目と目の間を右手の親指と人差し指でぐっと押し込み、瞼を閉じる。そのまま肘をテーブルに載せ、石のように重くなった頭を支える。闇の奥に窓の桟のようなものがぼんやりと浮かんでくる。そこに積もった埃が風に攫われるまでじっと堪える。

 私の前の席で気配がした。

 瞼を持ち上げる。

 先制攻撃。

「今日は機嫌の良い方かな?」

 私がそう尋ねると、白衣に身を包んだ彼女は愛用の黄色いマグカップを頬にあて、いつものように動物園の非活動的な動物でも見るみたいな眼差しをこちらに向けていた。

「そう見える?」

「座り方から察するには」

「単純」

 そう、私は単純だ。想像力に事足りたことなどない。

 目の前の女性、志保しほは診療所に勤める医師で、私とは比較的歳が近いこともあり村の中では気の置けない相手の一人だ。

 今日のように診療所に併設のカフェで仕事をしたりしていると、向かい合って世間話に興じることもしばしば。

 込み入った話になるとカウンセリングルームを使うこともある。職権濫用なんじゃないかと思う節もあるが、私にとっても都合がいいので何も言わない。

「真面目に仕事してるのね」

 私の目の前に広げられたラップトップと紙の束に目をやりつつ、志保が言う。

「幸い、いまの仕事は楽しいからね」

 仕事というのは楽しい如何に依らず励まねばならないものだ。だが、楽しいに越したことはない。熱意が湧く。こなすうちに熱意が出ることもあるらしいが、私にとっての前職はそうならなかった。そういうこともある。

 彼女は三秒ほど何か言いたげに私を見つめたが、結局何も言わなかった。

「書評?今回のは面白いの?」

 私は右の唇の端をぐっと持ち上げ、頬を親指で押し込んだ。志保が鼻で笑う。

「知ってるだろ?僕のところに舞い込むのはだいたいこういう顔になるようなものばかりなんだ」

「ちょっと見ていい?」

 この業界は基本的に信頼で成り立っている。NDAなんてものはない。つまり匙加減ひとつだ。

 私は、どうぞ、と言った。

 志保はパラパラと捲りながらひと通り目を通すと、そっと丁重に紙の束を元の場所に戻した。志保が紙を扱う仕草はなんだか様になっていた。

 彼女にはどこか連れ合いに似た雰囲気があった。アカデミックな雰囲気だろうか。髪をアップで纏めているところだろうか。

 あるいは夢路を辿っていった先にはこことは全く異なる世界があり、そこではこことは全く異なる環境で育った連れ合いがいて、志保のようにカラカラと笑い、紅茶よりも珈琲の似合う皮肉屋になっていたのかもしれない。そんな荒唐無稽なことを考えた。

「これが……?」

「志保さんは異世界転生モノなんて全く読まないし観ないでしょ?」

 彼女は少し眉を上げ、小さくかぶりを振った。志保が手に取った紙の束――私に依頼された新書は所謂「異世界転生」という創作ジャンルの興隆と社会現象について論じたものだった。

「僕も読んだことない。けど観たことは少しある。あれは――」

 私は喉元までせり上がって来た言葉を空気に包んで床に吐いた。私はそのまま二杯目の珈琲をオーダーしに立った。そして席に戻る。珈琲の香りで胸を満たし、舌の上で転がす。

「イルガチャフェは良い」

「もっと苦いのが好きなのかと思ってた」

「昔はね。でも最近はイルガチャフェとかゲイシャの方が好みだ」

 好みが変わったというよりは、昔はイルガチャフェのような優しくフローラルな香りの珈琲の存在を知らなかったということもあるかもしれない。大人になって珈琲が美味く感じるのは、シンパシーを感じるが故――人生の酸苦に寄り添ってくれるように感じるからかもしれない。だが私にとってのイルガチャフェにはもうひとつ、代償行為としての側面もあるような気がした。その春めいた味わいは、春が嫌いな私に春を充填してくれる。

「それで……?異世界転生がどうしたって?」

 志保が話の続きを求めていた。

「貴重な休憩時間をこんなことに使ってていいの?」

 志保はニッコリと笑う。

「楽しい話にしてね」

 私は思わずひとつ息を吐いた。

「コメディとして楽しむなら、僕も嫌いじゃない。実際、悪くなかった。でもシリアス調のは苦手なんだ。子どもがザリガニを釣っているのを眺めている方がよほど良い。僕はエンタメ作品であってもアクチュアリティ、要は何か現実を生きる上でプラスになるようなものを求める方だから、ノット・フォー・ミーと言えばそれまでだ。ただあまりにも溢れていてこっちが望まずとも目に入ってくる。正直、辟易している。ほとんど病理だよ。現代の病理だ。それはもはやルサンチマンなんだ。極めて開き直った露骨な形のね。ある時は、主人公に下駄を履かせる。ある時は、周りを露悪的に描いて主人公を持ち上げる。あるいは現実では平凡な性質がニッチに刺さるような環境へ移行させる。なんにせよ、そこでのファンタジーは、本来あるべき現実を生き延びるためのメタファーではなく、もうほとんど実存と化している。現実の鬱憤を晴らす効果はあるだろう。カタルシスを得られる人もいるんだろう。でも――」

 私は一度珈琲で喉と心を潤し、志保の意外に真剣な表情と、周囲の無関心な態度を検める。話を再開する。

「ただね、それが現実なんだ。出版業界や世論を糾弾するような傲慢を冒すつもりはない。そこには需要があるから世に溢れている。それがどういうことなのか?」

 私は前髪をかき上げる。

「……みんな疲れてるんだろうなって。当たり前に。日々の生活に。自己責任論に」

 窓の外を見る。空は蒼く、澄んでいる。

「僕が会社を辞める直前、しつこく人事部の主催する研修があってさ。僕も一応部下を抱える身だったから、評価に関する研修の対象者だったんだ。彼らは言うわけさ。年々、会社の評価制度に対して不満が高まっているんだと。だから適切な評価フィードバックが出来るよう褒めてやれだのなんだのと最初は耳当たりの良い話を並べるんだ。でも僕がその研修で一番憶えているのはそんなことじゃない。彼らはちょいちょい挟むんだ。『でも!他責傾向の強い社員が増えているのは確かだ!毅然として対応し、注意されたし!』って具合に。ほとんどサブリミナル効果みたいに、他のお為ごかした話の間に挟んでくるものだから、そのことしか覚えてない。ああ、この研修は人事部が責任回避するためのポーズなんだなって思ったよ。会社の評価制度に不満を持った時点で、環境に原因を求めた時点で、それはもう脊髄反射的に他責で悪なんだ。社員が自己の責任において会社に所属してるんだから、従えと?おかしな話だよ。そりゃマネジメントサイドにいた人間として会社の理屈も分かる。でもやり方が汚い。会社は地道で着実な積み重ねなんて基本評価しない。分かりにくいからね。もっと分かり易くて飛び道具的なソリューションを求めてる。それこそチートスキルだよ。あるいは競合の悪口を言わせる。周りを露悪的に見せてサゲルやり方だ。それが嫌なら転職しろって?自分がニッチな存在になれる職場に転職するとしたって、そんな環境なかなかないよ。異世界転生モノのトロープの見本市だ。会社が社員に異世界転生を求めてるんだ。そりゃ異世界転生だってしたくなる。負の再生産だ」

 私が話し終え、一度は項垂れた顔を上げると、志保は机の上で胸の前に組んだ手の平で顔を隠すように震えていた。何かと思えば、彼女はくつくつと声を殺して笑っていた。そしてとうとう堪えきれなくなったのか、ひぃひぃと声を漏らし始めた。私も釣られて笑った。

「良いパッションね。それを書けばいいじゃない」

 私は残りの珈琲を最後まで啜ると、言った。

「いまは感情的になり過ぎてる。僕が持ってる情報も古い。最新のトレンドをキャッチアップして、フラットに、客観的に――」

 そこまで言って、だが涙目になりながら顔の前で手刀を切って席を立つ志保を見ていたら、なんだかどうでも良くなってきた。彼女にとってエンターテインメントになったなら、良しとしよう、と。私は空想の原稿用紙をくしゃくしゃっと丸めて投げた。


 夜、連れ合いの書斎を借りて私は仕事の続きをしていた。

 異世界転生というトロープを整理している中で、ひとつ気づいたことがあった。それは、ほとんどの場合で主人公は記憶を持ち越しているということだ。そのこと自体がアドバンテージやカタルシスに繋がるのだから、当然といえばそうだ。

 広義で異世界転生のオリジナルと言えそうな輪廻転生の概念を見ていくと、古代インドを起源とするそれは、意外にも幼少期までは記憶を持ち越していたり、能力を持ちこしているといった言説もあるみたいだった。

 だが、ふと思う。現世の自分と来世の自分の同一性はどのようにして保障されるのだろうか、と。記憶が保持されていれば同一人物と言えるのだろうか。分からなかった。記憶がなければ尚更だ。

 仮にいま私の目の前に白髪で紅い双眸の神が降臨し、君は実は転生しているんだ、と言われたところで無意味だ。私は眼前の現実を眼差すほかなく、過ぎ去った世界も訪れる世界も等しく夢同然だ。

 

 もっとも、輪廻転生は基本的に倫理を司る訓戒としての側面が強い。それに対し、エンタメ起源の異世界転生は今を生き延びるための慰みとしての役割が主だ。別モノだ。良い異世界転生がしたくば善行を成せ、などと言い出したら説教臭くてかなわない。

 異世界転生モノは移行の仕方も世相を反映している。パッと見る限りで、老衰の後に転生するというケースはなかった。トリガーは事故だったり、病だったり、要は可及的速やかな不慮の死だ。

 皆、待っていられないのだ。今すぐ死に、今すぐ移行したい。既に感情移入は始まっている。避けがたい死と、その先の桃源郷を夢見ている。

 異世界転生はもはや希死念慮のメタファーであり、提供されるのは感性に対する工業製品的安楽死だ。

 皆、来世のために善行するどころではない。老後のことすら想像するのに苦痛を伴う。楽しく生きられなくなったら、死ねばいい。それが今、私達を覆う世界のムードなのかもしれない。

 そんなことを考えるうち、体が船を漕ぎ始める。


 *

 

「パパ」

 

 薄闇の奥からが私を呼んでいる。

 

「……喉、渇いたの?」

 

 そう尋ねると、ひとつ、彼女は頷いて冷蔵庫の方に駆けて行った。彼女を追い、その頭を掠める高さの冷蔵のドアを開けてやる。

 

「何がいい?牛乳でいい?」

 

「うーん、あっ!うーん……」

 

 それからまたひとつ、頷く。

 私はグラスに牛乳を注いでやって、娘に手渡した。半分ほど飲んだ後、グラスをキッチンに置く。

 

「もうだいじょうぶ」

 

 それだけ言うと、の眠る寝室へとまた駆けて行った。

 私は彼女の背中を見送ると、残った牛乳を飲み干し、グラスを洗う。そしてリビングのソファーへと体を横たえた。腰が痛い。

 

「……」

 

 私は胎児のように身を丸めた。雨の匂いがした。そして頭に知らない女性の名前が浮かんだのを、そのまま喉から外に出した。誰だろう。分からない。寒い。

 眠りは一向に訪れず、私は気づくと身を起こし、キッチンへと足を運んだ。引き出しを開けると、そこにはペティナイフがあった。かつて己を刻み、この十五年ほどは野菜や肉しか刻んでこなかったものだ。

 それは鈍く、美しく輝いていた。私の視線が、釘づけになる。視野が狭窄する。

 

 *

 

「大丈夫?」

 

 女が驚いた表情で私を見ていた。私は――その顔をすぐに判別できなかった。

 

「……どうしたの?そんなところで寝て」

 

 私は頸をもたげ、周囲を見回しながら、ゆっくりと身を起こす。


 彼女を見つめる。名前を呼ぶ。胸が温かくなる。


 涙が頬を伝う。




 ユメ・了

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