第4話
唯さんの電話番号を手に入れたまでは良いのですが、私にはまだ考えるべき事が残されていました。
それは、これからどうやって唯さんに電話を掛けるのかと言う問題です。
私たちは外界との接触を信仰上の理由により禁じられています。そしておそらく私たちこの島の島民全員から――
――いらん虫がつかんように。
――外界の穢れが及ばんように。
事あるごとに島民は私たちに言って聞かせます。
なので唯さんに電話をしている事がバレたら、もう二度と電話に近付かせてもらえないに違いありません。きっとこのメモも取り上げられてしまう。そしたらもう姉を救う手立てがなくなってしまう。
そしたら、姉の腹にいるナニカが産まれてしまう。
私たちの信仰するマガツ教では、この島だけが聖域であり、外部の島も人も穢れであると教えられてきました。
そういった考えから、私たちが電話線を通じて外界との繋がりを持つ事を懸念しているのでしょう。
ですが、そもそも繋がりを持ったからといってなんなのでしょう。
外界で唯さんは暮らしているし、外の世界が全て穢れているというのもよく分かりません。外の世界では、それはそれは私の想像を絶するだけの沢山の人が暮らしているのだと学校で教えられましたし、私たちの住む島民僅か百名ほどのこの島だけが楽園であり、厄災から救われるなど、そんな事など本当にあるのでしょうか?
巫女であるにも関わらず信仰に疑問を抱くのは大変に罰当たりな事なのかも知れません。
けれどそういった疑念が私の中で、先日の姉の不審な妊娠を契機にして湧き上がってしまったのです。つい先日まで私の中で絶対的であった観念が一転してしまった。思えば唯さんもきっと、この様な心境の変化があってこの島を出たのではないのだろうかと、そんな風にも考えました。
新緑の隙間を縫って降り注いで来る木漏れ日と、側を流れる清流のせせらぎが虫たちの合唱と入り混じり、夏の様相を映し出していました。
集落へと戻る林の道を下っていくと、不意に山肌を下って来る足音が耳に届きました。
「あっぱよ〜、黒塚さん所ん
山を滑り降りて来るかの様な格好で私の前に降り立ったのは、山で林業を営む
「
灰色の作業着姿の松村さんは、手にしていた小ぶりの鎌を腰袋に押し込みながら白髪の短い頭を左右に振って私を見ていました。
「あ、はい。急に潮風にあたりたくなってしまったもので……気を付けます」
そうとだけ告げて、私は足早に集落の方へと戻っていきました。
「気ぃばつけしゃい〜」
一度振り返り、未だにこちらを見つめた格好のままその場に立ち尽くした松村さんを遠く見やりながら、私は思いました。
――虫喰崖に行ったなんて、誰にも言っていないのに。
どうして松村さんは私が崖に行った事を知っているのでしょう。この先の道に虫喰崖があるから辺りをつけたのでしょうか。しかし道は幾重にも広がっています。
林を抜けると民家がぽつりぽつりと立ち並ぶ月集落が見えて来ました。勾配のある田園風景が夏の日差しを受けて青々と照り輝いています。
私は蛙の潰れたアスファルトを踏み出しながら、早くに両親を亡くしてから叔母と三人で暮らしている黒塚家の邸宅を目指しました。
いくつかの畑を横目にこのまま西の方へと歩いて行けば、村を横断する子泣川に掛かった小さな橋があり、その先に私の家があります。
青い稲穂の茂る段々の田畑を左手にしながらひび割れた田舎道に影を落としていると、遠くから私を呼ぶ声がしたのに気が付きました。
「菊織ちゃん。あがんあんなかところ行ったらいけんばい」
声のあった方角へと下ろしていった視線の先に、下り傾斜になった田んぼの中程で日除の農園帽子のつばを立ち上げながらこちらを凝視している
――この人も、私が何処でなにをしていたのかを知っている……。
畠中さんの呑気な声は、村一帯に響き渡るかの様でした。
私はその時に空寒い感覚を覚えたのですが、慌てて会釈をしてからその場を足早に通り過ぎました。
「菊織ちゃん、熱中症に気ぃつけんしゃい」
村を横断していく小川を渡る橋を越えると、私は乱れた息を整えながら川沿いの細道を歩く様にしました。途中、道端に小さな祠が現れ、そこにポツンと鎮座された肩を寄せ合った二柱のマガツ様が刻み込まれた石碑があり、その足元には真新しいお供物がされていました。
そこで軽トラックが坂下から上ってくるエンジンの駆動音が聞こえて来ました。すると瞬きする間も無く、道の端に寄った私の横で停車します。見ると運転席側の窓がスライドしていって、キャップを被った老父が歯抜けの口で言いました。
「おおーい巫女さ! もうすぐやなぁ、お姉ちゃん子ば産まるるんはおっだの悲願たい」
「は、はい……
「いんやぁ、おっだのほんなこち大事な巫女さが怪我でもしたら大変やと思うて車を飛ばして来たんやばってん、杞憂やったかなぁ」
私は麦わら帽子のつばを引き下げて表情を覆い隠しながら、その下で密かに唾を飲み込んでいました。
やはり私の動向は島民に把握されている様なのです。
確かに島民には昔から、この島にとっては特別な意味を持つらしい双子の私たちを陰で見守る様な側面がありましたが、姉が妊娠後期に入った辺りから、監視がさらに徹底されている気がします。
何処に行っても見られている。その事に気付いてしまってから、この島での居心地の悪さと来たらありませんでした。
所々のひび割れから草の突き出しているアスファルトの道を軽トラックの駆動音が遠ざかっていきます。
私はしばらく、田中さんの乗った白い軽トラックが走り去っていくのを唖然と眺めている事しか出来ないでいました。
――もしかすると、私が手にしたこの唯さんの電話番号の事も島民は知っているのだろうか?
そんな疑念に一瞬駆られたのですが、それはありえない事だと思い直しました。
ポケットに畳んで仕舞い込んだ唯さんの電話番号の紙を、私は服の上から確かめる。
ほっと息を吐いてから顔を挙げると――遠くの民家の生垣の上に、見知った顔が三つ並んでこちらを真っ直ぐに見つめているのに気付きました。
「ひっ」
生垣の上に並んだ表情の無いさらし首を認めていると、私は恐ろしくなって側にあったトタンの納屋に寄り掛かかってしまいました。錆びたトタンに頭を預けて逃げる様に顔を背けたのですが、私は意図した思惑とは反対に、視線を背けたその先にもっと恐ろしい光景を見る事になったのです。
小川の向こうを行き交う老夫婦に、庭先に出た家庭菜園中のおばさん。犬の散歩をするお婆さんに畑仕事で腰を曲げている中年男性。
十数年来変わらぬままの牧歌的な光景の中で、島民たちの真っ黒い目だけが一斉に私へと注がれていました。
背筋に冷たい感覚を覚えました。
もう目と鼻の先に自宅が見えていました。私は逃げるようにして戸口へ飛び込んだのです。
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