非現実な日常の中で

黒蓬

音が消えた日

 目を覚ますと、世界が静寂に包まれていた。


 それは、ただ単に「静か」なのではなく、「音」という概念そのものが消え去ったかのような感覚だった。


 ——耳鳴りすら聞こえない。


 いつもの朝なら、隣の部屋で母が朝食を作る音、外を走る車のエンジン音、時折聞こえるカラスの鳴き声など、意識しなくても耳に入る音があった。しかし、今は何一つない。


 寝ぼけた頭でスマホを手に取る。アラームが鳴っているはずなのに、振動するだけで音はしない。


「……え?」


 自分の声すら、出ているのか分からなかった。


 パニックになりながらベッドを飛び降り、部屋を出た。リビングに向かうと、母がソファに座り頭を抱えていた。俺が下りてきたことに気づくと、暗い表情で俺に向かって口を動かした。おそらく「おはよう」と言ったのだろう。しかし、それすらも音がしない。


 俺は慌てて耳を塞ぎ、もう一度開いてみた。


 ——何も変わらない。


 母の表情が一瞬怪訝なものになり、次の瞬間ハッとしたようにまた口を動かした。「もしかして、あなたもなの?」と言っているのが唇の動きで分かった。


 俺は声にならない悲鳴を上げながらテレビをつけた。ニュースキャスターが何かを喋っているが、無音の映像が流れるだけだった。


 スマホでSNSを開く。トレンドには「#世界の音が消えた」というタグが並んでいた。


 ——俺だけじゃない。


 これは、世界全体で起こっている異変なのだ。


―――――――――――――――――――――――――――


 登校する道すがら、街は異様な光景だった。人々は皆、静寂の中で困惑している。誰もが口を動かしているのに、音はしない。クラクションを鳴らそうとしている運転手が苛立ってハンドルを叩くが、音はない。


 俺は親友の中村と合流した。


「お前も聞こえないのか?」


 中村は無言で頷いた。いや、彼も何か言っているのだろうが、やはり聞こえない。


 しばらくお互いにジェスチャーで会話を試みた後、俺たちは学校へ向かった。


―――――――――――――――――――――――――――


 学校に着くと、教師たちが何とか授業を成立させようと必死になっていた。黒板に書いたり、スマホのメモアプリを活用したり。しかし、説明が思うように伝わらず、教室はただただ混乱するばかりだった。


 それでも、俺たちはこの「音のない世界」にも少しずつ順応し始めていた。


 人は音を失っても、コミュニケーションを諦めるわけではない。身振り手振り、表情、書き言葉——あらゆる方法で伝えようとする。


 昼休み、屋上に向かうと一人の少女がそこにいた。


 彼女は俺のクラスメイトの篠宮だった。普段からあまり目立たず、クラスでも静かな存在だったが、今日はさらに静寂の中に溶け込むように、ただ空を見上げていた。

 気になった俺はそっと彼女の近くに座った。彼女は一瞬こちらを見たが、すぐにまた空に視線を戻した。

 しばらくの沈黙が続いた後、篠宮は小さく口を開いた。


「やっと、落ち着いた」


 その言葉は、音ではなく唇の動きで理解した。


「落ち着いた?」


 俺はスマホのメモにそう打ち込んで見せた。


 彼女はゆっくり頷く。


「私は、生まれつき聴覚障害があったの。補聴器をつけて、少しは聞こえていたけど……完全ではなかった。でも、今日、世界が静かになって、初めてみんなと同じになったんだ」


 その言葉に、俺は返す言葉を失った。

 彼女は静かな笑みを浮かべた。


「今まで、私だけが静寂の中にいた。でも、今日は世界が私に寄り添ってくれている気がする」


 俺は何も言えなかった。彼女の視線の先、青空は変わらず広がっていた。

 その時、遠くの方で何かが爆発するような衝撃が走った。


 ——そして、世界に音が戻った。


 人々の叫び声、鳥の鳴き声、風の音、全てが一気に押し寄せてきた。

 俺は耳を塞いだが、それでも音は止まらない。

 篠宮は静かに目を閉じ、そして、ゆっくりと補聴器を外した。


「また、独りになっちゃった」


 彼女の言葉は、今度は音として確かに俺の耳に届いた。

 その瞬間、俺は何とも言えない感情に胸を締め付けられた。

 世界は、あまりにも残酷だった。

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