戻らない香り
果澄
戻らない香り
ない、ない、ない。
いつものドラッグストア、いつもの棚、いつも買う洗濯洗剤が見当たらない。
正確に言えば、同じ名前のものがあることは、ある。けれど、リニューアルされていて、パッケージも香りも一新されてしまった。
——俺、この匂い、好きかも
洗って乾燥をかけたバスタオルに顔をうずめたあと、私に笑いかけた彼の顔が浮かぶ。
バスタオルからは、花や果実のような爽やかな香りではなく、人間の作り出した清涼感のある香りがした。でも、きらいじゃない。
二人分の洗濯物を畳むときはいつもこの香りがした。香りが好きだからという理由で、規定量以上の洗剤を使う彼との口げんかも、今では懐かしい思い出になってしまった。
当たり前にあり続けると思ったものが、急になくなってしまう。彼も、好きだったこの香りも。
すみません、と後ろから声をかけられ我に返った。結局、何も買わずに店を出た。
何の予定もない土曜の昼さがり、このまま家に帰りたくなくて、通りがかった公園に寄った。夏が終わり過ごしやすくなったからか、公園には小さな子どもを連れた家族連れが多い。場違いかなと思いつつも、隅のベンチに腰を下ろした。
秋のはじめ、空は高く、風はなく、確実に季節は移り変わっていくのに、変わらない彼への想いに溜め息がこぼれる。どうしようもなく胸が痛む。
半年前だった。彼から、他に好きな人ができたと告げられ、私達は別れた。気持ちの整理がつかないまま、荷物だけまとめて彼の家を出た。
すぐに忘れられると思って過ごしていても、夢にはいつも彼が現れる。夢のなかでは、抱きしめられるたびに香るあの洗剤の香りも、私よりも少し硬く温かい肌も、変わらずにそこにあるのに、目が覚めると何も残っていない。彼がいないという現実に向き合わなくてはならない。その辛さに、眠ることがこわくなって、いつの間にか眠れなくなってしまった。
睡眠不足が仕事に支障をきたすまでになってしまった頃、何気なく寄ったドラッグストアで、彼と使っていた洗濯洗剤を見つけた。気が付いたら、その洗剤を持ってレジに向かっていた。
同じ洗剤で洗った服に包まれると、あの頃と同じ、なんだか彼に抱きしめられているような気がして、涙が溢れた。そういえば、私、泣いていなかったんだと思って、泣いて泣いて、泣き疲れてしまった夜は、なぜだろう、よく眠れた。夢に彼は現れなかった。ただ、深く、眠ることができた。
別れた彼と同じ洗剤を使うなんて未練がましい、と苦笑しつつも、しばらくはこのままでいいと思っていた。けれど。
もうあの香りがなくなってしまった。そろそろ、本当に忘れるべきなのかな……。
そのとき、はしゃぐ子どもの声に混じって、かすかな電子音が耳に届いた。隣に置いていた鞄の中からスマホを出した途端、表示されている名前に驚いて思わず手を離してしまった。
なんで……。
彼の名前だった。震える指で通話ボタンに触れた。
わずかな沈黙のあと、彼が私の名前を呼んだ。懐かしい声は、緊張からか少し震えている。
「……久しぶり。今……大丈夫?」
耳元で囁かれる言葉をひとつもこぼれさせたくないと、左耳に当てたスマホに右手を重ねた。あったかい。あったかくて、涙がでる。
「……泣いてる?大丈夫?」
何も言えないままでいると、彼が息を呑む気配がした。
「これから……会える?」
久しぶりに会えるのだから念入りに準備したかったけれど、待ち合わせ場所には早く来て待っていたかった。付き合っていた頃によく通っていた公園のある駅。雑踏のなかに、あの頃の私達が紛れているのではないかと思うほど、ところどころ思い出が鮮やかに蘇る。
遠くに改札を眺める形で、ショッピングセンターの前で待つことにした。ショーウィンドウに映る不安気な表情の自分と目が合う。夜も眠れないくらい会いたかった彼に会えるのに、ここにきて、会いたいのか、会いたくないのかわからない。あの頃と比べて、私は変わったのだろうか。彼は、変わってしまったのだろうか。
「ごめん、待った?」
背後で声がして、はじかれたように振り返る。彼が立っていた。髪が少し伸びている。日に焼けたのか、以前と比べてほっそりとしてみえる。たかが半年、されど半年、ほんのわずかでも、その間にできた私の知らないところばかり探してしまうのは、なぜだろう。
傾きかけた陽が、行き交う人々の顔を明るく照らすなか、ぎこちない仕草で公園へと歩き出した。
公園では子供向けのイベントが催されていて、その喧騒が、私達の気まずさを紛らわせてくれた。長い二本の棒と糸で作り出される大きなシャボン玉を眺める。子供達が追いかけていく。七色に輝きながら風に流れ、やがては割れるシャボン玉をいくつか見送ったあと、彼は話してくれた。
好きな人ができて私と別れ、その彼女と付き合ったものの、二ヶ月も続かずに別れたこと。私のことが忘れられないことに気がついたものの、ふった立場上、声をかけられなかったこと。けれど、どうしても、もう一度話したくて、迷いながらも電話をかけたこと。
「……やり直せない? もう一度、俺達……」
ああ、そうだった、緊張したとき、手の甲で鼻に触れる癖。今、目の前に彼がいる。あの頃と同じ、彼が。
きっと、半年間の空白はすぐに埋められるはず。なかったことにできるはず。
私達は、静かに、また始まった。
久しぶりに入った彼の部屋は、それほど見た目に何かが変わったというわけではなさそうだった。けれど、懐かしさがこみ上げないのは、私のいなかった間にこの部屋であったことが、永遠に、目には見えない何かを変えてしまったからだろうか。そんなこと、考えても仕方がないのに……。
「座って。何か、飲むもの……麦茶でいい?」
返事をする声が上ずってしまい、彼が軽く笑った。
ああ私、何しているんだろう。緊張してるって丸わかり……。
そう思いながら、私がいつも座っていた椅子に手をかけると、ふいに、後ろから抱きしめられた。
——香りがした。森の中にひっそりと咲く、一輪の花のような。
悲しいくらい優しい、その香りは、私の知らないものだった。
「ごめん」
私が体を強張らせたことがわかったのか、すっと離れた彼。何かいけないことをしてしまった気がして、振り向き、彼の顔を見上げた。
気まずそうに視線を外し、手の甲で鼻に触れながら、後悔するような、苦しそうなその横顔を見つめていると、途端に愛しさがこみ上げてきた。
もう一度、その腕の中へ。彼の背中に手をまわし、頬に触れた胸のぬくもり。少し早い胸の鼓動が聞こえる。
私を抱きとめた彼は、いっそう強く、私を抱きしめた。
あの頃、彼を抱きしめるときに香ったのは、清涼感のある人工的な洗剤の香りだった。香水をつけない彼からは、いつもその香りだけがしていたのに。もしかして……。
「香水、つけてる?」
「香水? つけてないよ」
「……洗濯洗剤、変えた?」
聞くと、彼は取るに足らないことを思い出すみたいに、かなり前、もう半年くらい前だったか、もっといい香りの洗剤があると教えてもらって、変えてみたらこっちのほうがよかった、いい匂いだろう、と言った。
私は何も言わず、同意するような素振りで、彼の胸に顔をうずめた。
——俺、この匂い、好きかも
あの人工的な洗剤の香りが好きだと言った彼。
私は、あの頃の彼に抱きしめてもらいたかった。
戻らない香り。香りが記憶と結びつくのなら、もう、あの頃の彼はどこにもいない。
今、ここにあるのは、他の子との思い出の香り。
一度離れたという事実を、他の子と心を通わせ体を重ねたという事実を、なかったことになんてできない。
そんなことを自覚しても、ずっと会いたかった彼、もう一度抱きしめてもらいたかった彼は、紛れもなく今、ここにいるわけで、
その腕を振りほどくこともできないまま、
私はただ、優しい香りのなかで、揺れていた。
戻らない香り 果澄 @kasumi-tachibana
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