【遺稿】「紫斑」

蘆 蕭雪

「紫斑」

            「紫斑しはん」      藤尾瑛臣        



 右の白脛しらはぎに痣が浮いていた。紫玉しぎょく*の磨り潰された斑の残痕だった。

 私の幻視は、知己の細い脚を現世に呼び起こした。私は彼との間にある秘密を持っていた。遠い記憶に遡り、彼の白皙に浮かんだ内出血の黒ずんだ斑点を見た。熟れた野葡萄の果実を潰した青痣。所々、紫の痕が、柔い皮膚の肌理に滲み、果汁が染みついた打撲の痕が濁っていた。

 彼が隠していた「」を知ったのは小学六年生の頃であった。

 彼との秘密は、その陰惨な青痣と密接な関係を有するもので他言を憚る。しかし、なお私の胸裡には、無邪気で残虐な稚戯の喜びが斑の痕を捺していた。素直に白状すれば、人倫や道徳に頓着するわけではなかった。記憶に封じた筈の、子供の頃の衝動が紫の血栓のように凝り続けていた。私は、彼に懐く衝動が、頭蓋から外界に漏洩することを忌避しただけなのである。

 油断をすると、迂闊に青痣などを見た時に発露しそうになった。

 私の実家は、小藩の転じた地方都市の旧城下町にあった。周囲の地名も、往時の来歴に因んだものが多く、寺社仏閣などが点在する閑静な街だった。当時、私は受験制の、近所の公立小学校に通っていた。珍しく、制服の指定があり、学生帽に詰襟の上着と膝上丈のズボンを履く決まりだった。黒の制服に、黒革の指定の通学鞄ランドセルを背負って歩いて行った。近隣では、市立の学校に通う子供の方が多かった。制服姿で通学鞄を背負う子供は好奇の目で見られたものである。

 彼とは、小学一年生の時、五十音順で並んだ前後の席で縁を持った。

 以後、二年生で級友となったきり親交もなかった。六年生の時、再び同級となり、やはり苗字の都合で前後の席で顔を合わせたのだ。互いに背丈も伸び、黒い詰襟とズボンの丈が不釣り合いになっていた。数年来の再会に、私は純真な喜びよりも強い違和を覚えた。違和の原因は、彼の鋭い目元にあるように思われた。幼い頃、彼は黒目勝ちなつぶらな瞳の少年であった。正月の黒豆の、艶やかな豆のような黒目が愛らしかった。子供に特有な、頬を包む色白の求肥の肌に愛嬌を添えていた。三年の歳月に、彼の幼気いたいけな容色も褪せてしまったらしい。瞼を細めて、檜扇をひろげた睫に射干玉ぬばたま*を覗かせていた。潤んだ目の、薄い水面のみなぎる濡れたような瞳ではない。

「おはよう、今年は同じクラスらしいね。二年生の時も一緒だっただろう」

「ああ、そうだったかもしれない。今年一年よろしく頼むよ」

 何時しか、彼は模範的な優等生になっていたらしかった。記憶では、天衣無縫といった無邪気な子供だったはずである。つばを摘んで学制帽を脱いだ拍子に、彼の後れ毛がうなじに墨のような糸を引く。整えた黒髪が、櫛の跡が刷毛目に見えるほどつややかだった。上着の釦を、堅苦しく詰襟まできちんと閉めて着崩れもない。新担任はどうだろう、と言いながら彼が通学鞄を背中から下ろした。予鈴を合図に、登校時間の刻限を悟った同級生が廊下から駈け込んできた。

 喧騒に紛れ、彼との挨拶もおざなりに済んでしまった。翌日、私が登校すると、彼は前の座席で読書に勤しんでいた。分厚い本は、四六判の文学全集か何かだったろう。彼の姿は敬虔な信徒が経典を黙読するに似ていた。近寄れば、彼のほうから顔を上げて目顔で挨拶を寄越した。未熟な子供心にも、不穏な違和を抱かずにはいられない。昨日の直観が、まったくの的外れでなかったことを察したのである。私は、躊躇する間、通学鞄を背負ったまま思案を巡らして、

「君は、なんだか随分と雰囲気が変わったみたいだね」

「『男子三日会わざれば刮目して見よ』────と言うじゃないか、」

 更には、莞爾と笑んで「三年経てば別人だよ」と皮肉屋の軽口を叩く。剽軽ではない、諷刺の類のさかしらに醒めた声色である。顔の造作も、高い鼻筋は象牙を彫り出した琴柱。頭蓋骨が、美童を彫刻したままのような面貌だった。彼の童顔に底知れぬ畏懼を覚えながら、私はどこかはすに構えた同級生を眺めた。四六判の頁の端を、彼の指が手慰みのように弄んでいるのは稚気の戯れだろう。悪戯いたずらを企む顔で、「読書が好きなら貸してもいいけれど」と言われて断った。

 彼は、意想外な、つまらなそうな顔をしながら紙面に目を落とした。

 すると、途端に私の方も、暗愚にも垂涎の誘惑を拒んだように思われてきた。咄嗟に口を開いて、「実は宿題が終わっていないんだ」と嘘を吐いた。宿題など、長期休暇の課題は提出してしまって、新担任に昨日課されたものもが知れていた。稚拙な発想で、そう言い繕えば、彼に教授を乞えるのではと思ったのである。実際の所、勉学に優れているかどうかまでは知り得なかった。彼は、即座に嘘を看破して、真黒い射干玉の双眸で覗き込むように見た。

「宿題なんてないくせに。でも、そうだな、今日の放課後は暇だよ」

 唆す口吻に、私はまんまと籠絡されてしまったことを悟った。以後、彼と私は、放課後を共に過ごすようになった。大抵は、学校の図書館で宿題をして時間を潰した。彼は学校まで、私鉄の列車と自動車バスとで往復していた。下校の時も、最寄りの停留所まで連れ立って歩くことが常になった。四月が過ぎた頃、雑談から近所の寺社に遊びに行く話になった。私の家が近所で、小学校のある小山の麓に古刹があったのである。件の古刹は、地元の武将の縁者を供養した菩提寺らしかった。古刹の鬼門には神明社の社があり、地元の子供の遊び場になっていた。また、古刹にしても、雑木林を切り拓いた墓地が階段に続いていた。近所の子供は、境内や墓地でなどをした。私達にとっても、冒険や探検にはすこぶる都合のよい場所だったに違いない。

 放課後になると、彼を連れて山の裏手の坂道を下っていった。

 坂の周囲も、街衢には新築の民家が混み合っている。しかし、麓まで降りると、青緑の木立が古刹の裏手に繁っていた。山の頂上に、鬱葱とした稜線が覗いて、静謐な鎮守の森のように小高い丘陵が盛り上がる。古刹は、麓の街路に面して本堂を構えて墓地を開拓したらしい。薬医門やくいもんを潜って、境内を横断すると階段になった墓地を登っていく。境内の高札には、寺の建立や供養の経緯などの仔細が書き込んであった。武将の妻、何某の菩提が、遠目にも塔のような立派な墓に弔われている。彼は、私の前を、墓地の頂上を目指して先導するように歩いた。私達は、御影石の乱立した、薄灰色の*の脇をかが石階いしばしを慎重な足取りで登った。

 その時、彼が蹴躓き、角の取れた石階に蹲るように身を屈めた。

 慌てて近寄れば、彼の膝から脛の辺りに濃紫の斑が散っていた。最初、私はそれが何か理解することができなかった。恐らく、白靴下が下の方へとずれ落ちたのだろう。素肌に、縦縞の圧が掛かって、その縞模様に紫色の斑点が浮いている。観察すると、新品の手巾ハンカチに果汁が滲んだような紫の青痣であった。打擲か、折檻か、仕置きの類の虐待の痕跡ではないかと勘付いた。

 私が視線を注ぐと、彼は今度もがばれた目付きをして、

「ああ、見られてしまったね。別に撲たれているというわけじゃないんだ」

「そんなに痣がつくもんか。机の角で打ったとは思えないよ」

 否定しながら、私は膝頭を食い入るほど凝視した。猜疑の念もあったが、彼の身上に迫る魔手を恐れてもいた。反面、一抹の昂奮を覚えていることに忸怩を覚えた。紫色の斑点が、無垢に生白い肌を淫らに汚している。鼕鼕とうとう*たる鼓動が、静かに沸騰する情動を手指の末梢まで送り込んだ。出来心、悪戯心だなどとは到底言えなかった。不埒ふらちな情動は、罪悪感へ通じる後ろ暗いものだった。彼を気遣って声を掛けたが、私の胸中に巣食った悪性は見透かされていた。

 幼い羞恥心と、彼に対する畏怖とを煮え滾らせて頬を染めた。

「見たいんだろう。ほら、見て、────これが君が気になっている痣だよ」

 と、彼の言葉に、私は高尚な主命を受けた臣下の如く頷いた。

 彼の指が、白い靴下を足首の方まで脱いで見せた。鬱血の斑痕が、完熟した紫玉の潰れた果汁の頻吹しぶきとなって散っていた。素足で葡萄を踏みしだく乙女の蹠を窃視する心地がした。頭を垂れて俯いた鼻先に、芳醇な葡萄酒の匂いが立ち込める気さえした。香気が、饐えた生血のような酸味と鼻腔へ雪崩れ込んだ。彼の瞼の狭間で、真黒に熟した果実の二顆が濡れながら光っている。私自身も、この期に及んで、口達者に言い逃れができるとは思わなかった。

「これは、僕が自分でつけたんだよ。自分の身体なら、幾ら傷つけたって文句は言われないだろう。何をしたって怒られやしないからね。僕は鬱憤を晴らすのに自分を痛めつけているんだ。こうして、なるべく人の目に触れにくいようなところを選んでね」

 狡猾な彼は、私の動揺を見計らって石段の上から声を掛けた。墓場の片隅が、彼を祀る祭壇へと続く階段のように思われた。墓石の傍らで、やすりも掛けない石積みの階段を固唾を飲んで見詰めていた。脳裡に、壊してしまった繭細工の鼠が浮かんだ。土産物の白鼠を、桑の実と同じ手巾に包んで汚したことがあった。鼠の目元に果汁が滲んで青痣を拵えたのだった。私はただ、自分の悪性を直視することに怯えていた。その怯懦きょうだは、踏絵を拒むに似て、彼の細い御脚を遠退とおざけずにはいられなかった。繭細工に、私は執拗な蹂躙と慰撫とを加えたのではなかったか。顔を上げると、彼は石階に足を組み、私の鼻先に斑の残痕を捺した白脛を晒していた。

「誰かに言っては困るよ。僕達だけの『』なんだからね」

 私は首肯するほかはなかった。彼の態度には、有無を言わせぬ迫力があった。

 初夏の日陰で、詰襟の制服が息苦しいほど幼い胸が詰まった。巌しい石階の上に、裏山に続く木立の葉叢を漏れた陽がそそいでいた。しかし、彼が緘口かんこうを強いた、そのに違いない自傷癖は夏が近づくにつれ影を潜めた。夏場を迎え、学校でも水泳の授業が始まったからである。まさか白靴下で隠し通すわけにもいかない。読書で鬱憤を晴らすためか、放課後も図書室に籠ることが増えていった。夏の炎天を避けて、冷房の効いた室内を選んでいたのかもしれない。もっぱら、宿題を済ませてから、国内文学や児童文学の書棚の間を眺めていた。私の方も、彼に助力を乞いながら宿題に取り組んだ。見立て通り、彼は勉学に長けた優等生として地歩を固めつつあった。

「別に、勉強さえすればいいんだ。試験の成績がよければ文句は言われない」

「それでいつも鬱憤が溜まっているなんて、不健康な生活だね」

 私が勉強に飽きて、学習帳の上に鉛筆を転がし始めると世間話が始まる。授業の感想が常だったが、彼の気紛れで身上話を聞かされることもあった。小声の内緒話は、ほとんど愚痴めいた独白だった。彼の家庭は、どうやら熱烈な勉強主義者の派閥らしかった。彼の父親が医者の家系で、受験の勧めも父親の半ば厳命である。試験の成績が落ちると、激しく叱責されるのだと呆れた顔で言った。低学年の頃は、それでもまだ今と比べて自由な生活であったのだと笑う。

「うちの生徒は少なからずそうだ。それに君はもっとだろう」

「不健全だなんて失礼だな。僕だって、今もちゃんと勉強してるじゃないか」

 肩を竦めたが、夏服の白襯衣には冷汗の筋が滲んだ。窓硝子が、青く澄んだ夏空を、塩素の効いた水槽プールの縹色に透かした。の指摘は、彼の白い両脚をみすみす見逃しているからに違いない。水泳の間、彼の無傷の脚を見たことがない。平板な胸にも、腕や白脛にも目を注いだことはなかった。青痣のない脛には、墓場の石階で覚えたような情動は起こらないのである。夏の日向では水飛沫が細鱗さいりん*と躍るばかりで、自傷癖の痕跡をまったく見出せないのだった。

 その無関心を、彼は確かに見抜いて不健全だと揶揄しているに違いない。

「そろそろ夏休みだからね。僕もようやく我慢せずに済むよ」

 と、彼が私の前で、転がしたままの鉛筆を拾いながら言った。固唾を飲むと、彼の童顔が酷薄な笑みを浮かべた。背中に白襯衣が張りついて身が縮む思いがした。彼の掌がそっと秘密を晒すように鉛筆を差し出す。指も、脚も、白皙は雪像めいて青褪めていた。そして、「今度、夏休みに家に遊びに来ないか」と誘った。私の方も、悪癖を共有する教唆であることを察した。

 その誘いを無碍に断るほど、甘美な誘惑を撥ね退ける理性がなかった。

 八月の上旬、最寄駅で待ち合わせて自宅を訪ねて行った。彼の実家は、城下町から離れた旧街道沿いの僻地にあった。昔の宿場町で、陣屋や代官屋敷などが遺っていた。松並木の間を、古刹や旅籠はたご跡の史跡を見ながら歩いた。街道には、黒甍を並べた町家の列が夏日に鱗のように耀いている。彼の案内に随うと小旅行の気分だった。街道の、土瀝青アスファルトで覆われた舗装路は、甃石しきいしよりも烈しく足元を照り返している。目にも眩い鋪路を、彼が真新しい帆布地の白靴で踏み締めて歩いて行く。麦稈帽ばっかんぼうに白襯衣と紺のズボンを履いた背中を追った。松並木から、旧街道の街路沿いを抜けて交叉点の角へ出る。彼の屋敷も、戦前の医院の名残らしく、板塀に囲繞いにょうされた立派な屋敷には白壁の蔵が覗いていた。以前は、医院の看板を掲げていたのだと門前で立ち止まる。

 私は些か面食らったが、数寄屋門を母の手土産を手に携えて潜ると、

「今日はありがとう。お友達が来るなんて初めてなんです」

 噂の父親は仕事でおらず、彼の母親が愛想よく嬉しそうに出迎えてくれた。

 彼の言う通り、大塀造らしい瓦屋根の母屋を構えた屋敷だった。母屋の二階に、彼の私室である子供部屋が置かれていた。軒で日当たりは良くないが冷房は効いていた。八畳間の畳敷きは、勉強机に寝台ベッドのせいで窮屈そうに見える。絨毯であれば、家具の重みで毛脚もすぐに傷んでしまうだろう。古畳にも、勉強机や寝台の四脚の痕が窪んでいる。本棚も、子供用のものが一つきりで、洋箪笥には夏服の制服が掛けてあった。私は、陰気な牢屋のような部屋に思われて、

「何だか意外だな。本棚がたくさんあるのかと思った」

「あの人は図鑑や事典しか買わないんだ。読書は誰にも内緒の趣味なんだよ」

 曖昧に頷けば、彼は麦稈帽を脱いで寝台に腰を下ろした。寝台には、薄白い麻の敷布団と、毛羽立った薄布が掛けてある。私は皺の寄った敷布シーツをまじまじと見た。その皺が、彼の寝相を思わせて、無意識に勉強机の椅子の方へと後退る。彼は優雅に足を組むと、私に見せつけるように濃紺のズボンの裾を捲り上げた。右脚を、膝頭まで露白あらわにしながら誘うように笑む。贅肉のない白脛、無傷のままの両脚がまっさらな肌理を晒した。そして、彼は靴下を摘むと、惜しげもなく足指から脱ぎ取った。私は瞬きもせずにじっと身を強張らせた。彼のくびれた足首が、湯を浴むように白妙の敷布を滑る。狡獪な彼は、ポケットの手巾で足指の汗を拭いながら視線を投げた。

「君は、僕の足を痛めつけていいと言ったたらどうする? 僕は、自分の身体を傷つけられればいんだよ。だから僕は、わざと片足だけ手を出さずにおいたんだ。君が、僕の足をってもいいように。君と僕とで、この悪癖を共有してみたいとは思わない?」

 彼の足先が、私の背後にある勉強机の抽斗を指差した。

「ほら、そこに竹尺があるだろう。しならせて打ちつけるんだよ」と言う。

 私は瞬きもせず、自分の悪性を指摘された恐怖で黙っていた。彼は、私が胸中に秘めた悪徳を唆しているに違いない。無邪気な残虐性の発露のように心臓の鼓動が早鐘を打った。彼の教唆に乗れば、竹定規で白脛を甚振いたぶり欣喜するだろう。抽斗の中に、竹定規があるとして、それを手に取ることが怖ろしかった。繭細工にも、私は執拗な蹂躙と慰撫とを加えたのだ。自傷痕ではなく、彼に対する折檻に、罪悪感と嗜虐の昂奮を覚えないとは言えないのである。

「なんだ。君も存外、意気地のないつまらない人間なんだな」

 彼は、意想外な、諦念と落胆の籠った顔で退屈そうに溜息を吐いた。

 頭の中で、閃光弾が爆ぜたような衝動が迸った。抽斗から、竹定規を取ると、手に靴箆のように握って寝台へ近づく。躙り寄れば、彼が怯えたように生唾を飲む音がした。片膝を立てて、彼の右足首を掴んで太腿の上に攫うと竹定規を白脛に宛がう。そして、撓むほどしならせた竹尺を白脛へ打ちつけた。骨の脇の、柔らかく筋肉の弛んだ肉叢ししむらに板がめり込む。象牙の肌は、まだ求肥の質感を残し、竹定規に撲たれる度に肉の潰れる手応えが響く。私は、無我夢中になって、意固地になったように折檻した。その度に、鼕鼕と疼く鼓動が、彼の白脛を打ちつける打擲の音と拍子を取った。自傷癖の幇助に、私の手指は神経を病んだように痙攣して震えていた。

 最早、誰に指摘されるまでもない。私は他者を痛めつける悪性を秘めていた。

 彼の身体が、無防備に背中から敷布へと倒れ込んだ。真白な麻布に、黒髪が墨のような糸を引いて垂れた。緊張が弛緩して、私は堪えていた息をゆっくりと吐き出した。しかし、冒瀆的な衝動は御しきれなかった。彼の左脚も紺色のズボンの裾を捲った。左脛には、無惨な内出血の青痣が斑に浮いていた。葡萄や、桑の実の果汁が、そのまま脚に噴きかかった紫の斑点である。

 素肌の肌理に、濃紫の内出血が滲んだ斑痕に指を触れようとして、

「君、と言うのは知っているかい。紫斑とは違って、死体の皮膚に浮かぶ紫色の斑点のことだそうだ。青痣に似ているけれど、死体の血液が溜まって出来るらしい。こうして寝転がっていると、本当に死斑のように見えてくるだろう。いっそ、惨忍な君のことだから、」

 僕の首を絞めてみたらどうだろう、と言われて総身の血が引いた。

 麻酔が醒めたように、私は激しい動悸で戦慄する身体を震わせた。彼の白脛が、部屋の冷房で悴んで亡骸のように冷たい。敷布の上に、彼の寝姿が横たえられた遺体に見えた。白脛の、紫斑の群れが死斑に思われた。敷布団と、紺のズボンの裾に、華奢な脚が青褪めた白皙をくっきりと晒した。惨忍な本性と情動とを自覚せずにはいられなかった。彼を陰惨に打擲した挙句、最後には首を絞め上げる。子供心にも、悪戯や稚戯の範疇を超えて正気の沙汰ではない。

 と、階段が軋んで、彼の母親が近づいていることに気がついた。

 私は、竹定規を手離すと、急な用事を思い出したと告げて家を辞去した。

 真夏の帰路を、熱射病に罹患したような足取りで帰った。最寄駅までの間、黒甍の家並みも史跡も、蜃気楼が朦朧と立ち現れた異界であった。夏休みが明けても、私は彼の傍に近寄ることをしなかった。彼の方も、読書に勤しむばかりで声も掛けなかった。九月を過ぎ、運動会の練習が始まると、地面に膝をついて組体操を堪えていた。練習の間、潔白な脛に紫斑の痕跡を探し続けた。彼の自傷癖が幻覚でなかったと思いたかったのである。しかし、彼の両脚は何時までも白いままだった。運動場の日向に、彼の足裏が熱砂を蹴立てて埃が巻き上がった。



【注釈】

* 紫玉:熟れた果実のこと。

* 射干玉:檜扇(ヒオウギ)の果実。黒い球形で、黒や髪にかかる枕詞。

* 卵塔場らんとうば:墓地や墓場のこと。卵塔は墓石の一種で卵型の塔身が特徴。

* 鼕鼕:太鼓などが鳴り響く様子。またそれをあらわした擬態語。

* 細鱗:細かい鱗。また小魚のこと。(本文は後者の意味)



* 本稿の初出は、同人誌『明媚』(一九九三年 絵國淑哉共著)です。

* この作品はフィクションです。自傷、暴力や虐待等に関する記述がありますが、肯定や助長する意図はありません。また、法令等に違反する行為を推奨する意図はないことを明言します。

* 題名の「紫斑」は、厳密な医学用語としての紫斑を指すものではありません。紫色の斑や死斑の同音異義語としての命題です。また、この命題に、誤謬を膾炙かいしゃする意図がないことを明記いたします。右記について、読者諸氏の賢明な判断による鑑賞を求める所存です。

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