柘榴

 硝子と鋼が破局するみたいな音が鼓膜を引き裂いた。

 振り返ると、そこには大きな貨物トラックと、その前輪の隙間で洗濯槽にへばりついた洗濯物のようにひしゃげた――あれは恐らくBMWの白いバイクだ――それが目に飛び込んできた。

 初夏の倦み始めた空気の中に剥き出しの命の臭いが漂う。近い。

 咄嗟にドライバーの姿を探した。いや、きっと探すべきではなかったのだろう。

 だがそれはあった。事故現場から少し離れた、正に私の目の前にそれはあった。

 柘榴ざくろ――

 耳をつんざく悲鳴の間欠泉を潜り、近くの石のポールに寄りかかると、私は膝をつき、猛烈な吐き気に身を翻弄された。

 幸い、その日は朝からなんら固形物を採っていなかったから、出るのは黄ばんだ胃液ばかりだった。

 そしてもうひとつの不幸中の幸いと言うべきか、その事故は交番の目の前の交差点で起きた。つまり、事後処理は迅速に行われた。

 大丈夫ですか? 何人かの親切な声が私を気遣ってくれた。

 ハンカチで口元を押さえながら、嫌な記憶が去るまでその場で呼吸を意識する必要があった。

 二つの記憶。ひとつは粘つき、ひとつは水底のように冷たかった。


 その日は元々、歳の離れたのために画材を物色しがてら、映画の一本でも観ようくらいの気持ちで街に出た。

 元々は友人と一緒に来るはずだったが、急用が出来たということで私独りだった。でもそれが幸いだった。三つ目の救いがあったことになる。


 結局その後はタリーズコーヒーでぼんやりと過ごした。

 冷えた珈琲で頭の中を濯ぎながら、記憶の棚卸をした。

 それから夕方にバス停に行き、運転手の田中さんに、悪いが明日のダイヤでまた迎えに来てくれないかと頼んだ。

 村から街までのバスは予約制だ。彼は肩をすくめ、怒られても知らないよ、とだけ言って去っていった。

 私は連れ合いに連絡し、ちょっと色々あって帰りは明日になると思う、ごめん、と伝えた。

 彼女は、わかった、気をつけてね、とだけ返した。

 その声はいつもよりごわごわとして硬かった。

 確かに今回のようなことは初めてだった。私が急に帰らないようなことは、これまでなかった。不安にさせてしまったろうか。

 罪悪感が、タイヤの跡みたいに首元にこびり付いていた。


 日の傾く街をあてもなく歩き、私は一軒のアイリッシュバーを見つけた。

 路地裏に一件、ぽつんと佇むそれは私の好みだった。私は学生時代にバーでアルバイトをしたことがあったが、その時に知ったことはふたつある。

 ひとつは、仕事終わりのタップのヒューガルデンホワイトは至上だということと、もうひとつは、わたしは飲食業には向かないということだ。

 木製の重厚なドアを開けて薄暗い店内に足を踏み入れると、親密な木目調の内装が私を迎えた。

 どうぞお好きな席に。バーテンダーが漆のような艶のある声で私を誘った。私よりは少し年下に見えた。

 レザー張りの椅子のあるテーブル席には、控えめに談笑する老夫婦と、カウンターの隅でロックグラスを傾ける若い男性客がいるだけだった。

 私はバーテンダーの正面に腰を下ろす。

 扉と同様に厚みのある磨き上げられたバーカウンターの前には、真鍮で飾られたビアタップが並び、奥にはウイスキーやブランデーなど多様な蒸留酒のボトルが行儀よく主張する。

 オーソドックスで、奇をてらわない、純粋に酒を嗜むための場所という感じがした。

 きっとここのバーテンダーの彼はボトルでジャグリングしたりするタイプではないのだろう。

 彼は冷えたおしぼりと御通しのナッツを出してくれた。

 どうなさいますか、と訊かれたので、私はマッカランの12年をシングルストレートで頼み、チェイサーをつけてもらった。

 ウイスキーなんて久しぶりだったので、アイラモルトに行く前に比較的軽めのものが欲しかった。

 程なく提供された琥珀色のとろりとした露を口に含むと、鼻に抜ける豊潤な香りに痺れる。そんな罪の味に、今度は喉に追いかけるようにしてじんわりと熱を感じた。最近あまりウイスキーを飲まなくなった理由、それは胃腸が僕の心についてこれなくなったためだ。

 改めて店内を見回すと、ヴィンテージ調のポスターや前衛的な風合いのある絵画が飾られていた。常連客の中に駆け出しの画家でもいて、飾っていたりするのだろうか、と、そんな想像を広げた。

 隅には暖炉もあり、冬には実際に火を入れるのかもしれない。

 今度は、彼女と一緒に来るのもいいかもしれない、そう思った時、再び罪悪感が胸の奥から虫が這い出すみたいに昇って来た。そしてその虫は、昼間の嫌な記憶も一緒に汚水の如く引き摺って来た。

 意図せず溜息が出る。

「お悩み事ですか?」

 と目の前の彼が私に水を向けたので、溜息を聞かせてしまった罪滅ぼしに素直に肯定し、彼の職分に寄り添うことにした。

「ちょっと嫌なものを見ちゃってね」

 そう言うと彼は上品でよく設えられた笑みを浮かべ、まずは次のドリンクを私に勧めた。気づくと、マッカランは空になっていた。

 私はカリラの12年と、ウォッシュタイプの良いチーズがあればと頼んでみた。

 彼は冷蔵庫からチーズを取り出してスライスし、カリラと順に手際よく私の前に出してくれる。どちらも状態が良かった。

「酷いものだったようですね」

 酒肴に絆されていた私に、見通しているかのように彼が言った。事故直後の仏様をすぐ傍で見てしまってね、と告白すると彼は、それは大変なものを見てしまいましたね、と返した。

 頭が潰れていたと聞いています、と彼は言った。

 彼のらしからぬ挑発的な言葉に私は背中を不意に撫でられたような気がした。

 彼はさらに続けた。そう、まるで柘榴のように――そう言った。

 私はカリラ12年で酩酊しつつあったぐずぐずの頭で彼の端整な顔をぼんやりと見上げた。

 何かの瓶が反射でもしたのか、彼の瞳もまた柘榴色に仄暗く揺らめいていた。

 彼は噺を続けた。

「僕のいた村ではね、女の人が不貞を働くと、柘榴になったんですよ」

 最初、彼が何を言っているのか私の中で意味が通じなかった。断線している。

 それは何かの比喩ですか?と私が問うと、いや言葉通りですよ、と言った。

 手際よくグラスを拭くその手元から目が離せない。

 彼によれば、不貞を働いたそれら女性達はまず座敷牢に詰められるのだという。

 私は噺の雲行きが怪しくなったきたために周囲を見回したが、いつの間にか客は私だけになっていた。

 彼は続ける。

 そうして彼女らが詰められてからひと月ほど経つ頃には、柘榴になっているのだと。

 それは一体どういうことなのかと私が問うと、彼は一度だけの姿を見たことがあるのだと言った。

 手足は瘦せ衰えて干瓢の如くに萎み、腹だけが異様に大きく、そして紅く色づき、僅かに生々しい肉の裂け目が覗いていたのだと。

 そうして次に様子を見に行った時には、すっかり唯の柘榴がそこにあるのみなのだと言う。

 唯の柘榴――

 否、それは西瓜ほどの大きさの巨大な柘榴だ。

 その柘榴はどうするんですか?と、私は問うた。

「食べるんですよ」

 彼はさも当たり前のことのように言った。そして口の端を歪めた。

 あれほど美味いものを僕は知らない、そう、恍惚とした表情で語るのだ。

 私は、悪寒を覚えた。

「チェックで、お願いします」

 すると彼は、最期に何かさっぱりしたものはどうかと勧めてくれた。その表情からは先ほどまでの狂気は霧散していた。

 私は拍子抜けして、じゃあジンベースでお願いします、とオーダーした。

 畏まりました、と彼は言うと、冷蔵庫からレモンを取り出し搾り始めた。爽やかな香りが鼻腔を突く。夢から醒めていくような心地だった。

 シェーカーにタンカレーロンドンドライジン、レモンジュース、グレナデンシロップを入れてシェイクする。

 そしてクラッシュドアイスで満たしたロングドリンクグラスに注ぎ、最後にスライスしたレモンの果皮を叩いて香りを出したものと、ミントの葉を添えた。

「どうぞ、ジンデイジーです」

 彼はそう言って、木目の美しいカウンターの卓上に押し出すようにして、ドリンクをサーブした。美しい、ルビー色のカクテル。

 彼の言う通り、それは私の気分をすっきりとさせてくれた。雑念が取り払われ、不思議な多幸感に満たされる。腕のいいバーテンダーなのだろう。

「ありがとうございます、お勧めなだけありますね」

 私がそう言うと、彼は、そうでしょう、そのシロップは僕の村の特産なんですよ、と言った。

 グレナデンシロップ――つまり、柘榴のシロップ。

 息を呑む。だが――

「これは、確かに、美味ですね」

 頭の中でからからと音がした。

 それから私は店を出て、適当な漫画喫茶でバスまでの時間を潰した。

 

 その日は彼女も外で仕事があり、帰りは夕方だった。

 私は朝仕入れたスズキで前菜のカルパッチョを作り、彼女の好きなブーロ・エ・パルミジャーノ、それにレモンタルトを用意して待った。花束も忘れない。良い色合いのトルコ桔梗があって良かった。

 鍵の音がして玄関に向かう。おかえり、というと、ただいま、と彼女は言った。笑顔だった。でもやはり、綿が詰められたようながあった。

 すれ違いざまの彼女の微かな汗の匂いが、私の胸を締め付けた。

 食事の後、私は彼女に説明をした。

 目の前で凄惨な事故があり、取り乱したこと。それは過去の記憶を私の意図とは関係なく水揚げしたこと。

 ひとつは、かつて妻と胎の子を黄泉へと連れ去った事故の記憶であり、もうひとつは学生時代のサークルの後輩の記憶だと。

 あの日、桜の舞う季節、学生の私はいつものように大学からアパートへと帰る道を自転車で漕いでいた。

 途中、大きな国道の交差点があった。ぎらつくトラックが不自然な場所で停まっていたが、事故自体はよくあった。

 またかと思って何の気なしに信号の前でブレーキを踏んでふと左の方に目をやった時、私は見てしまった。いや、

 ちょうど、ほんの僅かに一瞬、ブルーシートが翻るその刹那、それは私の方を見ていた。

 柘榴が死の淵から私を眼差していた。

 後になって聞いたことだが、彼は左折するトラックの前輪に頭部を巻き込まれ、即死したということだった。

 彼は私の所属していたサークルの後輩だった。

 一年生で、まだ入学したばかりで、私は顔を見ただけで未だ一度も話したことがなかった。

 その日の夜、たまたま母から電話がかかってきた。なんのことはない、元気にしているかという定期確認だった。私は事故のことを話した。

 私はその時、愚かにも彼を悼む気持ちの共感を期待してしまった。

 だが実際に彼女から発されたのは違った言葉だった。

 彼女は言った。

 それは私に対する神の警句であり、日々をきちんと生きろと言っているのだと。

 私は、人の死を道具のように扱うなと怒りを押し殺して返した。いや、たぶん、押し殺しきれていなかった。

 彼女に悪気がないのは分かっていた。彼女には昔からそういうところがあった。

 想像力が足りない。いや、あるいは異なる種類の想像力なのだろうか。

 想像力には二種類ある。

 人を思いやり、共生していくための想像力と、人を操作し、搾取するための想像力だ。

 彼女のそれは、どちらなのだろうか。

 いや、きっとスペクトラム上に在るのだ。

 他人ヒトの子の死をもって、我が子を思いやる。

 おかしな話だ。

 そのはずだ。


 ひと通りの話を終えると、彼女は、そうだったの、と一言だけ零した。

「ごめんなさい、あなたを縛るつもりなんてないの」

 彼女は言う。昨日はたまたま、なんとなく、私に傍にいて欲しかっただけなのだと。自分の我儘であり、子供じみた感情であり、こんなことは普通二十歳やそこらの女性ヒトが思い悩むことだと。そんな風に己を恥じ、頼りなげに身を縮めた。

 私は言う。人が何かを経験する順序を決める、そんな傲った権利なんて誰にも与えられていないと。

 私がそんな風に彼女を励ます日がくるなどと、以前は夢にも思わなかった。

 そしてこう加えた。貴女が何かに出会う初めての瞬間ときに立ち会えるのが、私には歓びだと。私は言った後で、ちょっとマッチョだったかな、と頬を掻いた。

 彼女の中でかんぬきの外れる音が聴こえた。


 その夜の月は美しかった。四つ目の僥倖だ。

 私は親猫が子猫の全身をすっかり舐めるように、誰かが勝手に彼女に貼ったラベルをひとつずつ丹念に融かした。

 それから、彼女の髪や肩を撫でながら、その白い喉からとろとろと漏れる些細な話や愚痴を唯々うんうんと私の耳に流し込み、濾し、さらさらと夜の澄んだ空気に流した。

 月下で行われるその営みは海葬のようだった。

 記憶の海葬――


 彼女の寝息が聴こえ始めた頃、私の肩にも睡魔が留まった。


 そうだ、またふたりで、鮫を見に行こう。


 柘榴ざくろ・了。

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