第2話逃走
寒く、暗い夜だった。
頭上を見上げると、満天の星が輝いている。見知らぬ世界であっても、星空は自分が知るものと変わらないように見えた。
風はなく、静まり返った夜の中、地面に伸びた木々の影が微動だにしない。その影はどこか不気味で、死を連想させる冷たい優雅さがあった。
先ほどまでいた屋敷が視界から完全に消えたところで、横道へと逸れる。
先ほどまで真っ暗だと思っていたが、目が慣れてくると月あかりでほんのりと明るい。
人気のない場所を求めて歩き、大通りから見えない茂みの陰を見つけると、そこで夜を明かすことに決めた。
俺は身体を丸めて座り込み、周囲に耳を澄ませる。
物音ひとつしない静寂に今は安心する。
翌朝、空が薄く明るくなり始めた頃、身を起こした。
物音に怯え続け、一睡もできなかったせいで気分は最悪だ。だが、不思議なことに体そのものは妙に軽く、調子が良い。
昨夜歩いてきた大通りに戻り、再び屋敷とは逆方向に歩き始めた。
追手がいるかもしれないという不安が頭を離れず、少し歩いては生け垣や物陰に身を隠すのを繰り返す。
道に沿って進んでいくと、やがて広場に出た。
整えられた植木やベンチが並び、広場というより公園と呼ぶ方がふさわしそうだ。
周囲に人影はなく、静けさが広がっている。
公園の中を見渡すと、手押し式の井戸を見つけた。
「助かった……」
喉の渇きが限界に近かった。
急いで井戸へ駆け寄る。
出てきた水を手ですくい取って飲むと、冷たく澄んだ水が喉を潤し、緊張で張り詰めた体が少しだけほぐれる。
水を飲み終え、周囲を見渡すと、公園の中央に大きな看板が立っているのに気づいた。
近づいてみると、それは市街地の地図だった。現在地を示す印もあり、この街全体の構造を示しているようだ。
地図によると、街はこの公園を境に大きく左右二つの区域に分かれている。
左側の区域は道が細いうえに曲がりくねって入り組んでいる。
一方で、右側の区域は道が碁盤の目のように整然と配置され、建物も規則的に並んでいる。
昨夜の記憶を辿ると、屋敷は地図の左側にあり、街外れに近い場所だったようだ。
地図をじっと見つめながら、これからどこに行こうか考える。
まずは屋敷から可能な限り遠ざかりたい。また、これからの生活を考えると、ある程度栄えている場所の方が働き口が見つかりやすいかもしれない。
右側の区域には商店街や図書館などの施設が記されている。そこには人が集まり、情報が得られそうだ。少し考えて、その区域の広場を目指すことに決めた。
公園を離れるのは気が進まなかったが、この世界の情報を得るためには必要な一歩だ。
俺は強張った体を伸ばし、右側の区域へ向けて歩き出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
公園から伸びる道のうち、一番大きな道を選んで進む。
三つ目の横道に入り、しばらく歩くと市街図で見た通り、広場が現れた。
ただ、それは単なる広場ではなく、大規模な市場が開かれていた。
広場には無数の露店が立ち並び、行商人たちが声を張り上げて客を呼び込んでいる。
広場の端にある階段に腰を下ろし、行き交う人々を眺める。
驚いたことに、この市場にはさまざまな人がいた。
いや、果たして「人」と呼んでいいのか…。
身長が低く、がっしりした体格に立派な髭をたくわえた者。
2メートルを超える大柄で筋肉質な体格に、額から堂々と角を生やした者。
さらに、顔つきが狼そのもので、尖った耳が頭の上に立っている者までいた。
明らかに、これは自分が知っている世界の光景ではない。
昨日の話から、ここが日本ではないどころか、異世界だと理解はしていた。
だが、頭では理解していても、実感としてはまったく追いついていなかった。
しかし、この市場の光景は、俺の実感なんて全く無視して現実を突きつけてくる。
「異世界、か……」
元の世界にいたときは、ここではないどこかへと行きたいという願望はあったかもしれない。
ただ、実際に異世界にきてみると、ここもまた違うという気がしてくる。
元の世界に戻れるのだろうか。
いや、そんなことより、目の前にはより喫緊の問題がある。
「腹が減ったな……。」
そうだ、ここがどこであろうと、まずは生き抜くことが最優先だ。
そのためには、周囲を観察し、状況を把握し、次に何をすべきか考えなければならない。
広場をきょろきょろと見渡していると、通行人の中に彼をちらちらと見る者がいるのに気づいた。
時折、足を止めてじっとこちらを見つめる者もいれば、通り過ぎた後に振り返る者もいる。
「この格好、やっぱり目立つのか……」
と、そのときである。
数分前に目の前を何ということもなく通り過ぎた少年が、引き返してきて道の向こう側からこちらじっと観察していることに気づいた。
最初は大して気にも留めなかったが、少年はいつまでもこちらを注視している様子なので、俺はとうとう顔を上げ、少年を見返した。
すると、少年は通りを横切り、こちらのすぐ前までやってきた。
「よう、兄ちゃん、どうかしたかい?」
少年は中学生か高校生くらいの年齢に見える奇妙な印象だった。
鼻はずんぐりして短く、粗野な顔立ちで、これでもかというほど薄汚れた身なりをしていた。
だが、立ち居振る舞いは大人びていた。
頭には帽子をかぶっていたが、かろうじて引っかかっているといった様子で、動くたびに落っこちかけた。
「腹ペコで疲れているんだ。昨晩は歩き通しでね。」
そう答えると、少年は口元を歪ませて笑った。
「そいつはご機嫌だな。兄ちゃん、何か食わしてやるよ。もっとも、俺も懐が寂しくて銅貨2枚しかねえが。でもまあ、こいつで何とかしようや。さあ、立った、立った。行くぜ。」
少年は俺を立たせると、近くの屋台に連れて行き、調理済みのハムとパンを買った。
そして、再び歩き出し、今度は小さな居酒屋に入った。
店の奥に進み、少年がカウンターで何やら注文すると、一杯のビールが運ばれてきた。
少年は満足げにそれを受け取ると、パンとハムを渡してきた。
「ほら、食えよ。」
俺は勧められるままにパンとハムにかぶりつき、あっという間に平らげた。
久しぶりの食事で、これまで食べたどんなものよりもおいしく感じた。
食べ終えるまでの間、少年は熱心にこちらを観察していた。
「宿のあてはあるのかい?」
ようやく俺が食べ終わると、少年は言った。
「ない」
「金は?」
「ない」
少年は口笛を吹き、ポケットに手を突っ込んだ。
「君はこのあたりに住んでいるの?」
「そう、住んでいるのはこのあたりさ。今夜、寝る場所がいるんだろ?」
「まあ、そうだね。」
「俺には老紳士の知り合いがいるんだが、その人ならタダで宿を貸してくれる。金をよこせなどとは絶対に言わない。知り合いの紹介ならね。」
思いもかけないところから宿の話が出てきた。
知り合ったばかりの素性の知れない人間からの申し出に不安を感じないわけではなかったが、断るにはあまりにも魅力的だった。
しかもその老紳士は、仕事の口もすぐに見つけてくれるだろうと保証されるとなおさらだった。
会話は進み、この少年のことがだんだん分かってきた。
その会話の中で、この友人がジャックという名で、前述の老紳士に可愛がられている弟子のひとりであることが分かった。
また、俺の見た目についても、実年齢よりずっと若く、ジャックと同年代に見えるということに気づいた。
「年齢を教えてもらっていいかい? 俺と同じくらいに見えるがね。年上だからって敬語は使わないぜ。」
「そういうジャックはいくつなんだい。」
「俺? 俺は来月で16歳になる。」
「じゃあ俺も16歳だ。」
それを聞くと、ジャックは嬉しそうにニヤリと笑った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
さっそくジャックに老紳士への案内を頼もうとしたが、日没前に案内することは反対された。
結局、老紳士への場所へ向かい始めたのは夜の十一時近かった。
ジャックはいくつかの通りを早足に走り抜け、ぴったりついてくるよう言ってきた。
俺はジャックを見失わないよう必死になってついて行ったが、きょろきょろと脇見をせずにはいられなかった。
これほど汚らしく不快な場所を見たことがなかったのだ。
通りはやたらと狭くてぬかるみ、不潔な臭気が漂っていた。
小さな商店がいくつも軒を連ねていたが、売り物らしきものは--子供たちの群れ以外は--何も見当たらない。
何軒かの戸口からは、体の大きい、凶悪そうな連中が人目を盗んで出てくるところだった。
健全で無害な用向きで出かけるところとは、まかり間違っても見えなかった。
このまま逃げた方がいいか。ジャックに背を向けかけたちょうどそのとき、とある坂の下の家の前でジャックが立ち止まった。
彼は俺の腕をつかむと、家の扉を開け、さっと俺を奥へ押し込んで扉を閉めた。
ジャックが口笛を吹くと、「調子はどうだ!」と少し先からどなる声がした。
「上出来、大当たりだ!」とジャックは返した。
これは「異常なし」を意味する合図であったらしい。
ぼんやりとしたロウソクの光で、廊下の突き当たりの壁が明るくなると、男が顔を出した。
「連れがいるのか? 誰だい?」
ロウソクを突き出しながら男が言った。
「新しい友達さ。サイラスは上かい?」
「ああ。今、布切れをより分けているところだ。上がれよ。」
ロウソクが引っ込み、男の顔が消えた。
ジャックは迷いなくするすると階段を登っていく。
こちらはそうはいかない。俺は手探りしながら、暗闇の中の崩れかけた階段を苦労してのぼった。
部屋の前に来ると、ジャックは戸を開けると自分が中に入ってから俺を引き入れた。
その部屋は壁も天井も、古さと汚れのために真っ黒だった。
暖炉の前に樅の木でできたテーブルが据えてあり、その上にロウソク、パンやバターや皿などが置かれていた。
テーブルの奥に、年老いた皺だらけの男が立っていた。
卑しい、ぞっとする顔立ちは、もじゃもじゃの赤毛によって隠されていた。
彼は油で汚れたフランネルのガウンを着て、喉元を大きくはだけ、フライパンと、大量の絹のハンカチがぶら下がっている物干し竿の両方に注意を向けているようだった。
年代物の麻袋で作った粗末なベッドが所狭しと並び、四、五人の少年たちがテーブルを囲んで座っていた。
彼らはジャックと同い年ぐらいに見えたが、大人びた様子で、陶器製の長いパイプをくゆらし、酒を飲んでいた。
ジャックが老人に何事か耳打ちすると、少年たちは彼のそばへ寄り集まった。そしてふり返ってこちらにニヤニヤと笑いかけた。
老人も同じように、俺のほうを向いて笑った。
「こいつがそうだよ、サイラス。友達のダイスだ。」
ジャックが言った。
「はじめまして、ダイスと言います。色々と事情があって宿と仕事を探してまして…。」
サイラスはニタリと笑い、手で話をさえぎると、深々とお辞儀をして俺の手をとった。
皺くちゃだったが、力強く、冷たい手だった。
「我々は君を歓迎するよ、ダイス、大歓迎さ。」
そのままサイラスに奥の席に行くように促される。
「ジャック、ダイスに肉を取ってあげなさい。椅子も一つ持ってきてくれ。ダイスが火のそばに座れるように。おや、ダイス、ハンカチが気になるのかい?ずいぶんとたくさんあるだろう。これはな、洗濯する前にちょっと調べているだけさ。それだけなんだよ、ダイス。それだけさ、ははは。」
サイラスがそういうと、周りにいた少年たちもニヤニヤと笑った。
そして、しばらくがやがやとしていたが、そのまま夕食になった。
俺の前にも皿が配られ、肉やスープを取り分けてもらう。
全て食べ終わり、火の横で周りの様子を見ていると、うとうとと眠くなってきた。
まもなく、自分がそっと抱え上げられ、麻袋のベッドに運ばれるのが分かった。
そして俺は、深い眠りに落ちた。
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