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沢田和早
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ツルッパゲの危機を辛うじて回避してから今日で二週間。左手の五指に巻いていたテーピングも取れてようやく元の生活に戻ったはず……だったのだが、先輩のアパートでの昼食中にやってしまった。
「あっ!」
なんてこった。昨日に続いて今日も湯呑をコタツ机に落としてしまった。こぼれたお茶の量は僅かだったものの二日連続とあってはさすがに恥ずかしい。
「すみません。すぐ拭きます」
「粗相も時の一興という。気にするな」
そう言いながら平然とした顔で自分のお茶をグビグビ飲んでいるのは僕の先輩だ。
先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。
同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。
「あれ、今日は怒らないんですか。昨日落とした時は大喜びで僕の失態を責め立てていたのに」
「昨日に続いての今日だからな。鈍い俺でも気付く。おまえ、左手だけでなく右手も調子が悪いだろう」
やはり気付かれていたか。この二週間、左手が使えないので何をするにも右手ばかりを使っていた。それが負担になってしまったのか右手の動きが鈍い。テーピングが取れたばかりの左手の五指と同じく妙に強張って思うように動かせないのだ。
「そうなんですよ。特に親指と人差し指が言うことを聞いてくれなくて。でもこれからは左手も使えますから徐々に良くなると思います」
「それはない。何の対策も講じなければおまえの七指は未来永劫そのままだ」
「どうしてですか」
「その不調は肉体的なものではなく呪縛によるものだからだ」
また奇っ怪なことを言い出したものだな。無視したいところではあるが先輩の忠告はちゃんと聞くと二週間前に宣言したばかりだし、一応話に乗ってみるか。
「ええっと、何の呪縛が掛かっているんですか」
「サムソンの呪縛だ」
そして先輩の話が始まった。本来ならロバの骨を手放すにはツルッパゲにするしかなかった。それが唯一の正しい方法なのだ。しかし僕たちは髪を残したまま強引にロバの骨を引き離してしまった。そのため髪と同様サムソンの意思も残ってしまい、今でも持ち主の意思を阻害しているのだ、ということだった。
「それは困りましたね。で、その呪縛を解くにはどうすればいいのか、先輩にはわかっているんでしょう」
「また俺に頼るのか。しょうがないヤツだな。さりとてこのまま放置して毎食コタツ机にお茶をぶちまけられたら敵わんからな。解除方法を教えてやろう」
「感謝します。それでどうすればいいんですか」
「モーセの十戒を守れ。一度でいい」
モーセはよく知っている。映画「十戒」の海が割れるシーンは有名だ。モーセによってエジプトからカナンの地へ導かれ、ダビデがエルサレムを都に定めてカナンを統一するまでは戦いの日々だった。サムソンが活躍したのはそんな戦いの時代だったので関係ないとは言えないだろう。
「どうして十戒を守ればサムソンの呪縛が解けるんですか」
「サムソンのロバの骨が持ち主として欲しているのは容赦なく敵を打ち倒す猛者だ。もし持ち主が十戒を遵守するようなヘタレだとわかれば、愛想を尽かしてさっさと退散するに違いない」
「ヘタレであることを示せばいいのなら他にも手段はあるでしょう。小学生と相撲を取って負けるとか」
「いや、十戒でなければ駄目だ」
その根拠として先輩が示したのは僕の指だ。十本の指は十戒の戒律に対応していると言うのである。十本のうち動きが鈍いのは七本。つまり十の戒律のうち七つの戒律が守られていないので、対応する七本の指にだけサムソンの呪縛がかかっている、という解釈だった。
「じゃあ十のうち三つの戒律はすでに守っているってことなんですね」
「そうなるな。ちょっと十戒を書き出してみるか」
先輩はノートを広げると何も見ずに書き始めた。十戒を暗記しているのか。凄いな。
「よし書けたぞ」
ノートを見ると次のように書いてある。
信じる神はひとつ
偶像を作るな
神の名を唱えるな
日曜は休め
父母を大切にしろ
人を殺すな
不貞を働くな
盗むな
嘘を言うな
他人の物を欲しがるな
「なんとなく納得できる戒律ばかりですけど、父母を大切にしろって緩過ぎないですか。全ての人を大切にしろの方が相応しいような気がしますけど」
「それでは厳しすぎて誰も戒律を守ろうとしなくなるだろう。民衆に神の救いを求めさせるのが宗教だ。人を悔い改めさせるには、己は罪人であると認識させねばならん。そのために守れそうで守れそうにない戒律を設定するのだ。それにしても最近の宗教は腐っている。背負った罪を帳消しにしてもらうには信仰心だけで十分なのに、金を払えば救われると説く宗教があるからな。実に腹立たしい。それを信じて大金を突っ込む信者も実に愚かだ。なんとかならんものかな」
先輩の宗教観を聞くのは初めてだ。神とか信じてなさそうだしなあ。自分の中に魔王が封じられていると知ったら驚くんじゃないかな。
「で、僕がすでに守っている三つってどれだと思いますか」
「人を殺すな、不貞を働くな、盗むな。この三つだな」
「ですよね、やっぱり」
「よし、さっそく他の七つの戒律も守って呪縛を解くとしよう。まずは『信じる神はひとつ』か」
これは難しい。十戒が示す神が何かよくわからないし、わかったとしても信じる気になれない。しかもうちは浄土真宗で幼稚園の頃から念仏を唱えている。
「一番馴染があるのは神様じゃなくて仏様なんですけど」
「だったら試しに念仏を唱えてみろ」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……おお、右手親指の強張りがなくなった」
信仰の対象は仏様でもいいらしい。サムソンの呪縛、思ったよりも簡単に解けそうだ。
「よし最初の戒律はこれでクリアだな。次は『偶像を作るな』か。そもそも見たことがない神の像をどうやって作るんだって話だよな」
「全て想像で作っているんだからいい加減なものですよね。それでどうやってこの戒律を守りますか」
作るな、という命令を実行するにはどうすればいいか。しばらく考えて捻出した方法は紙に阿弥陀仏を描いてそれを破り捨てる、というものだった。作るという行為を否定したのだ。これはうまくいった。右手人差し指の強張りがなくなった。
次の戒律、『神の名を唱えるな』もなかなかに難しい。英語圏でも神の名を軽々しく口にするのはよろしくないようで「Oh my god」を「Oh my gosh」と言ったりしている。考えた揚げ句、南無阿弥陀仏から阿弥陀仏を省いて「南無、南無、南無」と連呼してみた。その結果、左手小指の強張りが取れた。大成功だ。
「続いては『日曜は休め』か。ちょうど今日は日曜日だし、昼飯の後片付けは俺がする。おまえは休んで寝ていろ」
先輩は台所に立つと食器を洗い始めた。コタツの中で足を伸ばして寛ぐ僕。やがて左手薬指の強張りがなくなった。これもうまくいった。
「次の『父母を大切にしろ』はちょっと難しいですね。どうしましょうか」
「これは時間がかかりそうだな。後回しにして『嘘をつくな』を先に片付けておこう。おまえ、俺のことをどう思っている」
「自分勝手で傍若無人で傲慢不遜な自惚れ屋だと思っています」
自分の気持ちを正直に言ってみた。嘘ではない。嘘ではないのだから指の強張りがなくなるはずなのだが、
「あれ、おかしいな。指に変化がない」
「やれやれ。おまえは相変わらずの照れ屋だな。こんな時くらい自分に正直になってもいいんだぞ。先輩は情け深くて温厚篤実、寛仁大度、常に頼れるナイスガイです、って言ってみろ」
どう考えても嘘八百であるが試しに言ってみた。驚いた。左手中指の強張りがなくなった。嘘でしょ。この言葉は嘘じゃないのか。
「信じられません。これが僕の本音だったなんて」
「自分のことは自分にはわからんものさ。次行くぞ。『他人の物を欲しがるな』か。ちょうど昼飯のデザートにしようと思っていた紅白饅頭があったな」
本日午前十時、二十キロほど離れた場所に和菓子屋がオープンした。その記念として先着百名に紅白饅頭がプレゼントされたのだ。いつもなら先輩と一緒に自転車に乗って駆けつけるのだが、テーピングを外したばかりの左手で長距離を移動するのは危険と判断し、先輩だけで行ってもらったのだ。
「ありましたね。そろそろ食べましょうか。僕は白い饅頭でいいです」
「いや、おまえは食うな。あれは俺が貰ってきたのだから俺のモノだ」
「そんな、話が違うじゃないですか」
「おい、俺たちが今何をしているか忘れたのか。『他人の物を欲しがるな』を実行するにはピッタリの状況じゃないか」
そうだった。先輩の饅頭を欲しがらなければこの戒律もクリアできる。二杯目のお茶を飲みながら美味そうに饅頭を頬張る先輩。くうう、最後に饅頭を食べたのはいつだったろうか。今日の饅頭、楽しみにしていたのになあ。無念じゃ。
「はあ~、うまかった」
先輩が食べ終わると同時に左手人差し指の強張りもなくなった。十の戒律のうち残るはひとつ、『父母を大切にしろ』だ。
「これが守られていないってことは、おまえ、よっぽど親不孝な息子なんだな」
「そうなのかなあ」
我家は母一人子一人。父は幼い頃亡くなったのでほとんど記憶にない。母を泣かすようなこともなく割と平凡に暮らしてきたので親不孝は言いすぎだ。さりとて母を大切にしてきたと胸を張って言えるかと問われれば返答に窮してしまう。高校に入学してからはほとんど口を利かなくなったし、親元を離れて進学することも僕の独断で決めた。仕送りも要らないと断った。盆も正月も帰省していない。これでは大切にしているとは言えないだろう。
「取り敢えず電話でもしてみたらどうだ。こっちに来てから手紙も電話もしていないんだろう」
「うん」
帰省しないのも連絡しないのも全ては倹約のためだ。そんな金があるのなら饅頭でも買って食べた方がいい。だが今はそうも言っていられない。日曜日だから仕事は休みで家にいるだろう。緊張しながら一円で手に入れたスマホの画面をタップする。呼び出し音が数回鳴った後、懐かしい声が聞こえてきた。
「もしもし」
「ああ、母さん。僕だけど」
沈黙。かなり驚いているようだ。心臓の鼓動が速くなる。
「どうしたの。お金でも要るのかい」
「いや、そうじゃない。えっと、ちょっと声を聞きたくなって」
「そうかい。元気でやっているのかい」
「うん。母さんも元気そうだね。それから、あの」
「何だい」
「僕は母さんを大切にしているかな」
またしても沈黙。いくらなんでも脈絡が無さ過ぎたか。ドギマギしながら待っていると母の落ち着いた声が返ってきた。
「私を大切にしたいのなら、まずはおまえ自身を大切にしなさい。おまえが幸せなら私も幸せなんだから」
思い掛けない言葉だった。胸の奥がじんわりと熱くなる。そうだ、親ほど有難い存在はない。他の誰よりも僕を大切に思ってくれているのだから。
「うんわかった。自分を大切にするよ」
「用件はそれだけかい。なら早く切りな。通話料金がもったいないから」
「うん」
電話を切った。最後まで強張っていた左手親指がふっと軽くなった。終わったのだ。モーセの十戒は全て順守されサムソンの呪縛は完全に解けたのだ。
「やれやれ一件落着だな」
「はい。ありがとうございました。でもこれからもずっと十戒を守り続けないといけないのかな」
「その必要はない。サムソンの意思はすでにおまえの元を去っている。もう何の関係もないのだからモーセの十戒に縛られることもない」
それを聞いて安心した。両手だけでなく精神も解放された気分だ。
「ところで、親の声を聞くのは久しぶりなんだろう。どうだった」
「どうって、別になんとも思いませんでしたよ。ただ……」
「ただ、何だ」
「どうして十戒に『父母を大切にしろ』という項目があるのか、わかったような気がします」
先輩はにっこり笑うと僕の背中を叩いた。かなり痛い。いくら何でも力を入れ過ぎだ。
「よし、おまえが親の恩を再認識できたことを祝って紅白饅頭を食おう」
「えっ、さっき食べたじゃないですか」
「俺はトップで饅頭を受け取ったんだ。その後もう一度並んだらまた貰えた。早起きは三文の得だな」
行けなかった僕の分まで貰ってきてくれたのか。さすが先輩。
「じゃあ、それは二個とも僕が食べていいんですね」
「俺はそこまで甘くない。おまえが食えるのは一個だけだ」
この中途半端に親切なところがいかにも先輩らしく、そして親との大きな違いだ。それから僕は久しぶりに北海道産小豆使用の粒あん饅頭を食べた。左手で食べても落とすことはなかった。
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