私たちの家には、裏庭がある。

 そこには、隣家との境界線あたりに、古い大きな柘榴ざくろの木があった。

 柘榴の木というのは国内では希少だ。見慣れぬその木は、私には魔女の手みたいに見えた。

 連れ合いが庭木に水やりをした後、姿が見えないと思って探していたら、その柘榴の木の前で卒塔婆みたいに立ち尽くしているのが見えた。

 どうも、様子がおかしい。

 その背中には、いつもの如雨露じょうろのような生気がなかった。

 日陰の湿った土の匂いのする裏手を歩き、彼女に近づき声をかけるが、呆けたように手元を見つめている。

 見ると、片手には割られた柘榴が、そしてもう一方の手……厳密には指先に、何か黒い、歪な形をしたものが見えた。


「種……」


 ぽつりと、連れ合いが呟く。

 もう一度その指先の、彼女が種と呼んだものを見つめた時、ぞわりとした。

 その種は、人の形をしているように見えた。

 

 彼女は、その柘榴を手にしたままフラフラと家の方へと戻っていった。

 私はなんだか気味が悪かったが、たまたまそういう形に見えただけだろうと、必要以上に意味を与えないようにした。

 

 彼女はダイニングテーブルに座ると、ひとつ、またひとつと、そのルビー色の果肉を器用に指で掬っては食み、種を木製の椀の上に儀式的に出していった。

 そのすべてが、人の形をしていた。

 私が咄嗟に、その食べる手を止めようとした時、彼女が口を開く。


「柘榴の話、憶えてる……?」


 何のことかと思ったら、以前私が訪れたアイリッシュバーのバーテンダーから聞いた柘榴の話のことを言っているようだった。

 彼の村では、不貞を働いた女性は座敷牢に詰められ柘榴になる。

 そして、その西瓜ほどの巨大な柘榴は、条理を越えて美味なのだ、と。

 なお、あの後私は何度かバーに足を運んだが、彼はいなかった。

 代わりに、壮年の恰幅の良いマスターがいて、彼はもう辞めてしまったのだと言った。

 ともあれ、私は彼女の問いに、もちろん、憶えている、と答えた。

 ふと、彼女は自分の左の腕をさすり始めた。それは、彼女が不安な時の癖だった。


「もし――」


 そこで唇を噛む。それから、ごめんなさい、なんでもないの。そう言って、席を立った。席を立つときの彼女の衣擦れの音が、しばらく耳にこびり付いて落ちなかった。

 結局その日は仕事も、趣味の書き物も手につかず、庭で竹刀で素振りをしたり、池の周りをジョギングしたりして散漫と過ごした。


 夜。

 彼女は私より先に、ベッドで横になっていた。

 膝を折り、背を丸くしている。

 私は照明を落とすと、薄闇に輪郭を融かす彼女を背中から抱いた。

 うなじから薫る彼女の匂いと、寝間着越しの仄温かさと柔らかさ。

 それが背中から汗のように滲む孤独と混ざり合い、胸を締め付ける。

 私はただ、彼女の喉が震えるのを待つ。

 言葉がなければ、夜が更けるに任せるだけだ。

 

「もし……」


 背中越しに、彼女の手をそっと握る。粉を吹きそうなほど、さらりとしていた。


「もし、あなたが他の人と関係を持ちたいと言ったら、私はそれを許せると思う……?」


 硬く、鋭い、弦の音がホールに鳴り響いた。

 タキシード姿の蛙のような男が、ジロリとこちらを睨みながら、バイオリンを構えている。


『sul ponticello』


 なんだって――?

 

 私はぱんっ、と手を打って、その男を威嚇し、追い払う。

 気づくと、彼女は私の方を向いていた。


 どうして、そんなことを尋ねるのだろうか。

 まず、そういう当たり前の疑問が浮かんだ。

 身に覚えなどない。あるいは知らず知らずのうちに、彼女を不安にするような言動があっただろうか。

 燈子さんとの戯れが過ぎただろうか。

 いや、たぶんそうじゃない。

 だとしたら……?

 私はここで言うべきだろうか?

 許して欲しくなどない、と。

 でもそれで、彼女が抱えている何かに蓋をさせるのは、果たして正しいことなのだろうか。

 そんな風に考えるうち、私はこう返していた。


貴女あなたは、どう思うんですか?」


 それは、ゆっくりと、握りつぶすような笑みだった。


「昔なら……むしろわたしが、あなたにそういうことを求めたかもしれない……どうぞ、そういう風に、して欲しいって」


 私は彼女の髪を撫でようとして、しかし強張った右手を、そのまま脇に下ろした。

 瞼をゆっくりと閉じる。

 私の頭の上には、ぜいぜいと喘息患者のように明滅している白熱電球がぶら下がっている。まずそれを捕まえる。

 じりじりと肌が焼け爛れるのも構わず、鹿の鳴くような音を立ててそれを外すと、投げ捨てた。

 遠くで、カシャリと割れる音がした。悲鳴のようだった。

 そして新しい電球をまたくるくると回し、取り付ける。

 灯りが点るのを認め、瞼を持ち上げる。

 語り掛ける。

 

「渇きますか……?」

 

 彼女が私を見上げる。抱き上げた手を不意に離された幼子のような顔。そんな表情を見るのは、これまでで二度目だった。

 彼女は怯えた様子でかぶりを振る。私の奥底で、黒く濁った澱が撒きあがるのを感じた。


「僕だけでは、満たされ――」

 

 ちがうの――!

 彼女は遮るようにそう言った。ほとんど、叫んでいた。

 私は感情の昂りに合わせて唇が勝手に震えそうになるのを、噛むことでどうにか抑え込んだ。

 彼女が取り乱すほどに、否定しようとするほどに、布団が不気味に持ち上がり、その中から長い手足をした何か禍々しいモノが這い出そうとしているような気がした。

 そうじゃないの、と彼女は重ねた。

 私は、想像の中でペティナイフを手に取る。透き通るような白い手が、闇の中からそれを私に差し出していたから。

 そして、己のはだけた胸、その左の乳首の少し上あたりに添えると、グイと右に引き裂いた。熱い、脳に親指を食い込まされるような痛みとともに、甘酸たるグレナデンシロップのように血が溢れる。

 でもその後を追うように、不思議な爽快感と、甘さが広がる。

 さらに、鎖骨と胸骨の出会うあたりに添え、縦に、臍の辺りまで一息に裂いた。

 自分が、柘榴になったような気がした。


 彼女は怯え切った表情で、それでもまっすぐに、私を見つめていてくれた。だから、私は笑うことができた。

 もし、彼女が私から目を逸らしていたら――

 私はキッチンに駆けて行って、本当に世界に線を引かなければならなかったかもしれない。


 彼女の目から、月の赤子のように、雫が生まれる。

 ちがうのよ。そう、繰り返す。

 そして腹の奥のものを吐くようにしながら、話した。それは、言葉を紡ぐなどという表現のそぐわない、行為だった。

 産み落とされた言葉たちは、赤黒い血と、膿に塗れていた。そんな彼女を見るのは、初めてだった。

 彼女は言った。

 自分は本当に、心の底から満たされている。そこに嘘はひとつもないのだと。

 それから彼女は、極めて具体的かつ緻密に、いかに私の肉体や行為、言葉の数々が彼女を悦ばせるのかを事細かに語った。身も心も潤すのかということを。

 月に雲が過ったのか、僅かに彼女の頬に翳が差した。そういえば、今日は満月だった。

 私はその頬の翳を払うように、そっと手を添えた。彼女は、縋るようにその手を握った。私の頬が温かくなる。私は、わけもわからず、涙を流していた。すぐさま、それを肩で拭った。

 

「ありのままでいて、いいんですよ」


 私は月に照らされた海辺の岩にカンナをかけるようにして、言った。


「あなたが、またを求めてしまうというなら、僕はそれだって受け止めてみせる」


 彼女の表情が変わる。それはもう、ほとんど憎しみだった。

 彼女は手を振り上げた。私はそれをすんでところで掴まえ、そのまま組み伏せる。

 彼女の威嚇するかのような荒い息が、私の頸とその奥の血の管を濡らす。彼女は動揺していた。それがまた、私の心の水底にある泥を撒きあげる。

 私はそんな彼女を落ち着かせるように、努めてやさしく微笑んだあと、耳元で囁く。

 

 大丈夫、ちゃんと僕だけを欲しがるように、最後まで――みっともなくても、足掻きますから――と。


 そしてそのまま、八つ橋のあかちゃんのような柔らかい耳たぶを、そっと口に含んだ。

 その後の私達の営みは、これまでで最も荒々しいものだった。

 それは多分、彼女と共に歩むことを決定づけた、あの雷雨の夜をも超えるものだったと思う。

 激しく、肉を割り開き、ルビー色の肉を貪るような、そんな情事だった。

 彼女は私に爪を立て、噛みちぎらんばかりに肩に、腕に、食いついた。

 私は傷だらけだった。

 でも不思議と、その痛みは、私がさっきナイフで刻んだ、胸の裂け目を塞いでくれた。

 奇妙に、穏やかな気持ちになった。

 

 ――鮫みたいだ。


 そう、思った。

 鮫は交尾の際に互いを噛み合うのだという。

 あの日、水槽の前に張り付いたまま動かない貴女に、私は尋ねた。


『鮫、好きなんですか?』


 貴女は目を見開いて、驚いたような表情で私を見た。

 そして言いましたね。

 

『そう――そうなのかも。わたし、鮫が好きなのかもしれない』

 

 その瞬間の、少女のような瞳が――そこに映るあおが――私は、忘れられない。

 貴女には、本当に、鮫がよく似合う。

 美しく、しなやかで、時に獰猛で、絶えず新しく生まれ変わっていく。

 そんな貴女に振り落とされないように、私も負けじと噛みつき、貴女もこうしていま、噛みついている。血が滲むほどに。

 そうだ――

 貴女がどれだけ歪であったとしても、私が貴女の土となり、如雨露となろう。

 陽の光というのは柄ではないけれど、この身を燃やしてでも、照らしてみせる。

 そんな風に祈りながら、彼女の声に耳を澄ませ続けた。


 次の朝、目覚めると、彼女は私に背を向けて何かとやっていた。

 私の視線に気づく。

 振り向く。

 唇を、血のように紅い雫が伝った。

 私にはそれが、人を喰らう鬼のように見えた。抗えぬ美しさの、女の鬼だ。

 彼女は小さく微笑むと、新しい紅い果肉を指で掬い上げる。

 果肉に口づけをし、それをそのまま、私の口に含ませた。

 ぷつり――

 と音がして、果実が弾ける。


「甘いでしょ……?」


 甘い、と私は答えた。

 口の中に残った種を指で取り出すと、それはもう、人の形ではなかった。

 私は不思議な心地のまま、葦焼きを眺めるような気持ちで、変なことを口走った。

 

「もしも、僕の努力も空しく、貴女の渇きが満たされないなら、その時はまず燈子さんに相談しましょう」


 しんとした朝の空気が流れた。

 一瞬、彼女はとした表情を浮かべ、それからすぐ、薄く微笑む。

 それってつまり、どういうこと?相談して、どうするつもり?

 そう、彼女が問う。懐かしい口調だった。出会って最初の一年。彼女は時々、いまみたいな表情と口調で私を虐めた。

 だが私とて、昔とは違う。

 ――とりあえず、3Pしましょう。

 私がそう言うと、彼女は私の両の耳たぶを――八つ橋のあかちゃんみたいな無垢な耳たぶを――千切れんばかりに親指と人差し指で握りしめた。


「いい度胸じゃない」

 

 私は結局、朝からすっかり種を搾り尽くされた。

 彼女は、すっかりいつもの調子を取り戻している。

 それでも午後のティータイムには、思い出したように私をなじった。

 まったく、おかしな話よ、と。

 

 私は思った。

 

 ――これでいい、と。


 たね・了

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