女は驚いてその方向を見た。フロアの人数は変わっていない。ただ先程まで座っていた三名が立ち上がり、窓際の席へ正面を向けている。老人も、若い女も、スーツの男も、揃って朗らかな笑みを浮かべていた。黒光りする頬を持ち上げ、スーツの男が口を開く。

「率先して迷える人を救おうとする精神は大変尊い。…ですが、魂を分かち合う友と歩みを等しくしないのはよくありませんね。私達は唯一神の御下において、常に一体でなくてはならないのですから」

「ちょっと、どういうことよ」と声があがる。座ったままでいる女が発したものだ。動揺と怒りのためだろう、顔中の肉がぶるぶると震えている。女は重い瞼の下から海老名を睨みつけた。

「何?怪しい宗教?困っているあたしにつけ込んで騙そうとしていたって訳?ふざけないでよ」

 両手がテーブルに叩きつけられる。女は立ち上がりフロアを突っ切ると、荒々しい靴音と共に階段を駆け下りていった。海老名はけたたましい音が遠ざかる方向を見送る。それからのろのろと顔の向きを変えた。いつの間にか歩み寄っていた三名が真上から海老名を見下ろしている。それらは変わらず型押ししたような笑顔だ。海老名の細めた目尻がひくりと引き攣った。


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