隕石


 星屑が、揺蕩っていた。

 水面に咲く花のように、敷き詰められている。

 その中に、埋もれるようにして、はいた。

 

 アメジストのように眩しく、どこか儚げな少女。

 胎児のように身を丸め、涙を流している。

 眠っているのだろうか。

 夢を、見ているのだろうか。

 

 闇が煙となり、彼女を包む。

 世界が、暗転する。


 次に気がついた時、彼女はすっくと立っていた。

 風を受け、銀砂の如きケープを棚びかせながら、遥か遠くを望んでいた。

 

 その背中は、まだ小さい。

 それでも、眼差しには、祈りが宿っている。

 強く、ただ強く、なにかを見つめている。

 

 これは――誰の、記憶だろう。

 あるいは、夢なのだろうか。

 

 

 * 



「もう、ここに住んじゃいなよ」


 その声のトーンは、いつもの冗談めかした口調とは、すこし違っていた。

 週の半分も、私はその朝食の席に招待されるようになっていた。湯を注がれた珈琲豆の微かな囁きと、蝉の声、柱時計の音、三人分の沈黙。

 その日、歳の離れた友人は前触れなく私に告げると、続けて「ボクはやしろに住みこむことにしたからさ」と、さもそれが自然だといわんばかりに、言い放った。

 連れ合いは、食後の珈琲を淹れる手を止めたまま、小さく口を開け、私と若菜わかなの間で目を泳がせていた。

 

「そういうわけには、いかないよ」

 

 それが正しい反応なのかは、もはや分からなかった。でも、そう言わずにはいられなかった。そんな、彼女を追い出すような真似は、許容できなかった。

 私には今のアパートが分相応だ――そんな問題ではないことは頭で分かりつつも、罪悪感からだろうか――頭を過ぎるのは、そんな言葉だった。

 

 連れ合いもその唇を一度、キュッと奥に押し込んだ後、「三人一緒でもいいのよ?」、とどこか縋るように言った。

 「三人で一緒に暮らそう」そういう言い方もできたかもしれない。でも、その言葉を選ばなかったところに、彼女の貝の如き苦悩が表れていた。

 

 だが若菜わかなが一度何かを決めた時、その意志は固い。

 私たちは、そのことを重々知っていた。

 

 当然だ。

 少なくとも連れ合いの彼女は、若菜の母親なのだから。

 そして若菜は、彼女の唯ひとりの娘であり、人生の〝よすが〟だった。


 アトリエに行くという若菜を玄関まで見送った後、彼女はしばらくの間、閉まった扉を見つめたまま立ち尽くしていた。

 私は左腕をさする彼女の右手にそっと手を重ねると、微かに震えが伝わってきた。そのまま力を抜くように身を寄せてきた彼女の重みと、その胸の奥から洩れる息を、私はただ、しっかりと受け止めた。

 それくらいのことしか、できなかった。

 

 若菜が家を出る前日の夜、三人で夕食をとり、いつかのように天体観測をした。その日は空が澄んでいて、夏の大三角が綺麗に見えた。

 私はこの村を訪れた日の宵の空を思い出した。その時、空にはまだのベガしか見えなかった。それがいまや、アルタイルも、デネブも、欠けることなく夜空に燦然と輝き、線を描いている。そして三人で、同じ星を見上げている。私はそのことに、何故か涙が出そうになった。

 

 翌日、午前中のうちに、私は再び彼女の家を訪れた。

 その時の連れ合いの姿が忘れられない。

 ソファの上で、雨宿りをする猫のように私の膝に頭を載せた彼女の髪を、雨を眺めるように撫でた。彼女は時々小さく頭を動かしては、子どものように唇を噛んだ。


「子離れ……しないとね……」

 

 昼食の折り、不意にそう零す彼女には、確かに、秘めた脆弱性があった。

 それは常に薄いベールを纏っている。昼の彼女は常に気丈だった。でもその日だけは違った。彼女は私に対して何も隠さなかった。

 私はそのことに僅かな歓びを感じる自分を、ティースプーン一匙分ほど嫌悪した。

 その日も、リビングには〝ノクターン〟が流れていた。

 

 それでも若菜はそんな私達を気遣ってか、よくを訪れた。

 木曜の夕食時、土曜のおやつの時間、気まぐれな夜、エトセトラ。

 私たちは、とても仲が良かった。それは決して上辺だけではない。

 とても仲の良い、ただ、名前のない関係。

 

「やっぱり……ここが一番落ち着く」

 

 連れ合いの手入れした庭を眺めながら、テラスに座った若菜がそう言った。重力と、空気が、しっくりくるのだと言った。

 時折、向日葵畑の向こうの若菜のアトリエに夜遅くまで明かりが灯っているのが見えた。何か新作に打ち込んでいるのかもしれない。

 若菜はそんな風に、まるで惑星間移動するようにして、社と、アトリエと、この家を行き来した。

 

 ある日、アトリエの前で若菜に出くわした。つなぎ姿で、染めた布を干していた。

 「やっ」と、若菜が軽やかに私に声をかけてくれる。


 いつも溌溂として、物怖じしない。そんな社交的で大人びた殻の奥に、少女らしい不安定さを持って――

 いや、もう少女というのは失礼かもしれない。十九になった彼女の纏う色が私を戒めた。

 

 ふと、空を見上げる。

 ……何もない。

 何かあるように錯覚したのは、若菜の引力のせいだろう。

 天気雨のような彼女の眩しさに当てられた。

 優しく雨を降らし、でもその雲は若菜によってすぐ、ひと吹きに吹き飛ばされてしまう。

 若菜は、そんな女性だ。

 

 彼女に促され、私はアトリエの中に足を踏み入れた。

 

「けっこう、大きいね」

 

 それは高さ3メートルほどはあろうかという、大きなパッチワークだった。

 長方形ではない、不規則な形状。それは女性の形をしているように見えた。

 上部は灰色や淡い色で始まり、下へ向かうほど色鮮やかになるようグラデーションがかかっている。

 様々な素材の布が組み合わさっていた。

 『ボク』と題されたその作品は、若菜自身を表現しているのだと、そう説明してくれた。


 若菜と出会った時、彼女はその持って生まれた性と、誰かが恋と呼ぶ種類の指向に対して、独自の距離感を持っていた。

 友人たちと声を上げ、賑々にぎにぎしく笑い合っている時も、その横顔には、どこか放課後の教室みたいな乾いた孤独感が陰影をつくっていて、たぶん、親密さを恐れていた。

 そしてそれを気取られないよう、いつも芝居がかった振舞いと、よくできた笑みを浮かべていた。

 アセクシュアル・アロマンティック――類型化してしまえば、そんな言葉になるのかもしれない。


 彼女が私に僅かでも脆弱な一面を垣間見せたのは、当時の私が弱り切っていて、無害な井戸の穴の如き存在だったからだ。

 それは後に、彼女自身によって吐露された心境だった。

 

 彼女自身の口から、そんな彼女の複雑さが語られたとき、私はまず賢しらな思想や概念を後景化した。

 そして彼女に、自分の気持ちを大切にして欲しいと、それだけを伝えた。

 ……いや、ではなかったかもしれない。クドクドと呑み込みにくい言葉を吐いたような気がする。

 だから言われたのだ。「お母さんに似ている」と。

 

 ――いちばん自分に似合う色を見つければいい。それは君だけの〝GIFT〟だから。

 そんな、気障ったらしいことも言った気がする。

 もう、一年ほど前の話。感覚としてはもはや、だ。

 

 

 

 若菜のパッチワーク作品の中央、胸の辺りには不自然な空白があった。

 彼女はそれを、自己探求のための余白なのだと言った。

 

 自分探し――私は過去に、彼女がそう呼ぶ、小さな人生の旅路に同行したことがあった。

 水先案内人というには、あまりにも頼りなかったろうと思う。

 

 若菜は言った。私に対して抱いた感情の正体をつきとめたい、と。

 私は結局拒み切れず、自分探しに付き合うという言い訳で納得させた。

 彼女を。そして、私自身を。

 

 当時の彼女はもう18で、それはいまの時代には成人を意味していて、法には触れないかもしれないが、倫理的かどうかは別問題だ。

 それでも、その記憶は、いまも私の中の夕暮れ色の箱の中に、大切に仕舞われている。


 

 

 ――パッチワークか。


 私は村を訪れてからの、一年余りを振り返った。

 それはまさしく、パッチワークのような日々だったのかもしれない。


 妻の紗季を亡くし、放浪の果て、この村に流れ着いた。

 生ける屍のような日々はきっと、村で最初に若菜に出会った瞬間には、終わりを告げていた。

 

 ――いや、違うかもしれない。


 確かに、少女たちやその母との出会いは、私の中ではぐれていた過去の欠片との対話を促した。

 屈託ない瑞々しさ、小さな孤独と劣等感、眼差され支配される感覚。

 母性と孤高、……罪悪感。


 その対話を通して、私は過去を継ぎはぎ、失われていた人生の連続性を取り戻したのかもしれない。

 当たり前に連なり、続いているという感覚――悩むまでもない所与の自己同一性――それがいかに人間存在というものの自信たりうるのか。

 それは失った者でなければ、理解し得ないだろうと思う。

 

 傲慢な物言いかもしれない。

 でも、知りたくなどなかったのだ。そう思えばこそ、語らざるを得ない。

 だがそんな傲慢を冒せるのも、それが誰かの役に立ったという手応えがあるからだろうか。

 私がもっと当たり前に、彼女たちの正しい弱さに、寄り添えなかっただろうと思うから。


 だが再生自体は、もっと前。すべてを乱暴に手放したときから、もう始まっていたのかもしれない。

 生きているふりをやめ、人間のふりをやめて、地を這う小さな命のように歩み直し始めたのは、喪失があったからかもしれない。

 それを、皮肉と、誰かは云うだろうか。

 虫が良いと、云うだろうか。


 それでも、なにか言えることがあるとすれば、若菜は、いまパッチワークを編んでいる。

 それは、私にとっても、希望なのだろうと思う。



 * 

 


 ――夢を見た。


 夢の中で、夢だと分かる種類の、夢だ。

 チクタクと、時計の呟きが聴こえて、

 のひとつを開ける。

 

 一面の、深いあお

 

 あれは、流星だろうか。

 ……いや、ちがう。

 それは、人の子のかたちをしていた。


 夜の澄んだキャンバスに、

 ひとつ、またひとつ、

 小さな灯りが、ほどけてゆく。


 大切に結んだ夢の糸を手繰り、

 降り立つきみは、

 静かな大地のぬくもりに、

 片足ずつ、希望を沈めるのだろうか。


 吹きつける風に、銀砂が融け、

 波紋を広げる雲に、願いは滲む。

 いまは誰もいない向日葵の影。

 命のきざはしを、そっと撫でながら。


 天井の向こう、遥かな空を見上げると、

 まだ見ぬ誰かが、君を見つめている。

 きみの願いも、いま、小さな光となり、

 この地の片隅に、あたたかく灯り、響き合う。

 

 あたたかく、まばゆく、光がひろがる。

 祈りを、届けるために。

 


 * 

 


 

 爆発するような、音がした。

 夢ではない。現実だ。


 既に半身を起こしていた連れ合いの彼女と、顔を見合わせる。

 心細げな肩に手を添えると、まずはふたりで息を整える。

 それから跳ねるように、すぐさま服を着た。

 窓から、外の様子を見る。


 若菜のアトリエの屋根から、噴き上がる土煙のようなものが見えた。

 よく見ると、闇より黒い、穴が空いている。


 私は、まっすぐに駆けた。向日葵畑をかき分け、若菜のアトリエへと、ただ、まっすぐに。

 彼女がいるかは、分からなかった。

 

 ぽっと、建物に明かりが灯る。

 空気の塊が、肺の奥から、せり上がる。

 

 中に入ると、若菜はパッチワークの前で呆然と立ち尽くしていた。

 既に十分に、驚いた顔。その目を、さらに大きく見開いて、私を見た。

 

「大丈夫だった?」

 

 私が上ずった声で、そう声をかけると、若菜は促すかのように、再び視線を下げた。

 その場所――ちょうど空白だった胸のあたりに、それはあった。


 

 ――隕石だ。

 

 

 後で聞いた話によれば、それは「エンスタタイト・コンドライト」というものらしかった。

 精神的な成長と自己実現の象徴だという。

 隕石だって、メタファーになる。

 

 その象徴はそのまま落ちてきた場所――つまり、空白だった胸元にテグスで固定され、パッチワークの最後の1ピースになった。

 それだけで、作品は随分と立体的になった。

 

 

 隕石だって。

 

 私は、笑ってしまった。

 おかしな噺もあるものだ、と。


 それはある時、なんの前触れもなく、やってきたように見えて、

 あとになって思えば、すべては、必然。

 

 そういう種類のことが、この世界には、あるのかもしれない。


 遠く、強く、想う声が、

 いつか、ただしく、届きますように――

 

 そんな風に、祈っている存在がいたとしても、

 私は、驚かない。




 ――いまは、もう。


 


 

 

 隕石きざはし・了。


 

 

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