第27話

     *


 クーラーの効いた講義室で、堅羽はぼんやりと窓の外に視線をやった。蝉の声が暑苦しい。ブラインドの隙間から覗く景色は、七月の強い日差しで白飛びしてしている。

「堅羽くん? 聞いてますかー?」

 呆れたように呼ばれて、堅羽は慌てて室内に視線を戻した。艶やかな栗色の髪を七三分けにした垂れ目の男が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「もう。一対一でよそ見されると悲しいですよ」

「すみません」

「はい。じゃあ問六の答えは?」

「るーりよ」

「うん。正解です」

 講師の田代和泉たしろいずみはにっこり微笑んだ。初級イタリア語は他にも履修している学生がいるはずなのだが、月曜一限という時間のせいか、ほぼ毎回彼と堅羽のマンツーマン状態だ。

 初めの緊張感は、今はもうない。それは田代の方も同じなのだろう。ぐるぐると腕を回して大きくあくびをし、教壇近くにあったパイプ椅子にどさっと腰掛ける。

「あー、堅羽くんも大変だね。月曜日のこんな時間から、九十分も椅子に座ってなきゃいけないなんて」

 感心するよ、と肩をすくめる仕草は、どこか日本人離れしている。帰国子女である田代は、日本よりもイタリアでの生活の方が長いらしい。

「もう今日やること終わっちゃったし。休憩休憩」

「答え合わせ最後までしてくださいよ」

 「ん」と突き出すように、田代は解答の書かれたコピー用紙を見せてきた。イタリア語の流麗な筆致に囲まれて、『問』という漢字の拙さが異様に目立つ。

 堅羽が筆記体の解読に苦労していると、見かねた田代はパイプ椅子を雑に引っ張ってきて、解説を交えながら丁寧に答え合わせを再開した。

「なんか塾講時代思い出すわ」

 全ての問題の解説が終わり、再び暇になったのだろう。田代はふっと口元を緩めてそう言った。

「田代先生は、大学は日本ですか?」

「そう。高二で初めて日本来て、そのままこっち」

「日本語上手ですね」

「まあ純日本人だからね。書くのはあんまり得意じゃないけど」

 堅羽くんは字綺麗だよね、と田代は付け加えた。

「几帳面で。いかにも日本人って感じ」

「よく言われます」

「そんなに張りつめてて疲れない?」

 少々飛躍した質問が飛んでくる。サークルにも入らず、彼女も作らず、日々バイトと課題をこなして月曜一限を一度も休んだことのない堅羽のことが、田代は気がかりらしい。

「これが普通だから、なんとも」

「遊びたいとか思わないの」

「遊ぶって言っても、なにすればいいかわからないです」

「旅行とかゲームとか一夜限りの過ちとか」

「時間も金もないし、興味もないです」

「ええー。お年頃でしょう」

 田代は不満そうに目を細めた後、小さくため息をついて続けた。

「じゃあ僕が最近ハマってること教えてあげる」

「先に聞きますけど健全ですか?」

「健全健全」

 「不健全な方も聞きたければ教えてあげるけど?」と言われたが、丁重に辞退した。それこそ月曜の朝から講義室で聞きたい話題ではない。

「観葉植物育ててるんだ」

 そう言った田代の瞳は、無邪気に輝いていた。

「あんまり水やらなくても育つやつ選んで、土が乾いた時だけ世話するの。簡単だけど新しい芽が出てきたりして楽しいよ」

 はあ、と気の抜けた相づちを打った堅羽に、茶目っ気たっぷりのウィンクが飛んでくる。田代は「今日はここまで」と荷物をまとめ、ひらひらと手を振って出ていってしまった。


 次の講義までの三十分を潰すため、堅羽はのそのそと図書館へ向かった。隅の隅に追いやられた人文学部棟を出て構内を横断し、キャンパスの中央を目指す。

 大きな自動ドアをくぐると、冷房の風が面になってぶつかってきた。体がぶるりと震え、自然と腕をさする。あまりの気温差に風邪をひきそうだ。

 目当ての本があるわけではない堅羽は、小説の棚をぼんやりと眺めて歩いた。ここにある本たちは、読もうと思えば全て読むことができる。そう思うと心がすっと落ち着いた。

 結局どの本も取らずに、堅羽は閲覧席に座ってスマートフォンの画面をつけた。家計簿アプリを開いて、今月の出費を確認する。観葉植物を買うくらいの余裕はありそうだ。

 我ながら味気のない学生生活を送っている自覚はある。せっかく一人暮らしをしているのだから、観葉植物くらい置いたっていいだろう。

 明日からは充が来る。

 先月半ば、【今度堅羽のアパートに遊びに行ってもいい?】とメッセージがきたのだ。あんまり構ってやれないぞ、とは言わずに、【お好きにどうぞ】とだけ返した。

 こっちに来たがるなんてと意外に思った。やがて華の入れ知恵かもしれないと気づき、にんまりとした笑顔を思い浮かべて苦笑した。彼女は相変わらずらしい。

 午後の講義を終えてアルバイト先に向かう前に、堅羽は大学近くの大型ショッピングセンターでサボテンを買った。枯れにくい観葉植物といえば、サボテン一択である。

 花屋の中にちょうどコーナーができていて、売り場にはサボテンの解説が掲示されていた。『タマサボテン属』とか『アストロフィツム属』とか、なんだか色々あるらしい。

 『よくわからないがこいつらにも種類と名前があるんだな』と妙に感心しながら、堅羽は丸っこいサボテンを一つ選んだ。手のひらサイズの、ごくごく普通のサボテンだ。

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