ロジオンの墓

熊埜御堂ディアブロ

ロジオンの墓

 中と外を遮断する透明感のない黒色の袋に入った遺体が一つ、手足の緊張を落としきって運ばれいるのを待つ間、彼は思い出す。

 その遺体を解剖する前には、まず自分自身の価値観を解剖しておく必要があるだろう。死者は面する生者を映す鏡になるのだから。

 そして、もしそれを人間として考える必要があるのなら、まだ遺体ではないのだろう。遺体でないなら何だと聞いたら、笑ったまま、整理しきれていないのなら答えを求める事なく考え続けろ、と伝えてくれた。

 仲の良い友人との会話である。

 遺体が運ばれてくる。手術台ならぬ作業台が並べられている部屋。友人の重い体が持ち上げられ、金属の板に吸い付くように静かに落ち着いていく。その運搬の一連の行動および完了を眺め待つのは、一刻一刻が無味無臭な飴のように伸ばされて、口に放り込まれているようでもあった。この仕事中はいつだって、口の中は乾きっぱなしで、その後の食事はいつも最悪に臭く感じる。

 ストレッチャーが片付けられていく。累積していくこの工場の遺体の中の一つとして、目の前の解剖台の上にいる。それでも最後の会話を頭の中で反芻すると、これが黒光りのスピーカーであって、友人の声が中から響いて聞こえるのを期待したくもなった。ここの工場は、頭の中以外は恐ろしく静かだ。

 タグに書かれた名前を口に出せば、鍵が刺され捻られるように意識内で何かが動かされる。音が活き活きと全脳を揺らし、死者の持っていた生活へ尊敬の為に想像を巡らすのではなく、記憶を通じて確かな存在としていた実像に、計り知れない距離感とその記憶の静かな停滞を告げようとする。

 「ロジオン・ゲルツェン」

 黒い袋の太いチャックを、エレメントがひとつひとつ外れるのを皮膚で感じるように、輪の部分が折れたスライダーを少しずつ降ろす。黒毛に近い灰色の頭髪と髭が同量の、死後も生前もあまり表情の硬さが変わらない、友人と呼ぶには年齢の離れすぎている人の姿があった。眼、鼻、耳、皮膚が、情報を引き出すまでもない。脳幹から過去を探すよう命じられるみたいだ。友人は鏡とでもなりたいかのように身体を露にしている。デニスの海馬は独立して強烈に回転し、自分自身の体験し思索した事の多くを照らしていく。



 *



 死体は資源だ。そう考えるのに慣れるまでは、案外短いように思う。どんな人にとっても、死体が死の体現者だと訴えられ続ける事は、段々と疲れていくのか、慣れを感じるのか、本質を見出した錯覚なのか知らないけれども、単純に健康に良くないからやめていくような気がする。勿論、それだけ異常な数の死体が溢れている環境の話だけれども。

 モスクワからよく離れたある地方の工場では、出自を問わず、兎に角使い物になる遺体を引き取っては保管しておき、一体ずつ解体したら、中から資源になりそうな骨や腱などの組織、眼球の角膜、心臓弁、虚血に比較的強い内臓などを摘出。医療用にモスクワの病院の臓器バンクに提供したり、医療大学での研究用の部品として輸送し、しかるべき手段で残りを処理していく。質が良く新鮮であったり身元確認の取れている遺体はストレッチャーごと冷蔵室だが、身元不明や死因不明、状態の良くない遺体は倉庫に山積みにされる。天然の冷蔵庫みたいな季節だから、腐る事は無い。

 ここは出来る限り合法の範囲内で行っている。けれども、死体を探すのではなく積極的に作ろうと働いたり、金にものを言わせるブローカーがいたり、管理や処理が余りにもずさんだったり。そういった酷い施設は、戦争や貧困などが原因で死体が入手しやすい国を中心に存在する。

 イスラエルでは、戦災で亡くなったパレスチナ人やイスラエル軍兵士、外国人労働者などから不法に臓器摘出を行っていた法医学研究所が問題になっていた。中国では、交通事故で亡くなった遺体の発見時、何故か臓器の一部が抜き取られていたニュースが話題になった。

 逆に、合法的かつ合理化に基づいたアメリカの非営利団体が、データベースに登録された献体を元に生体医療資材をパッケージ化しているのもある。

 国内でも国外でも、死体移植事態が論議を呼ぶ問題にはされてはいるが、正しくないビジネスが広がっている背景を見ると、そうやって遺体を資源加工する事が、どこかグローバルに広がりつつあるのだと思う。あまりに高すぎる生体資源への需要が、そういった不透明な供給源を生み出している。


 そういった事実を知りながら、今までの献体がどこからやってくるのかをしかし、デニスはそれほど真剣には考えた事が無い。デニス・ユロフスキー。働き始めは悩ましい精神論が頭を駆け巡ったけれども、目的意識がはっきりしていたせいか、激しい振動はすぐ穏やかな熱源に変わっていった。

 裏口に停まったトラックから搬出される幾つかの献体を、工場の総務担当のロジオンが、蓄えた髭と深い皺に、汗の雫を浮かばせながら運び入れている間。袋の大きさから、性別、年齢、食習慣とかが見て取れる。冷蔵室や倉庫に並べられてからは、静けさと同化した彼らが、どうしてそうなったのかを推測するのが、日課だったりした。ただ、観察眼を磨きたい意欲だけだったりして、他人の死に衝撃を受けるような初々しさは、結構前に麻痺してしまっている。

 老人、ロジオン・ゲルツェンは、解剖以外の仕事をよく引き受けてくれる。結構な年齢の割には、軽々と持ち上げてはストレッチャーを押したり、摘出した臓器を丁寧に運んだりしているものだから、

「仕事、慣れて来たんだね。ご老体」

 とか声をかければ、

「こいつらが鍛えてくれたんだ。若いの。大切で尊敬すべき方々がな」

 と、献体を指差して、とても小さな笑顔を見せてくれる。加工が終わったそれは、専用の焼却炉によって完全燃焼され、煙では無く陽炎のみを煙突から発して、灰へと変わっていく。役割上、臓器コーディネートや、遺族との同意などの法的問題に従事したり、臓器の輸出を行うのは、工場外の人々なので、ここは本当に献体に手をいれるだけの場所になる。


 働き始めて一年経つだろうロジオンを、デニスは近くで見続けてきた。けれども、鍛えていた観察眼は、ロジオンの素性を何一つ取り出せはしなかった。この男が、医療従事者でも無かった様子の者が、どうしてこんな、言い方を変えれば"死体処理工場"にいるのだろう。

 それでもデニスは、ロジオンの使い込まれた声帯や、穏やかで陰影のある口調とかが嫌いでは無かったから、何とかお互い笑いあえる位にはなっていた。

 ここの一番の古株タチアナに聞いても、素性はわからないとしか聞けなかった。でもロシア人にしては仕事に一切手を抜かないし、この手の工場の、噂以上に立派な薄給に文句のひとつも漏らさないのだから、彼女がロジオンを語る時は決まって笑顔だったりした。



 *



 十月の中旬。遠い向こうの山の頂に、雪で覆われた針葉樹が増えてきた。そろそろこの辺りでも、景色を白く落としていく雪が降るだろう。それは東洋的なロシアと西洋的なロシアを母性的に一元化するような、ひとつの国のアイデンティティのように感じられる。吐息が白く視界に薄まり消えると、例え道路の冷たく沈んだ空気を切り進んできたとしても、自分は温度を持っている個体だと認識出来る。

 朝の九時きっかり、いつもデニスは黒いバイクでやってきて、小さな表札一個だけの門の手前で停まり、真っ直ぐ入り口の左手にある駐車場の隅にしまおうとすると、工場の奥から献体を乗せる台車を運ぶ音が聞こえる。少し重い金属が、衝撃で幾重に高い音を鳴らす。工場裏の倉庫入り口のシャッター横のドアから覗ける。トラック一台が簡単に入る空間でぽつりと小さく、ロジオンがすっかり準備完了の風貌で、台車を整理したり、器材をステンレス再活性剤に漬けたりしている。効率よい手順を自分で染み込ませたロジオンに、デニスは何度か挨拶をしたことがあるけれども、作業中だけは、一度も返事が返ってきた事は無い。

 もう一度、駐車場側からまわって、そこの灰色のアスファルトの地面のひびが一本、段々と大きくなっているのを跨いで、入り口右側の従業員用の小さな玄関から入る。ドアのロックは壊れかけていて、時折開け閉めした後、出っ張っているのか引っこんでいるのか、わからなくなる時があるので、一度閉めたら、ドアを何度か回して直してやる。

 更衣室の裸電球が小さく揺れている。窓ひとつ無いから薄暗いし、暖房がまだ動き始めたばかりのせいか外の温度より少しマシな程度で肌寒い。入り口手前にすぐある洗面所で念入りに手を洗い、何列にも置かれた味気ない灰色のロッカーが左右の壁に十個ずつ置かれていて、奥から二番目を開け、置きっぱなしにしてある上下の服に着替える。上から水色の手術服を着て、背中に付いているフード帽は飛ばし、緑色の厚ぼったい前掛けを取り出して、肩についている紐の輪をかけ、腰から出ている二本の紐を背中で片輪結びにする。ゴーグルは昔はつけていたけれども今は全くつけていない。使い捨てのゴム手袋を付けた辺りからほかの人が来た。従業員の中の数人は医学生のアルバイトだったりするから、冬期休暇中のラテン語の課題がひどそうだ、とか、実習で何度も大学に行くのと恋愛の為に家に篭るのとの二択なんです、とか、言われたりする。デニスはすかさず、組織学と解剖学は、ここで嫌って位学べるんだ、ラテン語、恋愛くらいは自分でどうにかしようよ、と返す。

 一人の、無口で無愛想なベラルーシ人の女性が、人の感情なんざ当日に何とでもなるよと周囲に漏らした後、

「デニス。今は何をしている?」

 と尋ねてきた。医大生のアルバイトの一人、イサークだ。彼女は三か月前からここで働いていて、他の人を差し置いてデニスによく無愛想に話しかけてきた。

「今は、ていうと……何だろう?」

「絵だよ。どんなのを描いているんだい」

「医大生の前で話したってしょうがない」

「ポニャール(理解した)、また後で教えて」

 解剖室のドアに手を掛ける。イサークは数少ないデニスの行動の理解者だけれども、イサークの事を全てまで快くは思っていなかった。幸いにして彼女はデニスに好意的だが、他の医大生までもが同じくそういう訳では無かった。

(……こんな質問をされるといつも、現役の輝かしい学生たちが、僕に尊敬と冷笑のマーブルを与えてくる。一つ過程を修了した者が医者に就かずに別の場所に落ち着いているのは、事例はあっても、圧倒的少数派なんだろう。彼らは、僕はここで”腐っている”こぼれ者だとか、想像して安心しているのか。生の発展に執着しない者が、そんなに可笑しいか)




 *



 目の前にある光景も、そこにいる人達も、本当の事と思いたくなかった。ただただ、両腕にしがみついた男の指が五本、筋が痛い位まで握り締めている事、周囲に同じような人が囲んでいる事。無言で服を破っていくもう一人の男が、じっと顔を覗いてくるから、焦点をあてる先が無かった。何をしたいのかはすぐにわかった。父から同じ事をされたのだから。

 気持ちのつながりが無い、望まない繋がりは何がいいんだろう。これは誰が悪いんだろう、この内戦の続いた土地だから、誰も悪くないんだと思う。ロシア人の、泣きながら爆風に飛ばされるのも見たし、チェチェン人がそのナイフを下ろすのをためらうのも見た。ただ、境目にいる事は危険なのだろう。

 崩れたコンクリートの建物、あらかじめ用意されただろう照明、オレンジ色の強い光が眩しい。カメラを回す者がいる、一人が私の鞄を逆さにして中身をひとつひとつ眺めている。目の前の人が誰か調べているのだろうか。学生証が見つかった。財布の中から引きずり出されたその写真の笑顔がひどく場違いだ。それを抜くと、男は財布を横に投げ捨てた。

 リュドミラ、と男が言った。他の男が確認するように、リュドミラ、リュドミラ、と小声で言った。すると両腕を押さえた男が、リュドミラ、と語尾を延ばしてねちっこく名前を呼び、下腹部に硬いものを当ててきた。

 何をしているか、知っている。同じ事を父からされたのだから。例える言葉も無く怖い怖いと繰り返していた。顔がひきつり足が痙攣しっぱなしで、息まで痙攣に合わせてうまく吸えない。ただただ疑問に思えた事、どうして理不尽な物事は連鎖しているみたいに理不尽な物事を再来させるのか、男達は何故性欲を倒錯させて女性に向けてしまうのか。いつ、この時間は終わるのか。

 遠くに、強く底面を払う風と、水底から混ざる海の音が聞こえた。耳を澄ますと、肉体の温度なんか一度撫でただけで奪い切ってしまう位冷たいだろう、そんな質感が眼の奥の奥に浮かび上がった。リュドミラと名前を呼ぶ声も、男達のうめき声も、粘液質のねちっこい音も、消えた。海の音は綺麗で、どうか、その中に混ぜて欲しかった。海に、沈んでしまいたい。深海の中は、こんな人工的な光も届かず、音も無く、閉じ込められながらも海の流れの一部になる。息苦しさも水圧も、今の何倍も心地が良いだろう。

 海鳴りに合わせて、肺一杯の空気で声帯を鳴らした。一瞬だけ共鳴したような錯覚に陥ったけれども、誰かが何かで頬顎と胸腹を殴ったせいで、もう声なんか出せない位にわたしはわたしから離れてしまった。





 昔、学校の行事か何かでレーニン廟に行った事があった。そこには彼の遺体がエンバーミング(遺体防腐処理)され、未だ薬品に漬けられ保存されていた。反対意見がある中でも残されている為、遺体を保存する事が歴史的価値があると判断されたのだろう。スターリンの遺体は61年に撤去された。彼には歴史的価値がなかったと判断されたのだろう。それでも、内臓までそっくり抜かれているらしいのに、立派なスーツを着て横になっている権力者の遺体を見ると、単純に亡くなられた方とも感じられたし、大いなる父が抱える矛盾への無言が、確かに尊厳と畏怖を内包しているようにも思えた。

 遺体が仕事中デニスの目の前に現れ、一見眠っているように見えても、最初の頃こそ人間だったが、今では作業対象になってしまっている。検死の知識や、素直な性格でもあればもっとスペクタクルな仕事になる筈だが、流れ作業の中で、細かすぎる網に引っかかる情報は邪魔だろうから、学ぶのも変えるのもやめておいた。今、改めてレーニン廟を訪れたら、きっと保存技術についてあれこれ考えたくなるだろう。死体の見方は、すっかり変わってしまった。

 それに、頚部から胸郭、腹部にかけて切開し、気道食道などの上の管と尿道肛門などの下の管を切り離せば、プラスチックのケースから機械の基盤を取り外すみたいに、水分を沈ませた内臓器官の塊が引きずり出せる。内臓ごとに色彩は違うけれども、機械的で機能的な構造のそれが出てしまえば、何が何だか考えても答えが出なさそうなものになる。肉屋で見る色彩にも似ている。今でもそうだが、人間に口膣以外の空洞がぽっかり空いているのは、初めてトポロジーを学んだ時くらいの違和感ばかり覚える。

「それにしても、毎日器材が綺麗なのには驚くよ。ロジオン。本当にロシア人なの?」

「生粋のな。ただ一般的では無いから、こんな場所でこんな仕事やってるんだろう」

 真っ白な作業衣を、上から下まで肌が見えないくらい着こんでいる。デニスが解体していく傍ら、ロジオンは木製の小さな机の上で、書類に献体から何を摘出したかを書き込んでいく。いつもは手元にはモンブランの万年筆でもあるべき雰囲気のロジオンが、漂白された外見に中国製のキャップの所在不明な黒ボールペンを持っているのは、なにか可笑しい。鼻腔から吸う空気は凍りつかない程度の寒さで、妙に湿っぽく換気されている。

「動くぞデニス。夜にはイサーク誘って飲む約束だろう。今日は二つ遺体が来ている。五時前には終わる」

「飲むったって、ロジオンはウォッカの一滴も含まないじゃないか。もう一度言うよ、本当にロシア人なの?」

「さぁ。口を慎め。始めるぞ」

 切開をする。ステンレス再活性剤につけられた後の器材は鋭い光沢を放ち、メスの鏡面には本当に汚らしい工場内が映される。……作業台が四つ、壁際に並べられている。頭部の方向には、腰の高さに蛇口、妙に深いシンク。右側L字型に、摘出したものを乗せる台。その上には棚があって、摘出したものを一時的に入れる瓶などが置いてある。床の青いタイルのひびに滲んで取れなくなった体液、油。奥のドアは事務所と倉庫、そしてもう一つの作業場に繋がっている。作業場の大学生のペアが、既に一体の遺体を解体し始めていて、生理食塩水に漬けられた眼球のペアと、まだ血液と肉のついた踵骨を傍らに置いている。眼球の角膜は使用出来る出来ないは後で判断され、使用可能なら角膜移植に用いられる。踵骨は差し歯などに削って使ったり、それ以外の骨は同種骨として骨移植されたりする。踵骨は何かと便利だったりする。

 作業のその後を映したメスが、これからを待つ遺体の中に入る。血は出ない。流れていないからだ。目の前のは男性で、壮年だった。何故亡くなったかはわからないが、鳩尾に馴染んだ手術後があるのが印象的だ。眼は閉じている。しかし開かなければ、眼球は取れない。頚部から胸郭から腹部にかけて切開をすると、手術後の部分だけ、柔らかく、違和感がした。一定の力を入れてスライドさせるのだが、その部分だけ、指が何かを拾い出した。硬いのか柔らかいのかわからない。もしかしたら、思い込みなのかも知れない。

 下腹部までメスを通し終えた。頚部を覗き込んで、管を一通り切り、下腹部の管も一通り切り終える。

「もし、ここの設備の中に、灌流装置とかの高級な機材がもっとあれば。この部位の全てまで捨てずに済むかも知れないのにね」

 ぐいっと引張る。引き出された内臓をトレイの上に乗せる。この塊も、おどろおどろしく見えないのは、慣れというよりも、腐敗していなかったり、ある程度の事前処理が済んでいるからだろう。グロテスクとよく呼ばれる類の映画とか写真とかより、これは現実的で非暴力的だ。

「アメリカのLifeNetHealthを想像してるな。ここは歴史が浅いし、薄給だし、何より彼の国には結構根強い対抗心がある。あそこは非営利だし」

「対抗心があったって、素直に負けを認めて相手側の技術を貰ってしまえば、商品は増えるんだから、機材費だって増えるし、薄給でも無くなるかも知れない。献体を最大限利用できていない申し訳なさも薄れる。僕は金銭的に困るのは大丈夫だけれども、真面目に続けるのを曲げるのも、画材をケチるのも嫌なんだ」

「デニスは唯物的かつ合理的なんだな……。おれは、遺体を商品として出す事に、未だに少し躊躇いを感じるさ」

 珍しい言葉だった。ロジオンが自分の考えを話す事は殆ど無かったから、その会話は沢山の想像をデニスにもたらした。ロジオンは、他にどんな事を考えているんだろう。もしかしたら、自分は目の前の老年の男性に動揺しているのかも知れない。死体に関わる仕事を老人にやらせるのは、自らの死を意識させてしまう為、避けるべきものだから。

「ただ」

「ただ?」

「死後見届けてくれるような家族や恋人がいない奴とか、こちらに自分自身の肉体を委ねてくれた奴が、ここに迎え入れられる。死を無駄にはしない。それは良い事だろうな」

 遺体の表情を見る。何も変わらない。この人はどんな表情に見える、とデニスが聞くと、ロジオンはしかし、表情は無いな、と呟いた。後は無言で骨組織、眼球、腎臓を取り出し、状態の良い背部の皮膚を切り取った。内臓はクーラーボックスに入れ、他のものは生食に漬けた状態でアルバイトに回せば、彼らが手作業でパッケージして、医療用資材を完成させる。そうしたら、内臓を所定の場所に集め、顎の下から下腹部を縫合し、作業は終了となる。

 老人のロジオンは、何故こんな工場で働く事を志願したのだろう。作業中は、そんな事を気にしていた。人間は確かに理知的だけれど、目の前の死でも自分の死でも、雄弁にはなれても克服できた例はあまり無いのだし。





 勤務時間を終えたデニスとイサーク、ロジオンは、工場から車で三十分程のバーに向かった。デニスは自分のバイクで、ロジオンはイサークの車の助手席に乗った。夜の、人通りの無い道は兎に角暗く、二つの人工的なライト以外の明かりは一つも無い。ありふれたフロントライトと、赤過ぎるブレーキランプの色を頼りに運転をしていると、デニスは時折、ここが何処だか検討がつかなくなったりする。しかし、緩く長めの右カーブの後、急カーブが左に二回と右に一回あったので、もうすぐ着くだろう事だけはわかった。

 イサーク・ウスチノヴァは裕福な家庭に一人っ子として育ち、その為金銭的にも時間的にも潤沢だった。ロシア人が大凡持つ教育への熱心さと、父親の開業医である影響を受けて、彼女をは学校に入った。なのに、こんな小遣い稼ぎにもならないアルバイトをしている理由を聞けば、彼女の思う目標への為だと答える真面目さを持っていた。

 彼女の父は絵画に趣向があり、”漠々とした風景”のイサーク・レヴィタンから名前を取ろうと思っていた。わざわざレプリカを一枚用意する程の決心だった。しかし母親が身籠ったのは女性だった。ウスチノフはウスチノヴァに変わってしまった。名前は構わず男性名をつけてしまったそうだ。だからか、イサーク自身も絵画に興味があり、自然とデニスの創作活動の話を聞きたがる。デニスはしかし、イサークに作品を一度も見せた事が無いし、見せる機会もあまり無い。

 バーに着き、ロジオンが助手席を降り、建物の中に入るのを見届けてから、イサークがデニスを手招きし、小声で話してきた。

「ロジオンと二言三言話したよ。ティスニカルの話。画風は違うけれども、解剖の動機が絵画っていう事。とてもいい事だ」

 イサークはお喋りで、内面的な部分に踏み入ってくる会話が多い嫌いがある。もう三か月位の付き合いになるから、デニスもイサークの口の硬さを信用して、軽くは受け答えをする様にしている。

「結構いる……解剖やってた画家は」

「確かに。でも、ティスニカルは遺体に想像を巡らしたり祈りを捧げる創作な気がする。他の、ダヴィンチハンニバルとかは、人体の仕組みや人体比を研究した結果を表した感じで」

「何が、言いたいんだい」

 少し怒りを露に問いただすと、彼女は疑問と笑顔と不安を顔に見せながら言った。

「デニスは、どっちなんだろう。人体なのか、人生なのか。私はデニスの作品を見てみたいよ。どんなのを描いているんだろう」

「語ってわかるものではないよ。僕自身もわからない部分は多いし。」

(僕は何を描いているんだろう。今、キャンバスの上にある物体は酷く抽象的で、僕自身も正体を知らない。そんな状態で筆を持っていたって、はかどる筈が無い)

 デニスが口を噤んだのに、イサークは気がついた。短い時間の後、すまない、と謝った。デニスがまだ動かないのを察すると、

「その考え事が済んだら、バーに入ってきなよ」

 とだけ言い残し、彼女は暖房がついたままの車をデニスに渡し、バーを指さしてから歩いて行った。

(デニスはきっと、自分自身を整理する為に絵を描くタイプなんだろう。純粋な欲求や感情を乗せるのでも無いし、自己顕示が主体で技巧的に描くのでも無い。ただ、死体に対する意識が高いのは、絵画への動機づけ以外の何かがある。それは、ロジオンも一緒だし、私も一緒なのだが)

 車内の窓ガラスは曇っているけれども、視覚以外で、水平線の向こうまで広がる海を遠くに感じられる。微かに音や匂いが伝わってくる。デニスは助手席に座り、まどろみの中で溜息をつき、マイクやカメラみたいに海の感覚を受け取っていた。

 ふと、自分自身の存在が空虚ながらリアルに存在していると気付いた。真っ暗な映画館の中で、自分は座席に拘束され、スクリーンに映る今の映像や音声を見ているようで、孤独に駆られ、心の奥から生に対する執着が生まれだした。広大な海から受け取れる深淵や、今の大地に足をつけている事の不自然さ、束縛感。理想が様々な表情を見せて自分の存在を確立してくれたのなら、この二つの違和感は融解するのに、夜が落ちている今は不安ばかり募らせ、何の解決口も与えてくれない。

(生きる事に執着するから、生きる場所を与えられるんだ。死体だって同じだ。自己完結的に生きる場所を求めた結果が、献体とか墓場とかだ。普段の生活に溢れている刺激からは、決して生きている実感が持てない。無気力で非力な僕は生から離れて、死体に変化しているみたいだ)





「ロジオン。デニスは後で来る」

 ロジオンは一杯の水を半分程飲んでいた。イサークはウォッカを注文した。どうしてかは知らないが、ロジオンはバーの殆どの飲み物を口にしない。一度イサークがクワスを勧めてみた事があった。ライ麦や大麦に黒パンを入れて発酵させたコーラに似た色と風味を持つ飲料。しかし家畜の尿だとしか思えないと言った挙句、ハルンなんて愛称で呼び始めた。働いた後にここまで生臭く発酵臭のきついものは嫌だというのだから、一生飲まないだろう事だけは理解出来た。

「後で……?」

「考え込んでいるみたいだった。悪い事をした。一人にしておいた方がいいと思う」

「そうか……。そうだな。あんな絵を描いていたら、悩むのも仕方ない。何かきっかけが必要だろうな、デニスには」

「何を描いているのか気になるが、それは本人に聞けばいいな。……きっかけについて話して欲しい。殆ど話してくれないじゃないか」

 そうだな、と呟き、水を一口含んで飲み込む。老いた喉が胃に水分を押し込むのを、イサークはなんとなっく見ていた。

「そうだな。簡単な例え話だ。旧約聖書の冒頭。神は七日で世界を作りたもうた。天と地、昼と夜、空と海。無限の可能性と、無限の想像力がある神が、しかし二元的に節理を作っていったのに。お前さんがウォッカを飲み込むくらいの気持ちでやった訳は無いよな」

「神は世界を創造した時、きっと思っただろう。是で良かったのだろうか。天と地のせいで、他の物が消えてしまった……と」

「神は今も考えあぐねているだろう。この創造の中に人間を置いて良かったのだろうか。何か忘れてはいないだろうか。私は何を望んでいて、何を反映させたいのだろうか、と。まだ必要なものが揃わぬ内に、やってしまったかも知れぬ、と」

「随分懐疑的な神だ」

「論じ得ない事については沈黙しよう。例えば、男勝りであまりに短髪だから性別を間違えられる女性の事とか、な」

「……。デニスは、医者では無い職業についてモラトリアムとしている自分をよくは思っていない。そして絵も進まない。転換期から脱するには、何か彼自身を強く押し出すきっかけが必要だ。そういう意味?」

「まぁそんな所じゃないか」

「あれは、医学があまり好きじゃない気がするんだ。ロジオン。医学は彼にとって、絵画の基礎を高める目的で学んだ、仲介役に過ぎないのかも知れない。医学が絵に関連付けされているから、きっと卒業出来たんだろうね。解剖学が一番、絵画とは相性がいい」

「イサークはよく喋るんだな。聞いている方は聞いている方で考えを巡らす時間が出来るから、まぁ嫌じゃないんだが」

 疎まれているでもなく貶されているでもない冷やかしに、薄い笑顔を浮かべて、ウォッカを一気に飲み干し、レモンを齧った。窓の外の車のエンジンは未だに動いている様子だ。バーのラジオからは、場違いにラフマニノフの合唱曲が流れている。

「徹夜祷(Все́нощное бде́ние)の五番だな」

「知っているんだ、ロジオン」

「ラフマニノフが、五番を自分の葬式で流して欲しいと言った奴だ」

「葬式か。葬式……」

「何だ…話してみろ」

「半年前に、母が亡くなった。父はモスクワで開業医をしていて、多忙だから帰ってくるのは一か月に一回だ。私もモスクワに帰るのは年二回。母が亡くなったのに気づいたのは、死後三週間後だった」

「……」

「父に対する不満が埋まったままで。沈黙を破りたい時もある。太ましい母に出会った父が、後で私に伝えてくれたのは、死蝋が凄い量だった、それだけだよ。葬式に出すにも、状態が悪すぎて見るに忍びない。自己分解は既に終わらせて、腐敗も終盤、頭蓋骨は完全に見えていた」

 ロジオンのコップを見ると、水が気付かない内に並々注がれていた。イサークは我慢しているものを嘔吐するように、悩み事を出し切った。

「私は何故医者なんだ。このまま母を忘れて、医者のままでいれば将来安泰だ。それを私が許さない。父は母の存在を忘れようとしている。なのに父を否定する気持ちは起こらない。罪の意識とは何だ。罪なのか罪ではないのか。二元論で語るまでには、神がご決断なされた程の時間が必要だろう」

 六番に続いて七番まで流れているな、とロジオンが言った。こういう会話には合うもんだ、とイサークが皮肉を込めて言った。

「おれは。デニスとイサーク。二人に贈るものがあると、考えている」

「私にも? 一般的慣習に合わせて薔薇なんか贈らないで欲しい。それでも……デニスはともかく。私とロジオンは逢って三ヶ月しか経ってないだろう」

 水をもう一杯頼んだ。続いてイサークがウォッカを注文した。

「こんな世捨て人が、恐らくこれだろうって察したものがあるんだよ。お前さんが酒を入れると物忘れが激しくなる性格で助かった。」

「……ロジオンって何をしていた人なんだ」

「この前までは、家を持たぬ、が職業だったな」

「そうか。悪かった」





 隙間だらけの防寒着。今どんな服装をしているんだろう。両足も腰も、口も息も痙攣しているみたいに震えている。酷く痛む。この体と心を捨て去ったら、どれだけ楽になるだろうか。真っ暗な海岸沿いを歩いていると、遠くに見える灯りは、人の家の中の灯りが随分暖かそうに見えるのに似ていた。もう、望むままに海の向こうへ進もうか。水の全てが音を伝える深海へ落ちようか。

 やがては落ち着いて、目を閉じ、眠りにつきたい。しかし、眠りたいのに眠れない。何かが私を休ませてくれない。それは小さな矛盾として始まり、何かがおかしいと悩む内、深海の水温は熱いのか冷たいのかもわからなくなり、それ以上に、深海にいるのに呼吸が出来るのは何故かと、理解出来ず、急いで肺を膨らませれば、塩水が口一杯、頭がぎりりと水圧で痛み、溺れ苦しむ。大丈夫、浅瀬の水だ。体を起こせば、わたしが立ち続け深海に猶予する理由を探さないといけないと感じた。わたしはそんなに何を求めているのか。

 求めるものがあるのだろうか。あるのだとしたら、それはいつ来るのだろう。砂の上を歩いていたって、ここが水の中で呼吸する度に肺の中に水が入ってくるような苦しさが続くのに。次で終わりにしたい。そこが終着点になればいい。だから、明かりに向かって歩いてみよう。崖には木製の階段があって、海の風が崖にあたる度に凄い強さで身体を崩される。わたしは何故海とは逆の方角へ向かうのだろう。誰かがいそうだったからだ。





 車を三回、弱弱しくノックする音が聞こえた。ある程度デニスは落ちつけた頃、ロジオンとイサークがどんな話をしているのか興味が沸いて、バーで注文するものと幾つかの質問を用意していた所だった。

 娼婦なんだろうか。僕も向こうの二人も、娼婦と一夜の快楽だなんて、全然趣味じゃない。人の内臓から筋肉、骨格、神経、血管まで覗いたのを思い出すと、肉欲なんて簡単に吹き飛ぶ。

 そういえば、娼婦の死体が工場にやってきた事があった。中年に見える娼婦の皺やたるみは酷く、醜さは疲労を大いに貯め込んでいるように見えた。こうなってまで働き、守りたかった何かがあったのだろうか。デニスは、娼婦の顔をこれ以上変えないよう、眼球を抜かずに瞼を閉めてやり、丁寧な解剖を行った。あの娼婦が工場で灰として消えた過去は、今でも疲労感の元になっている。

 車のラジオを入れると、ラフマニノフの徹夜祷の八番が流れていた。そういえばラフマニノフは、ロジオンの趣味だったか。レクイエムは、生者と死者のどちらの為にあるのだろう。

窓の外を見ると、その人の影は不気味ではあったが形を変えず立ち続けていた。……きっと寒いだろう。誰かから見捨てられ、忘れられる恐怖は何者にも増して苦しいだろう。工場の娼婦みたいにこの人も疲れているんじゃないだろうか。後部座席のドアを開けてやると、外の強烈な冷気までもが車内の暖かさに惹かれ入り込んできた。

「何も求めない。何も与えない。でも、寒かったり苦しかったりするのなら、どうぞ入って。今は誰とでも快く話せる気分なんだ」

 その人は本当に倒れこむみたいに、後部座席に横になった。長く乱れた白い前髪の中の目と、バックミラー越しに見つめあった。悲痛な目をしていた。ドアは閉ざされていない。娼婦特有のしつこい香水の匂いがしないから、少しだけデニスは安心した。

「この曲。僕の友人が好きな曲なんだ。年老いているんだけれども。その人と、過去を話し合った事なんかも無いから、信頼関係があるかどうかは不明だけれども。ユニークで、リアリストで、理知的で。面白いんだ」

 ドア閉めないの、と聞くと、その人は震え切った指を取ってにひっかけ、体重をかけて閉めた。冷たい風は止んで、窓の曇りは消えて海が見えるようになった。彼女が再度倒れこむ時に、身体から砂が擦れ落ちる音と、乾いた塩風の匂いがした。

「……海に、いたの?」

「……はい」

「どうしてだろう」

 リュドミラは、暖かそうなバーではなく、暖房の入った暗い車の中を選んだ。誰かと飲む場所の駐車場で、一人落ち着いている姿を見ると、大人数で騒ぐような心境では無い人だろうし、もしかしたら孤独感を持て余しているのかも知れなかったからだった。誰を頼りにしていいのかわからない状態がずっと続いて、その選択が間違いばかりだった事もある。

 ここで、頼る事を最後にしよう。それで大地に立つ人が嫌だったのなら、海に沈む人にわたしはなろう。

「海は」

「海……?」

「海の底には。誰もいない。何もやっては来ない。凄く静かで。時間も全く流れていない」

 苦しそうな呼吸の中、

「深海を、安らぎだと思えたの」

 言葉を表すリュドミラの全身は暗すぎて見えない。しかし、呼吸や動作には強烈な痛みと、現実を否定する程の体験が直前にあった事だけは伺えた。そして、彼女自身の精神的な問題を差し引いても、肉体面には医学を納めた者がこのまま帰す事は出来ないだろう緊急性を察した。

「深海……。今は現実に混乱ばかり感じて、自分自身を含めた肯定が出来ない筈」

 そこは、と言い、デニスは口を噤んだ。彼が書こうとして止まったきりの絵には海が構図としてあった。幻想は独立して共有出来ないだろう想像だと諦めていた所に、安らぎのある海を知っている人がいた。

「その肯定の出来ないし、否定もしきれない心境が、海と共鳴している気がする」

「……はい」

「医者に診てもらった方がいい。ここにいるし、そこのバーにもいる。まだ流れるには早いし。全てでは無いけれども、一部の苦しみは海で無くても取り除ける筈だから」





 バーに入り、二人にリュドミラの事を話した。イサークが率先して彼女に近づくと、私物は一つも無いし、時間外に病院に連れて行っても、治療費を払える期待が薄い上に、下腹部二か所から出血が認められた。車に乗り込んだ三人が相談した結果、リュドミラという女性の治療を今すぐ無償で行える場所は、あの工場と自分たちをおいて他に無いと判断した。

 イサークが笑い、そして怒っていた。

「どうして死者の為の施設で、研修すらまだの学生が、保存する引き出しも用意されていないカルテを書かないといけないんだ」

 暴行を受けた事が明白だから、男性よりも女性の方が安心してくれるだろう。イサークもそれを納得しているようで、車内の暖房を最高に上げた後、自分のコートを彼女の体に回し、事前に数か所を触診した後、工場に向かっていいと告げてくれた。

「リュドミラ、だっけ。僕らの職場には処置が出来るだけの設備があるんだ。隣にいる女性のイサークに、診察を任せるから安心して」

 デニスは車を出来るだけ揺らさないよう運転した。


 ロジオンは総務用の鍵で裏口を開け、暫く車の中で待っているよう告げた。イサークが彼女の背中をさすりながら深呼吸をし、デニスが窓の外の針葉樹林を眺めている間。倉庫のシャッターが少しずつ開き、蛍光灯の薄い光が漏れてきた。工場が不眠を訴えるみたいだった。

 ストレッチャーをロジオンが用意してくれていたので、肩を貸してそこに乗せると、軽い方だな、と思った。デニスは、普段遺体が乗せてあるストレッチャーに生きている人が寝ているのを、大きな違和感を感じた。今まで、ここに呼吸がある人が寝た試しが無いのだから。

 作業場へ彼女を運ぶ間、イサークはこれからする事を丁寧に語りかけていた。ロジオンは処置に必要な器材を準備しに向かった。デニスは作業場に患者を連れて行っても良いように適当な片付けをしに向かった。

(洗浄が済んでいて、解剖の終わった遺体が全て片付けられているので、幸いだ。でも、施設についての説明は必要だろうとは思うな。台の上はマットも何も無い、ただの金属だから、布くらいは必要だろうし。乗せたらすぐに、患者は違和感を感じるに違いない。どうして無影灯が無いんですか、どうして手術台がこんなに冷たいんですかって)

 部屋の中は動かないもの全てが凍りついたようで、閉められた廊下側からストレッチャーの運ばれる軽い金属音が聞こえる他は、死者の呼気が充満しているように感じられた。それはデニスが普段ここで行っている作業を思い起こしながら、いつも迎え入れる者とは違う者をここに入れる事に、工場では使わない部分の気遣いを要求され、緊張しているからでもあった。

 数枚のタオルを作業台の上に厚く敷き、ロジオンが部屋に器材を持ってきた後、廊下に出ると、イサークは既に服を着替えてドア横のベンチに座っていた。

「イサーク。ここの事は話した?」

「いいや。取りあえず書類書くから、フルネームを」

「リュドミラ・ベールイ。そう言っていたよ」

「リュドミラ・ベールイ……それで、ここの事は話すの?」

 沈黙した。今、患者に話すような話だろうか。

 リュドミラ、と一度ロジオンが呼ぶと、返事が無い。呼吸は深く、目は半分程開かれている。表情に力が無い。ロジオンが、

「意識が混濁しているんじゃないか?」

 というと急がねばならない気がした。

「今はとにかく処置を済ませてしまい、後で説明するのでもいいんじゃないか。落ち着いたのかも知れないし、極度の緊張が続いたからかも知れない。おれは外で待っているから、二人でやってきてくれ。老人も、少し休みたがっている」





(ベッドの脇に置かれた、青いステンドグラスのスタンド。白熱灯に照らされて、部屋中がその色に染まる。意識ははっきりしていて、しかしまるで今からやってくるものの怖さを感じない。シャワーを浴びている誰かの物音が聞こえる。沢山の水滴が落ちていく音は、ひとつひとつの玉であるはずなのに、全くプレーンに繋がっているみたいだった。

 天井を凝視して、無心にしみを数える事にした。古い家だったし、雨漏りが部屋の隅にあって滲んでいたから、そこをよく見ていて、段々と広がっていくのをよく観察していた。そうしていれば、自然と物事は終わっている。横になって水の音を聞いているのは好き。ここにいるのかいないのかわからなくなるから。

 どうしてこうなってしまったのだっけ。父が除隊通告されたからか。祖父が家から姿を消したからだっけ。その前の、祖母が隣国で死を決意したからか。母が外部の物質的な依存症になったからなのかな。わたしは、色んな状態や問題の丁度境目にいるから、両方がわたしを引っ張るのかも知れない。一つの集まりに二つの考え方がいつもあって、それは奥底に隠されて表立った一つの理想を掲げていた。

 父がやってきた。父はまず、除隊される前の内戦の話をする。どんな時にどんな場所で何人殺したのか。優越感を抱きながら……相手はどんなに残酷な人間か。生きながらにして鈍い金属板のような短剣で皮を剥がされるらしい。過程が違うだけで、渦巻く憎悪も、結果誰かが傷つく事も一緒なのに。わたしを、理想の妻として努めた母の代わりにしている、かわいそうな人。ロシア人として生まれてしまった事が、チェチェン人であった祖母へ対する祖父の不信にも繋がってしまった、不運な人。

 それでも祖父は優秀なエリートだったらしい。その祖父が父の誇りであり教本だった話もされた。祖父の話は面白く好きになれた。父の話は祖父の良い点や性格、考え方、悪癖などを忠実に拾い上げていたように思う。父は祖父の後を追っていたらしいが、その通りにはなれなかったのだろう。しかし祖父にはいつかあってみたい、そう思えるような人だった事はわかった。

 そうしてわたしがうとうと眠りにつき目を閉じた頃に、行為を始めた。同時にわたしはわたしを抜け出して、夢のまどろみと共に外を自由に動けるようになるから、祖父の事や、海の音がどこに続いて行くのか、深い底はどうなっているのか、想像出来た。

 わたしが二人いる。そう見えた。何かから受動的に蝕まれる者と、それを傍観し全く別の真実にかけだす者がいた。今もそう。両開きのドアの前でストレッチャーに乗せられているわたしと、もっと手前で四人を傍観しているわたし。車の中で、少し年上の青年と話して、眼付きの鋭い女性が診てくれて、もう一人、深い皺の老人がいた。

 今行われているのは、あの行為とは違うみたいだった。あの青年は逃避とつながっている深海を知っていた。今、体を触る指は真剣そうな女性の冷たい指。何より、あの老人は、父が将来と見据え、話の中で思い描いた、祖父のそれに似ている気がした。

 少しだけ、施設を回ってから、戻ろう。軽い探検のつもりでドアの向こう側へ向かい、一通りわたしが診察される場所を見てから、もうひとつ小汚いドアがあったから、通ってみた。山積みにされた死体の山があった。どれも胸から腹まで割かれ縫われた後があって、幾つかは眼が無かった。足や手から何かを抜き取られた様子だった。わたしはこうはならない気がする。けれども、生きている間に辿り着くだろう終着点にやってきたんだ。そう強く感じた)





 局部二箇所に裂傷がある以外は自然に治るものだろうと判断された後、幾つかの薬剤を服用し、体についた汚れを拭いとってやると、リュドミラはかなり落ち着きを取り戻した。デニスがロジオンにこの事を伝えると、彼は無言で車に乗り倉庫の奥に入れ始めた。宿泊出来るような場所はここには無いから、車を使おうという意味だろう。そうして、イサークとリュドミラが車内に泊まり、デニスとロジオンは工場内の事務室で休む事になった。

 月明かりくらいしか無い事務室で寝袋を二つ広げ、地べたに横になった。ご老体にこんな睡眠は辛いのではと心配していたが、三十分も経たない内に寝息を立てているのを聞き安心した。ただ、デニスには考え事が幾つか残っている気がしたので、今日あった事について考えてみる事にした。

(書きかけの絵。工場から見える風景を描いているんだ。ここの低い崖の向こうには、空と海が水平線で交わり、とても綺麗に思える。しかし決定的なものをまだ加えていない。長い間ここの仕事について、徒労としか思えなかった自分が、絵画と医学の境目に立たされている。ひとつの区切りになる作品だろうから、容易に答えを出せない。僕の心境が長い猶予を与えていた。けれども、夜の発作から、イサークが言っていたロジオンの贈り物、リュドミラの海の話を考えると、向かう先があらわれてくるような気がする。

 イサークには何を渡すのだろう。それによっては、僕が何を受け取るのかも想像出来るのに。ロジオンの内面は一向に覗ける余地がない。

 断言、決定、定義。そんなものが切り落としてきたものは余りにも多すぎるんだ。マクロに定義したものがうまく起動しなかった事がこの国にはある一方で……しかし、決定を避ける文化もこの国にはある。未だに迷っている。動かざる者は、未だ生きる者として見ていいのか、単なる物体として見ていいのか)

 外が微かに明るくなり始めている、もう七時頃だろうか。ロジオンはよく眠っている。朝陽でも眺めてみようかと思い、上着を着て事務室から出て、駐車場へ回ると、倉庫のシャッターは開いていて、イサークが朝霧の中で煙草を吸っていた。一仕事終えた達成感からでは無く、何か自分自身の中で片づかないものをもどかしく感じてる風だった。

「デニス。眠れなかったのか?」

「そうだね。今日あった事とか、今までの事とか」

 吸うかと尋ねられたが、やめておくと返した。昔、絵の具を薄める為にシンナーを使っていた時、煙草を落として危うく引火する所だった。沢山のものを失うかも知れなかったと言うと、

「失う事も、ひとつの利得だと思うな」

 と、灰皿に押し付けて火を消し、長い呼吸を何度かしていた。

「イサークは……」

「私が?」

「ロジオンが与えると言っていたもの。心当たりがあるの?」

「……おぼろげながら。でも、一度話した事があったかも知れない。非倫理的だが、発展の為には必要な施設だ。個人が持てるような施設では、当然無い……。父と母を同時に肯定しながら、他人をしっかり受け止めていく方法が、それしか思いつかないせいもある」

「何だろう。今、詳しく話せる事なのかな」

「その時になったら教える。私は、でも。ロジオンという人間がわからなくなっていく。ロジオンが出来得る行為に理由や基盤が見えないんだ。デニスは、それを話せるか?」

「僕もわからないんだ……。ロジオンの事は誰も知らないよ。あんな人物が、どうしてホームレスなんか、世捨て人なんかやっているのか。話、長くなってもいいかな?」

 無言で、二本目の煙草に火をつけた。イサークの横顔は鋭いながら、パーツ一個一個が綺麗なせいか、強い意志がそこに宿っているように感じる。デニスは、イサークが高い信用に足る人物である事を改めて確信した。

「一年程前の事だよ。夏で、この辺りは結構過ごしやすい印象だったかな。ロジオンが工場にやってきたんだ。ヴァカーンシア(вакансия、欠員の為の求人)を丁度出そうかとタチアナが考えていて、でも医大に出すような人材が欲しいのでもないから悩んでいたんだ。その前の総務の老人は、奇策な人だったけれども、毎日やってくる死体に自分の死を感じて。それはロジオンも一緒だと思うんだけれども……。それでやめたんだ。奥さんが仕事に反対もしていたらしいし、老後をそうして過ごす必然性も疑っていたから。続けられるような状態でも無かった」

「いずれ訪れる死を、受け止められなかったんだな……」

「かも知れない。それは至極当然の反応だよ。それで、困っていた所に、ロジオンがやってきたんだ。服装はほぼ世捨て人だった。路上で生活していただろう雰囲気だった。それで、面接をしたんだけれども、タチアナが疑う位に仕事も出来たし頭も良かった。面倒を引き起こすだろう家族もいないらしい。前の人が持っていた問題性は殆ど無い。その上、死体を見ても全く動じなかったんだ。だから総務に採用したんだ」

「でも。デニス。この工場についての情報は、殆ど公開されていないだろう。閉鎖的だし、自分から寄り付く者なんか医療・法律関係や、警察くらいしかいない。ロジオンは、でも医療従事者では無さそうだし、弁護士とかその界隈でもなさそうだろう。警察のOBにしたってナンセンスだ」

「僕はずっと、ロジオンが不思議でならなかった。この人は誰なんだろう。知りたかった。医大を出て工場にいてから、こんなに湧き上がる興味は久しかった。文脈を汲み取っていけば、それが何か絵画に用いれるんじゃないかって感じたんだ。言ったんだ。いつか貴方を絵に描きたいって」

「今でもそう思うのか、デニス。ロジオンを絵に描きたいと」

「思うよ。一冊の本を読み進めるように、尊敬しているよ」

 そこでイサークは、ロジオンがデニスについてバーで語っていた、きっかけ、の言葉を思い出した。イサーク自身がこれからしようとしている事と、デニスに与えるだろうものが、対応している事は念頭にあったものだから、彼女は煙草を灰皿の中に投げ入れ乱雑に蓋を閉めた。事務所からドアが静かに開く音がし、静かに閉じた。デニスもイサークも、共通の何かを考えながら、しかし決して振り返らなかった。

「デニス。やりとげて欲しい。私も、ロジオンの事が好きだからだ。だから言う。どうか、やりとげてやってほしい」

 強く眼を見つめる。青く澄んだ眼だったけれども、少しずつ涙がたまっていったから、デニスにはその言葉がイサークの決意と共に渡されている事くらいしかわからなかった。

 彼女は車の中に入り、灰皿をダッシュボードに戻すと、鍵を閉めて泣きじゃくってしまった。初めて見る表情だった。泣く声は阻まれていて聞こえなかった。ただ、海と風の音がシンプルに聞こえた。リュドミラが目を覚まし、イサークに歩み寄る様を見てから、デニスは事務室の中に戻った。案の定誰もいなかった。ロジオンが何かの為に動いている事は伺えた。

 決して、リュドミラが何かをした訳でもない。リュドミラという、流れ着いた女性をきっかけとして、僕らが元々持ち続け、境界に沈め続けていたものが流れ始めたんだ。三人が三人共、リュドミラの壮絶な何かを受け取るだけの感性があったのだから。

 イサークは車内で、理性と感情が少しずつ融解していくように思えた。硫酸の中に鉄片を無慈悲に落としたように、眺め続けないとわからない物事。死体が自己分解を始めて、内にバクテリアを含んでいく。ガスが内臓に貯まれば、余程の重しがついていない限りは浮かび上がってくる。あとはそれを掬い、受け止めるだけだ。

「どうしたんですか?」

 とリュドミラがたずねたので、イサークは、暫くここに留まった方がいいと告げた。継続して治療が必要だというのもそうだけれども、これから起こる事をどうか見ていってほしいからでもあった。日が昇ったので、そろそろ皆が出勤してくるだろう。






 その日一日デニスは非番だった。考え事は絶えないし、恐らく絵画を家から引き揚げて工場に持ってきた方が、進むかも知れない。書き上げたい意欲も湧き上がってきた。それだけ、イサークの言葉が確証ある一点の終了を予見している気がしたからだった。

 イサークにこの話をすると、彼女は快く車のキーを渡してくれた。そして絵画を一度見せてほしい事も一緒に言われたので、ポニャールと言い返してみた。ロッカーでそう話していると、ロジオンが、

「デニスは上手いぞ。上手いって言葉を忘れる位な」

 と褒めてくれた。ロジオンの表情を凝視したって、彼もイサークのような表情をして、何も教えてはくれないのだけれども。反応したのはリュドミラだった。

「もし良ければ。デニスの絵を見せて欲しい……」

 あまり多くの人に見せて自己顕示欲を満たすような事は避けたい気がしたが、リュドミラを工場の稼働時間に置いておくのも気がひけたし、ロジオンの部屋に泊めさせるのがデニスのアパートに泊めさせるのに代わる位。リュドミラに幾つか質問があったので、朝八時半には結論が出ていた。

 海岸沿いの道を進んでいく。バーへ向かう道をもう少し進んでいった感じで、バイクはいつ取りにいけばいいんだろうな、とかデニスは考えていた。リュドミラは海岸を助手席からじっと眺めていた。段々と白樺の森が生い茂ってきて、少し高度があがるものだから、外と中耳の気圧の変動で耳が張り詰める感覚がした。

 リュドミラに帰る場所が無い事はすぐにわかった。血の濃いチェチェンの顔つきと訛りがあったからだ。しかしロシア人の肌の色をしているし、一応確認してみると、ハーフだと答えた。どこから来たのかと聞くと、グロズヌイと小声で力無い返事をしたので十分だった。チェチェンの首都グロズヌイから来た……然るべき機関の一切に連絡しないのは正解だったんだ。

「あそこへ来たのには……彷徨いながらも理由があったんです。家出とか、国を出たとか、そういうニュアンスで通じるものでは……。でも、わたしは今、どうしてここにいるのでしょう……」

「考え事をするより、今は、リュドミラ。その感覚に浸っていた方が、安全だよ」

 彼女が語る言葉の全てに、現実を直視出来そうに無いほどの物事が含まれている。デニスはそのあたりから質問をやめ、この辺りにいる鳥類の生態系と、近くの海の潮流と、白樺の薬効と加工法とかについて話していた。

 森を抜けて暫くすると、多少都市には近くなった分、街と呼べる位の密集地帯に遭遇した。大通りを走ってしばらくすると、アパートがある。そこから狭い道を慎重に通り、行き止まりの一つ手前で車を止めた。パッチワークみたいな建物がデニスのアパートで、26号室が部屋だけれども、車はそこまで入れないと告げた。

 見慣れた裏路地を、存在が不安定に思える女性一人連れて奥に入るのは、帰宅ではなく一時滞在という時間感覚だった。

 発展が国全体で停滞した印象の街の、木とレンガのアパートで、入口にはハロゲン灯の明かりが乏しく薄暗い辺りを照らしていた。右も左も、粗暴に取り付けられた排水溝やら、湿気と冷気とカビと苔をふんだんに含んだ壁。空が広い。白樺の森での空も、この裏路地でも空も、とても国が上から守ってくれているという恩恵が薄いせいで、全く見放されているという心境しか与えない。デニスが好きになれる空は、何故か工場から見えるものに限られていた。ここにリュドミラを連れている事は、工場の空を守っている事にも繋がる。

 かなりの築年数のある階段を軋ませながら、呼吸の感じられる建物を上がり、26号室の部屋のキーをひねって中に入ると、相変わらずの画材のぬめっぽい匂いが休んでいた。リュドミラが鼻をひきつかせて、いいにおい、と呟くと、デニスは少し嬉しくなった。

 カーテンを開けても、閉めているのとあまり変わらない。素直に電灯にスイッチを入れた。一人暮らしにしか向かない広さの部屋には、二人招けるような環境は整っていない。すぐにストーブに電源を入れ、その上で水の入った鍋を置き、日本製のインスタントヌードルを作る。お湯が沸いたらここに入れて適当に食べて、もしシャワーを浴びたかったら次に浴びてと伝え、備え付けのシャワーに向かった。リュドミラの汚れよりも、デニスにこびりついた死臭の方が強い気がしたからだった。

 その体についた死臭に、リュドミラも気付いていた。少し甘くも排泄物の濃厚な臭いと体液の混ざり合い滲み出たそれの臭いが、微かに感じられた。生者を脅かす生理的なそれは、彼女もよく知るものだった。

(沢山の死体をまとめて捨ててしまう場所がわたしたちの中で知られていて、そこに同学年の友達が投げ込まれたのを聞いた。聞いた翌日には見に行っていたっけ。結局、死体が沢山、長方形に深く掘られた穴に投げ込まれている中を漁る気持ちにはなれず、見つからなかったけれども……何かが無駄に淘汰され続けている事だけはわかった。わたしにとっては、友達は遠い所に行ってしまったも一緒だった。その姿を見なかったのだから……。でも、遠くにいるのに何も出来ていない友達を残念に思った。後で聞いた話だけれども、チェチェンだけでそういう死体大量遺棄現場は50近くあるらしい)

 必要だと思った時に存在しないから辛いのかも知れない。とても冷たい言葉だと彼女が思いながら、インスタントヌードルを食べるフォークはどこかと探したら、ライティングデスクの上に二個置いてあったから、その考えは少し閉まっておこうと思った。食事もデニスが出てきた時で構わないだろう。

 遠くでシャワーを浴びる音、孤立したわたし。過去にあった経験のそれを思い出し、リュドミラが分離し始めた時。三脚型のアトリエイーゼルに真っ黒なフェルトの布がかけてあるのを見つけた。それの前に立ち、布を払うと、工場から見た以上の空と海があった。光無い色彩の、小波が空にまで渡った崖。リュドミラも、分離した誰かも、すっとその中へと落ちてしまった。





 デニスは帰宅後すぐにシャワーを浴びる。緑色のタイルの張られたそこの緑青の多少ついた蛇口を捻ると、メッキの剥がれたノズルは働き出す。お湯の出は遅いながらも安定しているし、水質も悪くは無いからこのアパートに決めたのだっけ。外で集中して働いた後の自らの汗や油の臭いもあるし、それ以上に染み込む臭いがあるからだ。鼻の穴、耳の穴、口、髪の毛などの細かい箇所を念入りに二度洗わないと死臭は落ちなかった。消費量は多いし、思いの外石鹸で体中を洗うと皮膚が荒れる。幸いロシアの秋は夜が長い。五時には日がほぼ沈む。眠る時間が長ければ、それも少しは帳消しされる。

 その間に考えていたのはやはり、デニスに向けられたイサークの言葉と、ロジオンがデニスに与えるだろう何かだった。けれども何も繋がらないし出てこない。直観とか論理とか感性とかも、今がその時ではないと解答を出してくれた。段々と諦めがつき、それから、リュドミラが今日泊まるのをどうすればいいか、予定を立てた。この後シャワーに入ってもらった後に間食を取り、夕食を買出しに行く間はここに留まってもらおう。暇にならせてもいけないから、施設について話しておこう。あとは夜に、絵画に手を入れられれば良い。明日は朝早く工場に向かって、倉庫に絵と画材とイーゼルを置かせて貰おう。にしたって、ロジオンは二日連続で工場に泊まり込みだ。明日一日くらい帰ってもらわないと、亡くなったりしたら大変だ。

(そういえば。ロジオンが亡くなるなんて考えてもいなかった。看取る者がいないロジオンを看取るのは、きっと僕とかイサークとか、工場の関係者……タチアナとかなんだろうか。死期を悟ったのなら、誰か家族外の人に贈り物をするのは納得出来る。居場所の無い者に居場所を与える工場と、ロジオンの孤独は、どこか繋がる気がする。もしロジオンが世捨て人で、それは「ならされた」と言うよりも「なった」と答えるなら。未練無く最後の場所を探して辿り着く場所があるんだろう。それが、もしかして工場なんだろうか。ロジオンの死に価値を与えるものが、工場に揃っているのだろうか……)

 蛇口を止めて、体の芯までは温め切れていない体をそこで拭き取り、服を着て外に出る。暮れた窓の外の手前、布の取られた絵画の前にリュドミラが立ちすくんでいる。リュドミラ、と一言呼ぶと、振り返り、

「この中に。沈める場所がある気がしました。とても、いい絵で。」

 弛緩した目を流し、ストーブの赤色を見続けている。絵の中に沈む。その一言で、繋がってしまった。

 理想を仰ぎ、地に縛られるのなら、海はそれらを仲介し、洗い流す役割だ。海は父なる者も母なる者も含む。人が窺い知れない海の中を求めるのも、何か、理想と現実を合わせながら散らせる終着点だと感じるからだろうか。その感情はロジオンも、もしかしたら一緒だったのでは無いだろうか。

 この絵に何を加えるべきだろうか。ロジオンだ。ロジオンを描こうとして、風景のままで止まったんだ。デニスが否定したがっていた何かが浮かび上がると、生者が死者になる立体的な恐怖が、背後から窓の外へ駆け抜ける風のように抜けた。

 一瞬で不理解と非行動が反転結合して一体化し、ロジオンがデニスに与えると言っていた何かの正体がわかった。イサークとの対比になっている事も、ロジオンが出来得る最高の贈り物である事も。工場に辿り着き、起こった様々なもの全てを讃美する選択肢。

 繋がってしまった。もう”繋がってしまった”のだ! 自他、意思が共通のものを求めている。でも、でもそれを実行してもいいのだろうか。まさか、リュドミラが気付かせてくれるだなんて思ってもいなかった。実行する事は、絵画を、医学を、いや生きる事を冒涜するのには繋がらないだろうか。望まれたのなら、するべきだろうと思う。でももし、その行動が美だと肯定されなかったのなら、デニスは今後何者をも信用出来ないような気がした。

 改めて、リュドミラに聞いてみた。

「ロジオンに共通点を、感じないか……リュドミラ」

「……」

「絵だ。絵に求めるものが一緒で、それが偶然の事だとは思えないんだ。それを黙りとおすのでもいい。ただ僕は言いたいだけなんだ。リュドミラが誰だっていい。それでもロジオンとリュドミラを何かで繋げる事に、抵抗感が無いか……聞きたい」

 返事はなかった。言った後で、窓の外に初雪が見え、心がそれを食べてしまった。溶けた雪は元通りの結晶にはならないし、結晶に息をかけては消えてしまう。質問を改めて投げかける機会を、デニスは二度と得られなかった。





「なぁ……ロジオン。死に人が関わり続けるのには、確固たる動機が必要なんだ。それが死と対面するひとつの規範として、社会にも提示される。過程を観察し続ける事に繋がる動機が、私にはっきりと持たされては……」

「その動機が、お前さんにはあるじゃないか、イサーク」

「ただ……その動機がぶれないか、気掛かりになる時だってある。確かに学生からこれを志すのは、遅すぎないし、むしろ早いくらいだ。ただ……」

「おれがこれを引き渡すのがどうしてか、か?」

「真夜中、こんな粉雪が降りしきる中、ここまで作られた場所を見させられて、かつ管理が行き届いているのを見せられれば。いくらでも疑える。ロジオンという人が誰かが全くわからないからこそ、これを受け取るのを忍びたがる」

「おれの為だと思ってやって欲しい」

「ロジオンの為? 世捨て人が何の為にこれをするんだ」

「……デニスに何を渡すか、知っているな?」

「……」

「墓は、嫌だな。非機能的だ。死んだ奴を土に埋めて、上には目印になるものをドンと置く。問題は置くもので、土の下の奴が生者にひょっこり顔を出して、こっちをじっと眺めている風にも見えるんだ。使わない物なら、ただ死者は立ち止ってこちらを見ているだけだ。おれには采配が難しかった。やはり生死を管理するような役職についていた」

「ここのような風景を、ロジオンは見た事が」

「あるな。こんな綺麗な状態のは、なかなか無いが。無い時もあれば、ごろごろ転がっている時もあった」

「工場には、最初からここを目指してやってきたのか……?」

「いいや。暫く彷徨った。暫く彷徨って、吸い込まれるようにここに入った」

「……ロジオン」

「おれも、あの冷蔵庫のストレッチャーの上の奴とか。倉庫に積みあがっている奴とかと、一緒だ。イサーク」





 八時、まだ空が明るく成り切らない時間に二人は部屋を発った。初雪が細かく積もってゆく中、慎重に車を走らせる。後部座席には、12号のFサイズのキャンバスが置いてある。最初からデニスの頭の中には風景画専用の寸法(Paysage)では無く肖像画専用の寸法(Figure)があった。三脚型のアトリエイーゼルも縦に車内に収め、その二つをリュドミラが手で軽く押さえてくれている。

「デニス。昨日は眠っていない? 夜遅くまで描いていたみたいでしたが……大丈夫ですか」

「すぐに描き上げられるよう、下書きとか何とか準備していたんだ。それに、必要なものは向こうにあるんだ。モデルも、動機も」

「工場で完成させるんですね。あの場所に、今更悪いものは感じません。でも。人を解体して資源とするのには、理解していても慣れないんです。探すよりも作る方が楽だと、昔から言われている事とか、思い出してしまって」

「そこには僕も介入していないよ。チェチェン人も、タタール人も、イサークと同じベラルーシ人も、ロジオンみたいな生粋のロシア人も。等しく扱われるし、等しく運ばれていく。公は、これが無益な死を有益にして、生きる者の居場所を新たに作り上げるのだと思いたいんだ。医療の持っている死生観とか厳しくあるべき倫理性とか、医学発展の為にも解剖学が必要で、その解剖学は献体があっての学問だという事とか……。今では死体臓器の移植を超えて、病気腎臓器が研究される方向もある。とても難しい領域だから、殆どの人は自分個人の価値観からしか見定める事が出来ないのだけれども……理解をくれた人はもう、おぞましさも恐れも感じないで、避けられるだろう仕事に手を出してくれているものとして接してくれる。理解の無い人は、生命が脅かされたって一切こちらに来なければいいんだ」

 ただ、デニスの工場で扱う献体は少ないながらもグレーラインのものもあるとだけ、付け加えた。タイヤが雪を擦り、潰す音が聞こえるだけの道。白樺の森に入ると、枝の上に留まる雪は少しずつ増えていて、明日明後日には枝を軋ませているだろうペースだった。下り坂と急カーブが何度も続く道だったが、よくよく遠くの海まで見えて、にび色の空の色とうねりを海が吸い込み、重い荒波として表している。

「……わたしは、何を遺体に見出そうとしているんでしょうか」

「それはリュドミラ自身も、僕も。同じものを持っていたとしても、わからない気がする」

「生者に尊厳のかけらも無い場面がある反面……死者の尊厳を可能な限り重要視しようとする場面もあって。昨日デニスが教えてくれたそれが、わたしの考えを淀ませている」

「どこかで、考えは止まるのかな。僕もそうだ。侵してきた尊厳のお陰で何が守られるだろう尊厳かを、酷く抽象的に模索していく事は、今後も続くだろうから……。唯物的になるなら、生体の持つ機能と循環と、神経を通る静電気と、脳の中の化学反応しか生体には無いと思えばいい。意識や心なんてものは何所にもないと信じてしまえばいい。生まれ持った体の中以上の事も疑わず、生体を部品のように扱うのに慣れてしまえばいい」

「でも……」

「うん。でも……だよ。リュドミラ。だから油臭いキャンバスが、安心させてくれるものがあるんだ。全部が全部は合理的には片付かないし、保守的でも改革的でもメリットとデメリットがある。例え錯覚だとしても、そうあるのだと思える錯覚なのなら、実際にあると思ったって、誰も責めない筈だから」

「デニスは、海は好き?」

「好きだよ。ロシアの広大な大地よりも、様々な表情を見せながら、暗く静かで、自分自身も知りきれないだろう深さの海が」

 俯き、幼い表情を窓の外の海に向けて、希薄な言葉で、ありがとう、と言った。デニスも、ありがとう、と真剣な声で言い返した。緊張が抜けて、しかし現実に足を下ろしながらも白樺の森がじっと意見に耳を傾けているような、幻想性と社会性が残り続けた。それも二人はあまりおかしくは思っていなかった。





 門を抜け、車を左手の駐車場に停める時も、雪はどんどん積もっていて、いつもは跨ぐようなあのアスファルトのひびも隠れてしまっていた。辺りで白くない場所は、海周辺だけになっている。リュドミラもデニスも、車内で話せば話す程に、死者に対面する自分たちは常に試されている気持ちが強くなった。しかし、何が良くて何が悪いのかを判断するにはまだ時間も経験も足りなさすぎるのを実感した。しかしお互いが、故郷や工場での屍々とした光景を基礎にせざるを得ないだろう出発点があった。

 イサークが従業員用のドア前で待機していて、かなり厚手のコートとファーの帽子を着たまま煙草を吸っていた。二人の姿に気づくと灰皿で火を消し、それを自分のロッカーに入れたら、一緒についてきてほしいと言った。彼女の眼は鋭さを失って少し穏やかになり、疲れが体中に回っている印象がした。リュドミラはどうすればいいのか、デニスがイサークにたずねると、リュドミラに直接、ついてきた方がいいかも知れない、と告げ、外に出て行った。

「デニス。これから、ロジオンが私によこしてきたものを見せる。リュドミラもだ。それは、私が求めたものでもあるから……ロジオン一人の判断で出来上がったものでもない」

 そうして工場の裏に回り、道が無い林の中を歩き進んでいく。そこだけ、雪が硬く潰れた上に雪が積もっている感触がして、もう何度か足を運んだだろう形跡があった。海の音は聞こえるだろうか。リュドミラに聞くと、よく聞こえると教えてくれた。十分程歩き続けると、リュドミラは聞こえなくなったと告げた。代わりに、工場よりも強い腐臭が風に乗ってこちらへと流れてきた。

 林が開かれた箇所、高さ2メートル程の、屋根が剥がれた木造の小屋があった。ここに元々あった建物の屋根を取り払ったらしい。イサークが煙草に火をつけ、こちらにミントのキャンディを二つ寄こしてきた。それを口の中に入れ、ドアを開けた。

「ボディ・ファーム。聞いた事はある? アメリカのテネシー大学にはもっと大規模な施設がある。献体の腐敗過程、環境に対応したパターンを、観察し研究する施設。法人類学に分類される。死の学問と呼ばれる中の、死者に対する内面からとは別のアプローチ」

 ビニールがかけられたものが二つ、一つは腐葉土の茶色に同じ色をして、土色に頭蓋骨を変色させていた。表面の皮の皺が細かく、しかし形があるのは胸部の肋骨にある腔所だけで、後は分解されたか溶けだしたかして骨のみになっている。

「一か月は経っている。ロジオンが管理していたのだろう。丁寧なノートまで渡された。とても丁寧な書き方をされている。この献体は四十代男性で、ガンが転移しきっていたから、使用用途を導き出せなかった者だそうだ。頭蓋骨が真っ先に露出するのは、頭部には開口部が多いからだ。逆に、骨や筋肉が密集している胸部は一番最後まで形を残す。後は、腸も同じくらい早く腐敗する。ここは自己分解でバクテリアが発生しやすい為だろう」

「ロジオンが引きあげていたんだね……その男性は」

 リュドミラはただ無言で、イサークの顔をじっと見て、これをどう理解すればいいのか求めている様子だった。両手が固く握りしめられていて、歯ぎしりも聞こえた。

「リュドミラ」

「……?」

「誰かが死んで。何故死んでしまったのか、どうしてそうなってしまったのか、伺えずに終わるのは、どう思う?」

「……あまり、よくありません。そうなったものを、わたし、沢山見てきたし、自分もそうなるかもしれない事も、知っているから」

「誰かに殺されたのに、自然に亡くなった方だと判断されたら、駄目でしょう。死者から情報を導き出す為に、こういった施設は必要だ。毎日観察するんだ。死者を。過程をあます所なく記録していく。そうして得られた情報が、他の場所にいる死者の代弁となるんだ」

 小屋の奥の壁に、ビニールにかかっている部分がある。それを開くと、今度は死者の周辺には白く溶けたスチロールか固まった油のような物体が溢れていた。腐敗は殆ど終わり、骨ばかりが転がっているようにも見える。

「死蝋。体脂肪を多く含んだ死体が、穏やかな腐敗をすると出来るもの」

 指で掬うと、気泡を潰しながらマーガリンを引っかく音がした。

「母から、沢山これが出たそうだ。金属を多く含んでいるから、石鹸には出来ない。密室で、ある程度の湿気があり、穏やかに腐敗が進行すると、出来上がるものだ」

 立ち上がり、煙草の火を土に押しつけて消し、吸い殻をポケットに仕舞い込んだ。ビニールを改めてかけ直し、雪が降ってきたから、雪のかかる遺体の観察が出来るかな、と空を見ながら言った。イサークの眼が変わったのは、この腐敗過程を観察し続けるのを納得していたからのように思えた。

「ずっと、観察するのですか?」

「私には、父と母を両方肯定する手段が、これくらいしか思いつかないから。……ね、リュドミラ。死者の死を見続ける事は、それを殺めた生者を意識し続ける事でもあるから……。父も許すし、母も忘れない選択肢。かつ、これから人のエゴが高まっていけばいく程、必要になる分野だろうから。これは社会の立場から、死者を見つめていくもの」

 出世街道にはいないだろうけれども、在学中にここまで経験させて貰えたのは、本当に素晴らしい事だと言い、リュドミラの顔を見た。手はだらりと垂れていたし、口元も下がっていた。飴はすっかり消えて、ミントと冷気が鼻を清涼にしている感覚も亡くなっていた。ただデニスは、小屋の中に満ちている腐臭はそこまで強烈でも無く、そして嫌悪感を催すようにもなっていないように感じた。





 工場に集まってくる人々は、遺体も職員もどこか一心に死と向き合おうとして、ここに死の処理方法のひとつの形態を知りにやってくる。死者を迎える一つの手段として容認されれば、それは埋葬と考えられるのだろうが、まだ埋葬ではなく資源として加工する、という価値観を払拭しきれていない。

 イサークとリュドミラをボディファームに残したまま、デニスは工場へと歩いて行った。段々と臭いから離れ、海の音が聞こえてきた。雪は止み、辺りが白く空が曇ったままの寒々しい風景になった。

 倉庫に入ると、ステンレスのストレッチャーや機材はすっかり磨き終わっていて、相変わらず車一台入るだけのスペースに、ロジオンがいた。イーゼルの上に置かれた絵画の前で、じっとそれを眺めて立っていた。色彩の暗い空と海が繋がっていて、まだ何かが加わるだろう余白が風景全体に残っている。

「おれは、この風景に入るんだな。デニス」

 と呟いた。デニスはロジオンの贈り物がどういった意味かを、直接本人に確認したかった。

「……ヨブ記の話だ。『私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます』とか、ヨブが言うんだ。神とサタンの言い争いの犠牲になったヨブが、徹底的に神から見放されるんだな。それに対してのヨブの言葉が、どうやら誤訳だったのではないかって、うわさがあった。正しくは、『私は、この死すべき肉体を嫌悪し、遺憾に思います。』とか何とか」

 聖書の話をロジオンは、よく観念的に語ってくる。今はロジオンが何を思って話しているのかを、注視する他は無い。

「うわさだからな……本当の事はわからない。ヨブ記は沢山の物事が抜けている気がするしな。その物語に全てを求めて固執する事もないだろうが。全く、聖書の話でもしておけば、何か今とは違って歴史の長い文脈に引き込める卑怯さがあるから、嫌だな。……ふと考えたんだ。おれは、おれ自身に何を補完したがっているんだってな」

「補完って……」

「工場に来た事とかな。イサークや、デニスに何かを委ねたりする事とかな。ただ、死ぬのは怖いな。死に際こそ、簡単に揺らぐんだよ。自分自身がな、理性的に生きてはいられまいと。デニス程の若い者に何故そんなおかしな事をさせる、とかな」

「言い出したのは僕だよ。方法が徹底的なだけだから。心配はいらない」

「……墓よりは、有益だよな、きっと。何も、生者を縛り付けて監視する死者になりたいのでもない。今までの発展の犠牲になった死者の殆どを、人は忘れて生きてきたのだしな。だから……デニスは、今後の行為が、自分自身の絵画の為でもあり、おれの遺言でもあると思ってはくれないか」

「気付いてはいた。だから、下書きもしてきたし、構図も作ってきた。」

「……血液を抜くから、輸血にでも使えるように加熱製剤でも作ってくれ。幸い外傷には何かと慣れているからな。確実にやるために……少量服用するか」

 自身が失血死に至る経緯を、まるで眠れない者が、ホットミルクでも飲もうかと提案しているかのようなニュアンスだ。死について思索している人は、疑いなく生者でいるような人からは、恐ろしく遠く、汚らわしい絵空事を語っているように感じる。しかし、ロジオンのそれには頑なな決意が込められているからこそ、本人が方法を語るのに恐怖を感じない事に、デニスは恐怖を感じた。

「なぁデニス……死者ってのは、鏡みたいだよな」

「……鏡?」

「死者ってのは、何も考えていない筈だし、考えていたって多くを語れないよう言葉を失っているだろう。それでも、生者は死者に対して、色々考え事を巡らしてしまう。普通は眼を逸らすだけだろうが、自分に関係のある死になると、中々眼を逸らせない。その時には、こちらの考えが相手に一度渡されて、そのままの形でこちらにやってくるんだからな……」

「生者の意思が、死者の意思になっているかのようだね」

「死者は非力だから、生きている内に死者である自分を安息に導けるよう、色々準備したんだろうな。でも、はやくから気付いた筈だ。歪め広げられた鏡には相変わらず自分が映っていて、死者に振り回されるのは良くないとか。慣習、しきたりの枠に死者を治め、死それ自体を日常から切り離す事で、死者の鏡を極限まで小さくしてしまった」

「それって……」

「生者の方が、死者よりも悪なんじゃないか……? おれはもう、考える事が多すぎて、今までを上手にこなす事しか出来なかったからな。上手ではあっても、正しくってのは中々出来ない。疲れたんだ。境目のかたっぽから、もうかたっぽの境目に声をあげ続ける事とかも」

「ロジオン。この工場は、ロジオンをどうやって招けばいいんだろう。献体として受け取ればいいの?」

「献体……では、ないかもな」

「じゃあ……」

「判断するな。考えろ。疲れ果てるまで。死に生者までもが取り残されてどうする」





 海馬に落とされていた針が上がり、黒光りの袋はもう、スピーカーとしてデニスに感覚をもたらすものにはならなくなった。ストレッチャーに乗せられた袋を運んできたイサークは、デニスの前でロジオンの死を見て、

「まるで、既存の死の価値観を否定するような行動だな……。こんな老人が、過去を託さぬまま死だけを託しているだなんて」

 と言った。デニスはロジオンに包まれた袋を取り除いて、

「情念や思想にだけ働きかけるだなんて、まるで死者は本だね。献体になれば、本は捌けるのだけれども……」

「それで。ロジオンを、これからどうするんだ?」

 デニスはロジオンが亡くなった事が、海馬に一瞬だけ通った様々な記憶によって、左程ショックに感じるべきではないだろうと感じた。これを忘却へと連れて行く事、ロジオンを一つの作品として記憶の死を与える事は恐らくは、了承しているだろうから。

 そう考えたい自分なのか、そう考えさせられた自分なのかはわからない。相変わらず死者は無口だし、この遺体に限っては生者がこの中に想いをめぐらす事を許していない。

「彼を使って絵を描くよ。死者は資源だ。貴重すぎる程に文脈を持った資源なのだから、それを構図にする事は。僕は冒涜だとは思わないよ」

 イサークは最初こそ、デニスの言った事に驚いたが、数秒経った後には頷いて納得したのか、煙草のパッケージをこちらに見せた後、外へと出て行ってしまった。リュドミラはその場に残った。

 時計は午後の六時を指していた。事務長のタチアナに、工場を夜に使いたい旨を伝えたら、ロジオンが話をつけていたらしく、恐ろしく簡単に了承してくれた。タチアナは前々から話を聞いていたのか知らないけれども、ここがロジオンの墓なんだろうね、と淡々と述べるだけ述べて帰っていった。これを墓というのなら、この工場は何十何百の墓として聳え立っているのだろうか。

「デニス……」

 リュドミラがデニスの裾を引っ張った。見ると、彼女がロジオンの身体を指差していて、数箇所に大きな銃創、そして大きな切創が胸一杯に広がりながら治癒したものが見つかった。リュドミラが、

「あの……デニス。ロジオンがこうなる前。タチアナから話があって」

「……?」

「もうすぐヴァカーンシアを出すけれども、わたしにここで働かないかって。話があったんです」

「その話をどうして……今?」

「一言も話してくれなかったのに……わたしが誰かを、ロジオンが誰かを、知っているの! この場所で彼を見ているのに、耐えられないんです……。だから、外に、います」

 大丈夫だよ、と一言了承の意を述べると、その女性はあのはじめて見た時のような途方も無く遠い眼を表して、部屋を後にした。きっと、海に向かうのだろう。

 作業着に着替え、倉庫から絵画を引っ張ってくる。作業台の脇に画材とイーゼルを置き、改めて対峙する際、一度大きく深呼吸をした。

 ステンレスのメスを持って、彼の頸部から胸部、腹部にかけて刃を入れる。ロジオンの表情は変わらない。新鮮な内臓が目の前に浮かび上がる。これら全ての肉体を部品として輸出する手立てがこの工場に無いのが、本当に悔しくて堪らない。内臓の塊を引きずり出して、それを木製の机の上に置き、筆に持ち替えた。構図は決まっているし、普段よくよく見てきたものだから、個別の色彩や特別な特徴を拾い上げる事に集中出来る。

 イメージが決まっていた。工場から見える海と空を眺め、背中を見せている老人が、自らの内臓を乗せた机を傍らに立っている。閉ざされた瞼のラインは暖かく、しかし表情は硬く冷たい。その一人の老人の死を作品に仕上げるには、まだデニスは全く腕が足りないと認識していたが、それでもやり遂げる事に意味はある筈だと考えた。だから、作品自体の完成度は上げたかった。そして、工場に招かれた死者が行われるだろう物事もやりとげたかった。これは第三者の死体では無いんだ。だから、何も情念をわきあがらせてはいけない。そう何度も言い聞かせながら、腱や骨を摘出する度に絵具を乗せ、あの内臓をまるごと摘出した後の不自然な空白も描き、眼球を摘出した後生理食塩水を満たした瓶もモティーフに加えた。ロジオンが段々と、キャンパスの上に移動していった気がした。

 しかし、デニスも同じく、理性でそこまで制御しきれない。何故この老人はこんな終着点にたどり着かないといけなかったのだろう。疑問を感じながら自分の眼を何度も拭うと、引きずり出した内臓の中で何かが不気味に金属質な光沢をこちらに放ってきた。その元を探していくと、場違いなライフルの弾があり、こちらにその存在を出張し始めた。何かが酷く憎たらしく思え、その他の者からの悪意の塊をすぐに拾い上げ、床に思い切り投げ捨てた。弾はリノリウムの床にぶつかった後、勢いを失い、デニスの足元に転がった。その時に知ったものを、デニスは絵画の中に入れようか迷ってしまい、作業をやめて座り込んでしまった。

 ロジオンの体内にこんな物が無ければ、彼は彼が望んだ通りに工場の中の、献体の一つとして逝けたものを。デニスの情念は防波堤を突き破り、いつの間にか彼に対して再度、海馬を洗い出す作業に挑ませてた。そうして記憶の中の海に意識が浸かりきった時、もはやデニスはロジオンを絵画に落とす事が不可能であるだろうと打ちひしがれてしまい、筆を二度と握れないだろう確証を持った。それはロジオンを知らずにロジオンの死を終わらせる事に対する未練となり、そして、ロジオンを超えた場所で起こっただろう空間の歪みに対する非力さとなった。デニスはついに、彼の医学の知識や絵画の技術を否定してしまい、非力な自分を克服出来なかった事を嘆き、停滞してしまった。





 真夜中、車のライトを付けたままイサークがラジオをセットすると、マルタ・クビソヴァ(Marta Kubišová)のマルタの祈り(Modlitba pro Martu)が流れていた。リュドミラが海岸で立ちすくんでいるのを見ていると、彼女がそのまま一歩を波の流れに逆らって出してしまいそうに思えた。しかしイサーク自身も被害者意識とも加害者意識とも言えない、方向性の欠けた害の意識が沸々と音を立てて熱くほとばしっていた。止めようと向かいには行けなかった。

 リュドミラはあそこで何を考えているんだろうか。深海に沈んでしまうのか、この工場に留まるのか。どちらか悩んでいるのだろうか。デニスは、ロジオンと共に絵画に向かい合い、本当にロジオンを弔えるのだろうか。何かがすんなりと紐解かれない印象がイサークの中には残り続け、それはロジオンを巡る思索がずっと続いていたからでもあるのだが……まだ何かが残っているような気がした。ノートだろうか。ボディファームについて記録されたノートを捲ってみたけれども、そこには丁寧な記録しか本当に残っていない。煙草に火を付け、車内から灰皿を取り出す。海が荒れている。父と母の事以上に、今はロジオンが死んだ事が実感できなく、それを受け入れる空虚な時間が欲しかった。

(海が荒れている……今沈んでも、陸へ戻されてしまうのではないのかな。デニスは、ここの潮は大陸を一度離れて渦に身を委ねるって言っていたけれども……今ここでわたしは、境界に落ち着いているんだ。気持ち的にも……安定と、不安定の境界にいるような心地もする。じゃあ今は……工場と、海の間が境目なのかな)

 後ろを振り返ると、イサークが煙草を吸ってリュドミラの向こう側を眺めていた。あの夜と一緒のように思えた。確証の無い光を求めて、この暗がりの砂浜からデニスの元へと向かった。でも今は迎える人がいて、誰だかわかっている。それは信頼出来る人だろう。そうして、生きてもいいよと許しを与える光が最も明るく、そして明るい。

(雪が降る中……明かりが一つもついていない、暗くて壊れた家に帰るのは、いつも億劫だったな。友達の死体を見に向かった帰りに、家の前にいたら、そのまま帰るのが嫌になって飛び出した。チェチェンにわたしの帰る場所は無い気がする。きっと、あいだに立ち続けるのって難しい事で、どちらかに倒れこむ事がとても楽だったのかも知れない)

 腕を見ると、皮膚の下で紫色に広がる痣は、少しだけ小さくなっていた。下腹部の痛みは少しずつ和らいで、今では殆ど感じなくなった。まだ緊張は残っている……それが取り払われれば、リュドミラはロジオンの死も冷静に考えられるような気がした。

(わたしは、その海面にも海底にもたどり着けない気がする。深海を目指した人は皆、死の欠片を底から拾い上げようとする。息苦しさから浮かび上がりたくなると、やがて欠片を元の場所に残して浮かび上がる。しかしずっと、深海に欠片は本当は一つも捨ててはいないし、持ち続けていると知ったまま。欠片は死への願望で、それはいつか死を迎える可能性が色濃く目の前に見えたにすぎなかったのかも。今は、もう深海は遠い……)

 リュドミラは海に背を向けて階段を上り、イサークに向かって、ヴァカーンシアに応募してみたい、と言った。それがリュドミラの今までに区切りをつけるものでもあったし、皆が思うような工場に吸い込まれる人達が感じる終着点を、彼女自身も感じていたからだった。イサークは少しだけ頷き、デニスが描き終わるまでここで待とうと思うと言うと、リュドミラもそれに同意し、大きく笑って見せた。ロジオンについての、イサークの悩みが少しだけ収まった気もした。リュドミラの笑顔がイサークにとって、何より数日間の体験の先がよい方向にあると感じさせてくれる程、綺麗なものだったから。

 瞬間、破裂音がした。大きな破裂音だった。イサークが驚き周囲を見渡すと、リュドミラがコンクリートの道の上、雪が積もった中に倒れていた。まだ周囲には音が響いている。耳の奥にも残響がしている。急いで歩み寄ると、側頭部には穴が開いていて、身体を抱え上げると貫通しているのがわかった。真っ白な雪には赤い血が染み込んでいて、工場側から海の方向へと脳が飛び散っていた。リュドミラの眼が淀み、涙で潤んでいた。気が気で無く、大声で叫んでみたが返事は全く無かったし、イサーク自身が今撃たれないのを考えると、余計にリュドミラの身体に残っている温かさが残酷に思えた。

 リュドミラはどこに行けばよかったのだろう。今もどこに向かえばいいのだろう。生者として迎え入れられる筈だったリュドミラを、死者として迎え入れる事は、イサークには到底出来る事では無かった。そして、リュドミラが一度決断した海から離れる事も、また同じくできない事だった。

(じゃあ、リュドミラはどこに行けばいいんだ。この工場でも海でも無い境目に、沈み落ちて消えていかないといけないのか)

 海鳴りが聞こえた。工場から、ステンレスとステンレスが激しくぶつかりあい、壊れていく音が聞こえた。リュドミラの温度が、少しずつ抜け落ちていく。背後の大地にこれ程鮮烈な体験を強要された後。眼を見開いて見つめる海は確かに深く、死も何もかも含んで失わせてしまう、唯一の逃避場所のように思えた。イサークはその時はじめて、深海に沈みたいと感じて止まなかった。

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ロジオンの墓 熊埜御堂ディアブロ @keigu_vi

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