最終話 選ばれし聖女
こちらを見ながらヘレナを嘲笑していた者たちの前に、氷の矢が突き刺さる。顔をかすめるようにして、飛んできた矢によって、野次馬たちは思わず腰を抜かす。まるでヘレナ以外を寄せ付けないかのようにして、氷の柱が白竜のまわりを取り囲んだ。
「ヘレナ!」
取り残されたヘレナを心配して、アミーカが叫ぶ。しかし、彼女は無事だった。白竜が羽を広げて飛び交う氷の矢からヘレナを覆い隠していたのである。
『お前は、ヘレナと言うのだな』
低く落ち着いた声がする。耳に心地よいその声は、頭上から降ってくる。ヘレナが驚いたように顔をあげると、そこにはこちらを見下ろす白竜の姿があった。薄水色の長いまつ毛の下から澄んだ青い瞳が覗く。美しくも、自分より何倍も大きな存在に囲われて、ヘレナは声が出せなかった。
すると、白竜は先ほどよりも優しい声で続けて言った。
『驚かせてすまない。だが、これでもう不快な声は聞こえないだろう』
その言葉にヘレナは思わずはっとなる。先ほどまでの嘲笑はもう聞こえない。彼女の視界に広がるのは、広げられた美しい羽根だけである。
「……助けて、くれたの?」
『助けてもらったからな』
「………!」
白竜が少し顔を下げる。ヘレナは思わずぎゅっと目をつぶったが、何もされないと分かると、恐る恐る目を開ける。
凛々しい竜がこちらを優しく見つめていた。澄んだ青い瞳はとても美しく、見ているだけで吸い込まれてしまいそうになる。ヘレナが呆気に取られていると、白竜の声が聞こえた。
『私は、長い間深い悲しみの中にいた。私を一番に愛してくれた大切な人を失ってからずっと』
「……それってもしかして、先の大聖女様のこと?」
思わず口にして、はっと我に返る。しかし、白竜は優しく答えてくれた。
『ああ。たしかに彼女は人にそう呼ばれていたね』
懐かしい記憶をたどるように白竜が言う。
『生まれて間もなく、私は天界からこの世に聖獣として召喚された。とても小さく、まだ力の弱かった私を人々は使い物にならないと切り捨てたが、彼女だけは私を信じて守ってくれたんだ』
やがて、聖獣は成長と共に力を増し、人々にも認められるようになった。そして彼は、自分を守ってくれた心優しい聖女を自身のパートナーとして選んだのだという。二人は国の安寧を守る最前線に立ち、聖女は大聖女と呼ばれるようになった。
『だからこそ、彼女が亡くなった時は相当堪えたよ。心にぽっかり穴が開くとはこのことかと、思い知らされた』
沈んだ声色からも彼の辛い気持ちが伝わってくる。ヘレナは思わず目を伏せた。
大聖女の死後、失意の中にいた聖獣。それでも、彼の役目は国の安寧を守ること。大切な人が亡くなっても、この世は変わらず続いていく。国を守る結界に綻びが出れば、それを直す必要があり、魔獣が人里に現れれば、その脅威から民を守る役目がある。
しかし、聖獣はそんな自分の役目を全うする気にはなれなかった。
そんな時、魔獣の目撃があった森に他の聖女たちと出向いたことがあった。しかし、任務に集中できずにいた聖獣は皆とはぐれてしまったのだという。
『だが、私は焦らなかった。むしろ、このまま役目から退いて、森の中で消えてしまいたいとさえ思った。私はすっかり、聖獣として国を守るという自分の使命を忘れていたんだね』
そこからの記憶は酷く曖昧だという。気づけば酷い痛みに襲われており、その姿は醜く変化していた。何をしても痛みは消えず、食べるものもない。ただ、見知った聖女たちには醜く堕ちた自分を知られまいとして、見つからないように逃げながら過ごしてきた。
そうして長い年月が過ぎ、彼はすっかり自我を失っていた。聖獣として過ごした記憶も薄れ、ただの獣のように自らを襲う痛みと空腹にさいなまれていた。そうして彼は、ヘレナと出会ったのである。
『お前が自分の命を賭す覚悟で私を救おうとしてくれたから、私は全て思い出せたんだ。聖獣としての使命も、彼女がくれた誰かを想う優しさも、全部』
そして、聖獣は続けて言った。
『ヘレナ、私を助けてくれてありがとう』
端的ながら温かな感謝。その感謝の言葉は、ヘレナが聖女になってから、はじめて送られた感謝の言葉だった。
『私の痛みに気づいてくれてありがとう』
優しい声が響く。嘲笑に荒んだ心に温かなぬくもりが広がっていく。その広がりと共にヘレナの視界はぼやけていった。やがてそれは大粒の涙となって、彼女の目からポロポロと零れ落ちていく。止まらない涙に驚きながらも、ヘレナは聖獣に答えて言った。
「こちらこそ、助けてくれてありがとう」
涙を流しながら微笑むヘレナ。聖獣はそんな彼女に応えるようにして言った。
『私はこれから君の力になると誓おう。私を守ってくれた彼女のように、君を守り、君を傷つける声から遠ざける。だから、もう自分に絶望しなくていい』
聖獣がそう言った時、周りを取り囲んでいた氷の柱が少しずつ解けていった。きらきらと氷の粒が宙を舞う。目を覚ました白竜がヘレナを守るように佇んでいるのを見て、野次馬たちは、呆気にとられたように口を開けている。ただアミーカや、遅れてやってきたらしい他の聖女たちは白竜の穏やかな様子を見て、安堵しているようだった。
ヘレナもまた、一気に集まった視線に困惑していた。しかし、聖獣はまったく気にしていないようで、皆の前で改めてヘレナに言った。
『私はお前を選ぶ』
「…………? 選ぶって……?」
『私が選んだ聖女のことを、人は大聖女と呼ぶらしいな』
優しい声で聖獣はいたずらに笑う。優しいからかいを含んだ言葉。しかし、それは冗談などではないらしい。
『さあ、手始めに結界の修復だ』
「え……!?」
『私が不在だったばかりに、結界に綻びが生じている。民の性根がいくらかねじ曲がっているのもそのせいかもしれないからな』
そう言って、聖獣はヘレナを嘲笑していた民をぎろりと睨む。碧い瞳が細められ、野次馬たちは震えあがったように言葉を失った。
『ヘレナ。天空結界の魔法は習っているか』
「習ってはいるけど、私の力じゃ、きっと……」
国全体を覆う天空結界を作るためには大きな力が必要となる。聖獣が不在の間も、その維持は全ての聖女たちが総動員で行われていたほど。そんな大役が自分に出来るとは思えなかった。
『もちろん私も力添えする。だが、ヘレナなら大丈夫だ。なんたってお前は、聖獣を救った大聖女なんだから』
力強い言葉をくれる聖獣。しかし、ヘレナはすぐに頷くことができなかった。迷うヘレナに、聖獣は続ける。
『お前が死ぬまで、私はお前の力となり、助けとなる。だから、これからは、自分をなじる小さな言葉が無数にあったとしても、私の声を信じてほしい』
「私だけでは不満か?」と尋ねる聖獣に、ヘレナはふるふると首を横に振る。
「わかった。やってみる」
ヘレナは意を決すると、魔法を発動するために両手を組んで詠唱を始めた。
日が暮れかかった薄暗い屋外で、彼女の周りを光が包む。やがてその光は聖獣をも包み込み、さらには天に向かって高く昇って行く。そうして天高く上った光は、天空に大きな花を咲かせるように、ぱっと広がっていった。
空が明るくなる。天空には光の粒子を纏った結界が姿を現し、書き換えられた結界の一部が光の粒となって舞い落ちてくる。その情景は、まるで粉雪が降っているかのように神秘的で美しいものだった。
先ほどまで下唇を噛み締めていた野次馬たちも、今は美しい景色に釘付けになっていた。魔獣の騒ぎで建物にこもっていた他の人々も、外に出て空を見上げている。
―うまく、いった?
不安げな目線を送るヘレナに、聖獣は『お疲れ様』と優しくねぎらってくれる。ほっと胸をなでおろすと、アミーカが嬉しそうな笑顔を向けて言った。
「聖獣の帰還。そして、大聖女の誕生よ!」
嬉々とした声が響く。彼女の周りにいた他の聖女たちも嬉しそうに拍手を送り、「おめでとう!」と祝福の声をかけてくれる。それに続くように、街の人々も拍手を送ってくれた。
一斉に向けられた拍手と歓声。その全てが祝福であるのかは定かではない。それに、自分一人の力は酷くちっぽけだという後ろめたさもある。それでも、ずっと罵声と嘲笑を浴びせられてきたヘレナにとって、その音はとても温かなものに感じられた。
『ヘレナ。私の背に乗れ』
「へ?」
唐突な発言に、ヘレナは思わず素っ頓狂な声を上げる。
『空を飛んで、結界に近づくんだ。細かな綻びを直すぞ』
「今から!?」と思わず困惑するヘレナ。それでも彼女は、こちらに拍手をおくる先輩聖女や民の姿と、聖獣とに視線を向けて、冷静に考え直した。
―それが私の仕事なんだ
「うん。わかった」
ヘレナが頷くと、聖獣は彼女を背に乗せた。『しっかりつかまっていろ』という声と共に、聖獣は白い大きな羽を広げる。バサッと大きな羽根が風を起こし、ヘレナを乗せた聖獣は宙に舞い上がった。
夜の星が煌めく空を飛びながら、ヘレナは聖獣の背にしがみついて言った。
「そういえば、あなたの名前聞いてなかった気がする」
聖獣、と呼ぶのもなんだか仰々しい。親しみを持って呼べる方がいいとヘレナが言うと、聖獣は『たしかに言っていなかったな』と思い出したように言う。
『エクトルだ。私の名は、エクトルという』
「エクトル」
新しく知った名前を噛み締めるようにつぶやく。ヘレナはエクトルの背をぎゅっと抱きしめると、微笑んで言った。
「これからよろしくね、エクトル」
『ああ。よろしく、ヘレナ』
魔獣の胃の中で、一度は終わりを覚悟した。そんな彼女は今、新たな人生の始まりに胸を躍らせていた。
聖女なのに魔獣に食べられたので、もうおしまいです。 枦山てまり @arumachan
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