第23話

   *


 暗闇に紛れた私は、所々に出来た水溜りに細心の注意を払いながら、教主殿前の庭石を踏んでいった。背後からは足音も立てずに白沢がついて来ている。

 左手に見える闇に沈み込むかの様な教主殿を迂回し、右手にある手水舎と、塗装されていない木の鳥居の連なりを潜っていった。小ぶりな拝殿を過ぎて裏手に回ると一基の石の鳥居があり、その先に周囲をしめ縄で囲われた奥に長い楕円形の竹薮が姿を現した。

 ここまで辿り着く事が出来て、私は胸を撫で下ろす。

 ざわわと、頭上に覆い被さった竹が闇夜に鳴いていた。

 マガツ教にとっての神域。神主と巫女しか入る事の許されていない禁足地へと私は足を踏み入れていく。

 辺り一面の竹落葉の上をしばし歩いていると、一層と濃くなっていった闇夜の中で前後不覚となった。

 曲がりなりにも神がいると言う聖域で闇に包まれていると、何か得体の知れない怪異に見下ろされているかの様な恐怖感を覚えた。

 今もそこで、その竹林の合間から、頭上を覆う木の葉の上から、何かに見られているかの様な――

 私が恐怖に苛まれようとしている時、ハロゲンライトの温かみのある灯りが私の足元を照らしていた。随所に出来た水溜りに光が反射している。

「これだけ鬱蒼としていれば光源を足元に向ける様にすれば外からも見えないだろう」

 そう言われてようやく私は懐中電灯の存在を思い出す。

 電源を付けると、いたく古い懐中電灯からは心許ない光が灯るばかりであった。電池が切れ掛かっているのか接触の問題なのか、私の物も白沢の方も時折明滅して、その光量も精々数メートル先の闇夜を僅かに切り払う程度である。

 前方を照らすと、苔生した石の灯籠が続いているのが見えた。頼りない光源の届くよりも先は闇である。

 口を開けた魔物の体内へと彷徨い込んでいくかの様な不安を覚えたまま、私は奥行きのある竹薮の最深部を目指していった。

 歩みを進める度に落ち葉がカサカサと音を立てていた。果たしてこの足音は私と白沢より発せられたものだけだろうか……。

 またもや得も言えぬ不安に駆られた私は、その感情を紛らわす為にも声を出さずにはいられなかった。

「先生、やはりマガツ教の信仰するマガツ様と、かさねちゃんの腹から産まれると言うは同一のものなのでしょうか」

 白沢が頷いていた。物珍しそうに周囲を見渡す様にしている。

「団十郎さんは言っていただろう、我らが教義において神は形をなすものだと」

 父が昨日の去り際にそう言っていたのを私は思い出していた。それがマガツ教における教義である事を私は知っている。

 平らな石の積み上げられた上にある、古びれた祠を横目に過ぎ去っていく。

「マガツコとはおそらく、だ」

 ならば、再誕の儀を持って産まれ落ちる神様の子とはどの様な姿をしているのだろう……考えたけれど口にはしなかった。

「そんなの異常です、神様の受肉なんでできる筈がないって事は――」

「わかっているだろうね。団十郎さんは元は俗世に触れていた人間だ。そんな幻想は叶わないのだという事など承知している」

 水を浴びせかけられたかのようなゾッとする冷たさを全身に感じた。しかしそれは心象的なものではなく、頭上を覆った竹葉を伝って実際に雫が垂れて来ていたからだった。

「それならどうして?」

「それがとんとわからない。しかし団十郎さん程に科学的思考の出来る人間が今更まじないや祈祷で空っぽの腹から神が産まれると考えているとも思い難い。……島民なんかはおそらくそんな認識なのだろうが」

 それは未だ白沢でさえわからないのだという。

 確かにどう考えても荒唐無稽な話だ。いくら信仰に入れ込んでいるからといって本心から確信出来る事ではない様な気もする。島の子供達と違って、父には常識があるのだ。

 父は、マガツ教は一体なにをしようとしているのか?

 白沢はぐるりと周囲を見渡す様にしながら言った。

「いずれにしても怪異の正体は――この先にある」

 私は静かにあの頃に見た産女の姿を想起して戦慄していた。思えばあの時に見た、産女の抱いた赤子こそがマガツコだったという事なのだろう。

「先生、本当に累ちゃんのお腹の中に宿るとされているマガツコがこの先にあるんでしょうか。本当に、あの頃の姿のまま……今も」

 あの頃見た赤子は、十年の時を経てもその姿のままなのだろうか。

 それとも、成長しているのだろうか。

 いつまでも産まれいでる事の無いその腹の中で。

 そんな事はあり得ない。

 そしてそんなものはある筈も無い。

「それはキミの目で確かめてみるといい」

 私は今一度、あの恐ろしいものを前にしようとしている。何処か幻想めいていた記憶を、逃れようもない現実として、いま再びこの目にしようとしているのだった。

 そこに再びにあらぬものを見た時、果たして私は正気でいられるだろうか?

 夏の暑さを忘れ、生き物の声もない森の中は静寂としていた。耳を澄ますと、やがて激しく流れる水の音が聞こえてきた。子産川こうみがわからの分流が近いのだ。

 昨日の嵐で増水しているとはいえ、それは精々用水路程の幅のまま、地中に走った自然の窪みを激しく流れていた。窪みに留まり切らずに溢れ出した水は地表を流れ去っている。そのせいでここら一帯が水浸しになっていた。

 そのか細い水流を一跨ぎにした先に、大きな石の祭壇と紫色の御幕を外周に巻き付けた朱色の神殿を見つけた。

 まるで闇夜に浮かび上がるかの様な赤色である。あの小さな、お堂に似ている神殿の中で、私はを見たのだ。

 途端に心臓が高鳴りを始めた。動悸がして拍動が耳にまで振動を伝えるかの様だった。

 そこに色の無い産女が。

 母の羊水を離れた、時を止めた赤子が――。

 水辺を前にして立ち止まっていた私を置いて、白沢はもう神殿の前に辿り着いていた。そして周囲をぐるりと周り、固く閉ざされた観音開きの扉の前でしゃがみ込む。そこには和風南京錠が掛かっている筈である。白沢はポケットから何かを取り出してから手元を懐中電灯で照らす様にしていた。

「探偵ならば……これくらい……っ」

 どうやって錠を開けるのだろうかと考えていた私だったが、なんとこの男は怪盗よろしくピッキングをしている。そして手際良く事を成し遂げ、今や青く錆びた和風南京錠を手にしていた。

「キミの様に野蛮な方法は用いない。さてこの先に居るという産女のご尊顔を拝もうか」

 視線の高さの御幕を暖簾の様にして手で払い、白沢はなんの躊躇いもなく神殿の中へと踏み込んでいった。記憶の中の恐怖に怯えて動けないでいる私は、やはり固唾を飲んで白沢を待つ事しか出来ないでいる。

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