わらべ歌の暗号

永嶋良一

第1話 探偵・夏目康介

 「秋葉あきは。この和歌を知っているかい? 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき」


 夏目康介が唐突に私に聞いてきた。私はいつものように夏目の探偵事務所で執筆に励んでいた。


 私は深瀬秋葉。小説家だ。探偵の夏目康介が解決した事件を小説にして世間に発表している。そう、夏目と私の関係は、あのシャーロック・ホームズとワトソンの関係に似ているのだ。あちらは男同士、こちらは男と女という違いはあるが・・


 私はパソコンから顔を上げて夏目を見た。正月の喧騒がようやく過ぎ去ったという時期だ。私は、去年夏目が解決した事件のうちの二つを小説にして、その原稿を来週出版社に渡す約束になっている。忙しかった。

 

 私はパソコンのキーを叩きながら、夏目に答えた。


 「さぁ、知らないわ。夏目君、どういう意味なの?」


 私たちは同い年だ。夏目は私のことを『秋葉』、私は夏目のことを『夏目君』と呼んでいる。夏目は焦げ茶の机から立ち上がると、窓に歩いていった。雑居ビルの5階にある窓からは、夕闇の東京のビル街が見渡せた。といっても、ここから見えるのは階数の少ない雑居ビルばかりだ。窓の外のそんなビルには、チラホラと灯りが灯っていた。ビルの間を白いものがちらついている。雪が降ってきたようだ。そう言えば、テレビの天気予報で、今夜から寒波の襲来だと言って騒いでいたっけ。


 窓のさんに手を置いて外を眺めながら、夏目が私に言った。


 「秋葉。これは猿丸大夫の和歌だよ。百人一首に出てくる歌だ。奥山で、地面に散った紅葉を踏みしめながら鹿の声を聞くと、秋の悲しさが一層強く感じられる・・といった意味かな」


 無粋で堅物な夏目が和歌の話をするなど初めてだ。私は夏目に笑いかけた。


 「夏目君が和歌の話をするなんて、どういう風の吹き回しなのかしら?」


 すると、夏目が振り向いて、照れくさそうな笑いを私に返した。その笑いが、私に夏目との出会いを思い出させた・・


 私は地元の学校を卒業して、東京の大手の証券会社に入った。でも、趣味で書いた短編がある地味な文学賞を受賞したのをきっけに、会社を辞めた。小説家になりたいという夢を追って、執筆の道に入ったのだ。だが、そんな私に原稿の依頼など来るはずもなく・・私はたちまち行き詰ってしまった。


 そんなとき、ある会で偶然に出会ったのが夏目だった。夏目は当時、売れない駆け出しの探偵だった。私と夏目はすぐに意気投合した。そして、夏目が私に言ってきたのだ。僕の解決する事件を小説にしてくれないかって。あのときも、夏目は照れくさそうに笑っていた・・


 仕事がなかった私はその話に飛びついた。こうして、そのとき以来、私は夏目が解決した事件を小説にして世間に発表するようになったのだ。


 私とペアを組んで以来、夏目は探偵として数多くの事件を解決してきた。それに伴って、夏目の名声が広く世間に知られるようになった。そして、私の小説も飛ぶように売れるようになったのだ。私たちは多忙を極めた。


 あれから、もう十年以上の歳月が流れた。多忙なおかげで・・二人ともまだ独身だ。ここで、はっきり言っておくと・・私たちは男女の仕事仲間であっても、男女の関係ではなかった。私と夏目は奇麗な関係だ。夏目は頭脳明晰で端正な顔立ちなのだが・・こと、女性との付き合いとなると、腰が引けてしまって、まるで意気地がなくなってしまうところがあった。恐らく女性と付き合ったこともないだろう。


 すると、夏目の声が聞こえた。その声が私を現実に引き戻した。


 「秋葉。実はこの鹿の和歌は暗号になっているんだ」

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