【BL】犬も食わない

畔戸ウサ

第1話

 グランドピアノの独特な形はフリューゲルといって、ドイツ語で『翼』を意味する。


 あの形の成り立ちはピアノという楽器の物理的な事情——弦が長くなれば音は低くなり、短くなれば高くなる——によるもので、製作者の意匠ありきというわけではない。

 では、直方体に収められたアップライトはどうかというと、グランドピアノでは水平に張られている弦を、立てた状態で収納しているのであって、長い弦が低音を、短い弦が高音をという法則に変わりはない。しかしながら、弦を鉛直に収納するとなれば、当然、グランドピアノとは打弦機構が違ってくるし、響板の大きさや、音の響き方も全く違うものになる。即ちそれがピアノの性能であり、性能の違いは表現力の差となって影響を及ぼすことになる。


 ……とは言え、楽器の魅力を引き出す場面に於いて、奏者の実力に勝るものはこの世には存在しない。そんな感慨をしみじみと抱きながら、高槻創平はピアノの音に耳を澄ませていた。


 野宮陽夏が所有するこの家のピアノは、日本では滅多にお目にかかれないシュタイングレーバーのグランドピアノだ。その音色は創平の師であり、世界的ピアノマイスターでもある近藤隆志がお墨付きを与えるほど格別なものである。

 近藤の後任として野宮陽夏の専属となり、この一年間、所有者共々癖のあるこのシュタイングレーバーを見守ってきた創平であっても、思わず唸ってしまうほど、陽夏の演奏は素晴らしいものだった。


 これが本当に自分が調律したピアノだろうか。

 つい今し方自身も散々鍵盤を叩いていたはずなのに、創平が今耳にしている音は先程までとは全く別物だった。

 秋の落ち葉を思わせる暖かな音色は、陽夏の好みで前任の近藤や創平が作りあげてきたものだ。しかし、それぞれの個性を持った八十八の音は、陽夏の身体を通すことで見事なまでにブラッシュアップされ、無色透明の空間に奏者が思い描いた通りの情景を映し出してゆく。羽のように宙を舞う音の粒はどれも丸く形が揃っていて、変幻自在に様相を変化させる。鮮やかなグリーンに覆われた草原のグラデーションを描いたかと思えば、澄み渡る鳥の声のように景色に華を添えることもある。そこに見える木々、草花を揺らす風、そんな質感すら感じさせる音色だった。

 ソファーに深々と腰を下ろし、多彩な音の情景に身を投じながら高槻創平はあまりの美しさに思わず目を閉じた。


 ベートーヴェンピアノソナタ第10番 Op.14-2


 曲の難易度はそれほどではないが、男女の対話に例えられるユーモラスなこの曲には、数々の作品を生み出したベートーヴェンの挑戦の痕跡が見て取れる。悲愴や熱情に代表される三大ピアノソナタには数えられないものの、間違いなくベートーヴェンの名曲に数えられるであろう作品であった。


 テンポの早い第一楽章。細かいパッセージが続いても、陽夏の音には尖った物が全く感じられない。奔放でありながらどの音も粒が揃っていてそれぞれが奏者の司令通り八十八の音の役目を忠実に果たしているのだ。

 ため息が出るような演奏だった。

 調律の終わりに、と軽い調子で椅子に腰かけたこのピアノの所有者は、全くそんな気配を滲ませない、いつもの馬鹿面で鍵盤に指を置いたのだが、創平は一瞬でその世界に引き込まれた。


 ピアニストは、弦楽器や木管楽器のように自分の楽器を持ち歩く事ができない。コンクールにしろ、コンサートにしろステージではホールに準備されているピアノの中から選定を行い、本番に挑むことになる。自身のピアノでどれほど練習しようとも、観衆の前では他所の楽器を間借しなければならない。それがピアノ奏者の宿命だとしても、本人が抱えるもどかしさはいかばかりかと同情すら覚えるほどだ。

 故に、一流の奏者が自己保有のピアノでフルマックスの演奏をする機会など、そうそうお目にかかれるわけではないのだが——中には、コンサート会場に自分のピアノを持ち込む猛者もいるが——そのピアノに触れ、直に音色を聴けるのは調律師の特権だと創平は思う。

 食べることと、ピアノを弾くこと以外才能を与えられなかった単細胞生物、こと、野宮陽夏。日本屈指のヴァイオリニストである青柳真帆を母に持ち、その縁あって幼少期からプロ奏者たちに音楽教育を施されてきた陽夏は、十六歳にしてプロピアニストに勝るとも劣らない技術と表現力を身に付けていた。

 そんな男が自身の愛器でその力をいかんなく発揮すれば、この結果も当然なのだが、それにしても一人で聴くにはあまりにももったいないほどの演奏だった。

 陽夏の音楽はもっと多くの観衆の前で、そして音響効果が十分に備わったホールで披露されるべきだ。しかしながら、幼少期のトラウマを持った陽夏は舞台上での演奏には多大な不安を抱えている。なので、諸々の事情を考慮すると、やはりこの演奏はここでしか聞けないものということになるのだが……。


 もったいない。


 創平はその思いを拭い去ることができない。

 演奏の邪魔をしないよう、小さく息を吐いてクタリと肩から力を抜いた直後、

第一楽章から第二楽章へと曲は進行していった。試弾ならもう十分だろう。創平も今日は仕事としてこの家を訪れている。陽夏の調律は時間がかかるので、後は帰社するだけの流れだが、だらだらとここで時間を浪費するわけにもいかない。名残惜しさはあれど、そろそろサインを貰わねばとタイミングを計っていた時だった。

 あれ? と頭に疑問が浮かんだ。

 何か違う。何かがおかしい。

 この曲はこんな曲ではなかったはずだ。

 しかし、あまりにも自然に移行した違和感に、そして何故か馴染のある曲のような気がして、創平は一瞬混乱した。

 絶対にどこかで聞いたことがある曲だ。しかし、何かが違っているような気がして咄嗟にその曲が思い出せなかった。

 三秒ほど頭がフリーズした後、ようやく陽夏が何をやったかを理解した創平は、そこへきてようやく口を開くことができた。

 

「おい!」


 陽夏の演奏がピタリと止まる。


「何でラジオ体操弾いてるんだよ?」


 しかも、冒頭ではなく途中から。正式な名前は分からないか、音楽に合わせて腕を空に向かって曲げ伸ばしする運動だ。そうと気付かせなかったのは、陽夏のアレンジが巧みだったことに加え、ラジオ体操の方を転調して演奏されていたせいもある。


「いや。創平寝てるのかと思って……」


 天才的なことをサラリとやって見せたピアノの申し子は、しかし、全く頓珍漢な言葉を口にして創平を見た。

 寝る!? 寝るだって!?


「お前の演奏聴いて眠たくなったことなんて一度もねーよ!」


 馬鹿かお前は!

 せっかくの演奏だったのに、もっと真面目に弾け!

 咄嗟に口にしてしまった暴言に、陽夏は何故か感極まったようにほんのりと頬を染めた。陽夏を叱ったつもりが、全力の誉め言葉になってしまったことに創平も遅ればせながら気付く。

 丁度一年前、陽夏と創平は初めて言葉を交わした。その時はピアノに触るなと腕に噛みつかれるほど険悪な仲だったのに、その後の紆余曲折もあって陽夏はすっかり創平に懐いた。

 否、それどころか……

 気まずい空気が流れ、視線を先に逸らしたのは創平の方だった。


「ピアノは大丈夫?」


 バッグの中から作業表を取り出すフリをして、どこかに不具合はないかと陽夏に尋ねる。


「うん」


「問題あるなら今言っとけよ。後で何かあったら出張料取るからな」


 頷く陽夏にバインダーごと渡してサインを求め、自身はピアノに収納されていた調律カードに日付と自身の名を書き込む。


「え……あー…………」


「やっぱなんかある?」


 今ならいくらでも調整してやるが……。

 調律カードを同じ場所に戻しながら、創平は陽夏の方を見た。

 クリクリしたアーモンド形の綺麗な瞳が遠慮がちにこちらを見ている。日独クォーターの陽夏の目と髪は、ピアノの音と同じように温かみのある栗色をしている。綺麗に整った目鼻立ちも透き通るような肌の色も、アジア圏の人間にはない性質だ。

 子どもから大人へと目覚ましい変化を遂げるこの時期、最近の陽夏は時々創平が驚くほど大人びた顔をするようになった。

 調律師兼、体の良いハウスキーパーとして陽夏の親に認知されている創平は、仕事上の絡みもあって断るに断れず今でも週二、三回ペースで陽夏の世話をやいている。

 何かあれば出張費を貰うと言うのは、公私混同しないための線引きに過ぎないのだが、きっと陽夏がピアノのことで本当に困っていたら出張費などなくても手を差し伸べるのだろう、という確信にも近い予感があった。


「中間テストが……」


「はぁ?」


「ほら、高校って留年とかあるじゃん?」


「…………で?」


 半眼の創平と対峙して、風船が萎むように勢いを失った陽夏は自分の胸の前で両手をモジモジさせながら言葉を紡ぐ。


「……………………勉強教えてください」


 出た出た。毎回このパターンだ。去年、受験生だった陽夏は自分の生まれ故郷であるドイツに帰るか日本に残るかで散々揉めた挙句、周囲の反対を押し切って日本に留まることを決意した。その原因を作ってしまった創平は、陽夏の母と、そのマネージャー兼事務所社長である女性から多大な不興を買うことになってしまった。

 調律以外の陽夏の世話に関しては、完全に時間外のオプションサービスになってしまうのだが、だからと言って断るに断れない大人の事情(またはカスハラとも言う)があったのだ。


「…………いいけど、テスト範囲は解ってんのか?」


「え?」


 至極当然の質問にもポカンとした顔をする陽夏。

 あー、もうこれ、絶対に授業中寝てるやつだ、と創平は確信する。

 教師が『ここテストに出るぞ』と言えば、テストに出る。当たり前のことさえ書き留めていないであろう、真っ白な教科書が易々と想像できた。

 陽夏は決して馬鹿ではない。相当数の楽譜を暗記しているし、何をどこで注意するなんて譜面のメモも全て身体に染み付いている。ピアノに対してはその才能をいかんなく発揮できるのに、ピアノ以外には一切空きドライブが存在しないのが野宮陽夏の陽夏たる所以だ。


「え、じゃねーだろ! まずテスト範囲を把握しろ! 寝るな! 授業中に!」


「だってさぁ……板書消されるの早すぎて……」


「だったら友達に聞け!」


「友達いないし…………」


「屁理屈ばっか言ってんじゃねーよ! 隣の席の人間でも何でもいいからとにかくテスト範囲を特定しろ! 分かったか!?」


 勉強を教える前から手ごたえの無さを痛感しつつも、創平は意地でも陽夏を留年させるわけにはいかなかった。

 陽夏が日本に残った理由。

 それは、同性である自分に好意を抱いているからだ。

 九つも年下の未成年など、創平の恋愛対象になり得るはずがない。しかし、ピアノという共通項で繋がり、ピアノ奏者として世界中で唯一無二の存在だと認め、誰よりも尊敬するこの男のことを、創平はどうしても放置することができない。

 何が最善なのか、創平自身もそれが分からないままなのだ。


「お前、もし留年なんかしやがったら、今度は家庭教師も有料制にするからな。分かったか?」


「はい。ごめんなさい」


 ベートーヴェンピアノソナタ第10番 Op.14-2

 かつて、日本では『夫婦喧嘩』などという名前も付けられたベートーヴェンの隠れた名曲。

 創平の命令を受けた陽夏は、まるで本人がその第三楽章の最終節を再現するかのような小さな返事を返し、やる気の無さをトッピングした仏頂面で不承不承頷くのであった。

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