2【天海唯】
第6話
【
それは夢とも金縛りともつかぬ感覚として知覚される。
微睡の渦中に覚醒し、冴え渡った思考。そんな自分を俯瞰しながら、この体が一寸たりとも動かせない状況だけを知る。
私は自室の白いローベッドの上で身動きすることさえもできずに、開眼したままとなったその視線を、ぼんやりと浮かび上がった天井のシーリングライトに向けるしか無い。
無音の時間が経過していく。
いいや、本当の意味での無音などありはしないという事をわからされる。
私が無音だと思っていた空間には、かちりかちりと秒針を刻む音がある。空調からだくだくと流れる風の音がある、その駆動音がある。遠くを行き交う自動車の音がする。風の音がする。すぅすぅと言う自分の呼吸の音がある。布の擦れる音がある。微かに動けば髪の擦れる音がする。
布団に深く潜り込み、寝静まる頃には無音なのだと感じていた。しかしこの世界は絶え間のない音に支配されているのだという事を認識させられる。
普段知覚している私の感覚など、なんと曖昧なものか。それは脳が錯覚させたまやかしに過ぎないのだった。
この様にして、人の脳は簡単に錯覚を引き起こす。
……だからこの夢も、金縛りの最中に見るこの恐ろしい現象も、思えば私の恐怖を根源とした幻影に過ぎないのだろう。
金縛りという現象は、レム睡眠中に意識だけが覚醒する睡眠麻痺の状態だと言うことは科学的に証明されている。つまり私が金縛りに遭遇している時、私はまだ夢の中にいる訳で、私がそこで恐怖を抱けば、それに起因して恐ろしいものが現れて当然なのである。
夢というのは人の潜在意識や欲求の表出であるのだから、これは私が産み出したものである事に違いはないだろう。
――静かにすすり泣く女のか細い声が、視線も下げられないでいるベッドの足元の方から聞こえてくる。
今更私がこの金縛りという現象に恐怖を感じているとでもいうのだろうか? もしくは私の深層心理に潜んだ何かしらの因子が、この女の存在を産み出しているというのか。
女は口元からすかすかと空気の漏れるかの様な微かな声で、何事かを、うわ言のように繰り返し続けていた。
……ず。
と私の視線が足元の方へと下りていく。女のすすり泣いている足元の方へ。
これは一体どういう事なのだろう。普段と同じ悪夢であるならばここらで解放される筈なのだが、今日はその続きを見せられているらしい。
――それは私が十年来見続けている同じ夢の内容が変異を始めた事を意味していた。
微かな声を漏らし続けるその女は、やはり私の足元の所に立ち尽くして背中を向けている様子だった。白装束を纏い、ボサボサに乱れた頭を俯かせ、悲観に暮れるその声に合わせて頭を前後させている。墨の様に黒い髪が振り子の様に揺れていた。その動きは段々と激しくなっていって、女が正面にする壁にかさかさと毛髪の触れる音がしていた。
無機質と言われる程に何の飾り気も無い私の部屋の白い壁を背景にしながら、暗闇の中に浮かびあがる白装束は、腰から下の辺りから血に染まっていた。血生臭さがこちらに漂って来るかという程の血痕。所々が黒い血溜まりとなって凝血している。
こちらに背を向けたまま、女の首だけが僅かにこちらを向き始めた。
私は女の乾いた口の端が僅かに動き出すのをその横顔に見ていた。
そして蚊の鳴く様な掠れた声で、女はこう繰り返しているのだと、私はその唇の動きから読み取ってしまった。
――かわぃそう……カわいそぅ
徐々にと女の声が鮮明になって来ている。それは女が、仰向けの体制のまま視線だけを足元へと下ろしている私に向かって、ゆっくりと体を振り返らせて来ているからだった。
――かわいそう、かわいそう……
今や半身になる程に振り返った女が腕に抱いているものを見た私は――心の底より戦慄した。背中に氷水でも流し込まれたかの様な怖気が、鳥肌となって全身を覆い始める。
女は、
――赤子を腕に抱いている。
血を被り、赤黒くなった赤子を。
今お産をしたとでも言わんばかりに、女の白装束の股ぐらの辺りが、特にドス黒い血に覆われているのをまざまざと見せ付けられた。
「かわいそ う」
周波数のズレたラジオから聞こえて来るかの様なブツ切れの声。
それでもこの女は、確かに私にそう言ったのだ。
私の目を見て、私を見下ろして、言葉を吐いたのだ。
赤子は死んでいるかの様に身じろぎ一つ、呼吸に合わせて上下する筈のその胸の動きさえも見せずに、ぐったりと伸びた四肢を投げ出して、母親に揺すられるまま瞼を揺らし、小さな口を半開きにしていた。
母親は死んでしまった我が子を憐れみ、閉じてしまったその目を開かせようと何度も揺すっているかの様でもあった。狂気に陥ってしまったその瞳に、そんな事を思う。
――どうして私にこんなものを見せるのか。
私の潜在意識に、どうしてこの様なものが存在しているというのだろう。
私は固く瞼を瞑ろうと努めてみるが、どうしてか瞼は瞬きさえ忘れた様に剥き上がるばかりであった。
「抱い て」
女は正気を通り越した瞳で私を見下ろし、腕に抱いた大切な赤子を私の胸へと差し出してくる。私は女の左の口の端にある小さな黒子を二つ見つめながら、心の中で唱えた。
――嫌だ、嫌だ。
そう願っても言葉にならずに、女は足を引きずる様にしてベッドの傍にまで辿り着き、私の胸に赤子を乗せた。
これが自分の作り出した錯覚である事も忘れ、夢に呑まれた私は、失神しそうな恐怖に襲われながら、動かないでいた筈のこの腕が、私自身の意識を超えながら掛布を捲り上げて前方へと突き出し、とうに死んでいる筈の赤黒い死骸を愛おしそうに胸に掻き寄せるのを黙って見ている事しかできなかった。
この指に、血生臭く、氷の様に冷たくなった小さな肉の塊が触れた時――。
――ドクン、
と。
死んでいたかの様な赤子の拍動を指先に知覚した。
そしてどういう訳か次の瞬間に、手に抱いたこの冷たいものの正体が、赤子ではなく胎児なのだと、そう考えた。
既にこうして産まれているのだから新生児なのではないか、胎児とは、母体に宿る生命の事をそう定義するのであるから、やはりこれは赤子ではないのか。
それでも、
この子やはり、母体を漂う胎児なのだ。
そしてこの胎児は私なのだ。
私がどうしてそんな事を確信しているのか、それは私の夢の中の感覚の事であるのでわかりようもない。
私は私自身の産み出した錯覚に対して説明が出来なかった。
驚いて吐息をするのも忘れていると、死んだと思われていた胎児が瞼を押し開き、黒目をぐりんと動かして私を見上げた。
私自身の目で――。
母親が私の側で狂った様に揺れている。今度は瞳を開けた赤子を嬉しそうに笑って見下ろしながら。
そして胎児の私は、私の胸に抱かれてハッキリと言った――微かにその両の口角を吊り上げながら。
「お母さん」
――ギュッと、冷たい手が私の首に纏わりついて来た。
声にもならない悲鳴が頭の中で渦を巻いて、私の悪夢は途絶した。
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