第8話
ネズミーズランドでは数多の人間が列を成し、開園を心待ちにしていた。手荷物検査に時間をとられたが、堅羽と充も開園三十分後には無事、夢の国へと足を踏み入れた。
「どうする? どこに行く? あ、お土産? お土産買う?」
園内に足を踏み入れた途端、充は瞳をきらきらと輝かせてはしゃぎだした。堅羽のことなどそっちのけで、園内の装飾に近寄ったり売店を覗き込んだりしている。
ずいぶんと子どもっぽいその反応を微笑ましく思いながら、堅羽は充の頭を小突いた。
「そんなに慌てんなよ。まずは一発、これ行くぞ」
にやりと笑って、スマートフォンの専用アプリ上でジェットコースターのアトラクションを指さす。事前に調べた中で、一番面白そうだと思ったものだ。
それを見た充の頬が、ぴくりとひきつった。「怖いかな」と深刻な顔で言うので、「怖くなきゃつまんねーだろ」と返す。パークの西端、オレンジ色の鉱山が目印だ。
日差しも、人混みも、三月にしてはずいぶんと暑く感じられた。そして堅羽はやがて、それが自分の気持ちの問題だということに気がついた。
薄水色の空が眩しかった。「ねえ、あれ見てよ」と事あるごとに腕を引かれれば、たまにはこういう場所も悪くないような気がしてくる。
アトラクションの列に並んでいる時でさえ、充は妙にはしゃいでいた。その楽しそうな横顔を見ているうちに、堅羽の胸にもようやく、高校を卒業したという実感が湧いてくる。
自分は今、何者でもないのだと思えば、羽が生えたような解放感と共に、なんとも言えない不安が渦巻いた。新しい世界で、どうにか上手くやっていくことはできるだろうか。
充はどうするんだろうな。
こんなに一緒にいるのに、堅羽は充の将来のことをなにも知らなかった。将来どころか、明らかに一緒に暮らしていない両親のことですら、もうずっと尋ねることができずにいた。
充のそういう近寄りがたさは、どんなに時間を共にしても変わらなかった。ある時は子どものようにはしゃぐくせに、ふとした瞬間に冷え冷えとした表情でまぶたを伏せる。
一日遊び倒し、パーク内のレストランで早めの夕食をとっている辺りで、充は案の定熱を出した。タイミング悪く小雨が降りだし、辺りの気温がぐっと下がる。
なんとか食事だけ食べ切り、出口を目指して広いパーク内を歩いた。バスよりも早く帰れそうな電車に乗り込む頃には、堅羽は全ての荷物と一人の人間を抱えるハメになった。
「ごめん。俺、やっぱ」
「喋ってねーで寝てろ」
咳き込みながら寄りかかってくる充のまぶたを、無理やり閉じさせる。タクシーを拾うべきだったかもしれないと思いながら、堅羽は窓の外を見つめた。
雨にけむる都会の街並みが流れていく。堅羽と充の地元よりも、建物と建物の間隔が圧倒的に狭い。目に映る景色から、目前に迫った東京生活が想起される。
ビルの谷間を歩く。大学に行く。食事を作ってユニットバスでシャワーを浴びて、課題をこなして、薄い布団に潜り込む――もちろんひとりで。
肌寒さを感じて堅羽は震えた。雨水の染みたスニーカーが重たかった。
ホテルの最寄り駅で電車を降り、部屋に戻ってすぐに、堅羽は充を着替えさせた。
「ほら、濡れたもん貸せ」
受け取った服を適当に干して暖房をつける。自分もシャワーを浴びて服を干し、濡れた靴をドライヤーで乾かしていると、奥のベッドで丸まる充が声をかけてきた。
「ごめん」
「え?」
ドライヤーを切って後ろを振り向く。苦しそうに潤んだ瞳がこちらを見つめていた。
「ごめん」
「別にこれくらい。気にすんな」
「そうじゃなくて。いや、それもそうなんだけど」
熱で頭が回っていないのか、要領を得ないつぶやきが続く。堅羽は立ち上がって充の枕元に寄った。「いいから寝てろ」と前髪をかき混ぜようとして、頬に残る涙の跡に気づく。
「ごめん。ごめん堅羽。俺、ひとりじゃなにもできなくて。堅羽に迷惑かけて、堅羽の優しさに甘えて、自分じゃどうにもできなくて」
うわ言のようにうめく充を見下ろして、堅羽は険しい顔をした。昼間の元気が嘘のようだ。熱のせいもあるだろうが、そういえば今朝も様子がおかしかった。
堅羽は靴を浴室に放り込んで換気扇を回し、歯を磨いた。スマートフォンを充電器につないでから電気を消し、充と同じベッドに潜り込む。
「俺はさ、謝られるよりもお礼を言われる方が好きだ」
充は逃げるように体を丸めた。後を追って薄い背を抱けば、今度は腕を押し返してくる。その手を取って細いうなじに顔をうずめる。熱のせいか、いつもよりも温かい。
「俺は誰の面倒でもみるわけじゃない。そこんとこ、いい加減わかれよ」
「でも堅羽、いなくなるじゃないか」
「そりゃ今まで通りとはいかないけど、会いにいく」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だよ。誰が好き好んでこんな面倒くさい役立たずに会いにくるんだよ。彼女できても来るのかよ……無理しなくていいよ。だってそれが普通だろ」
「普通、普通ねえ」
まあ普通ではないよなと思いながら、堅羽は黒々とした天井を見上げた。充はなにもわかっていないのだ。自分の危うさも、それに自らの意志で囚われている堅羽のことも。
「大丈夫だよ。俺は自分が寒いから、今ここにいるんだ」
微かな雨音が聞こえる。堅羽は目を閉じて微笑んだ――まぶたの裏に、モバイルショップでスマートフォンを選ぶ充の横顔を思い浮かべながら。
今年の正月、壊れかけのスマートフォンしか持っていなかった充に最新機種を買わせたのは、他でもない堅羽だ。「ちゃんと使えないと、今時困るぞ」と言ってやった。
もちろんそんなのは建前で、堅羽としては、大学進学で離れてしまう前に、充とより綿密にコミュニケーションを図れる手段を確立しておきたかった。
そういうのが全然伝わっていないのだろう。そういうところが充らしくて、笑えた。
「堅羽……? 寝た?」
心地よい眠気の中に充の声が響く。返事をしないで気配を伺っていると、ごそごそと身じろぎの音がして、少し汗ばんだ指が額に触れた。
「おやすみ、堅羽」
柔らかい声が鼓膜を震わせた。軽い咳の後、充が寝息を立て始めたのを確認して、堅羽も意識を手放した。
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