ロウニンのメランコリー

Yoshitugu Tuduki

自分がロウニンしたその日

 浪人などと言う言葉は、中学の時に初めて耳にして以来、自分には無縁の立場だと決めてかかっていた。クイズ番組とか歴史もののバラエティ番組で聞く同じ単語と同じくらい、現実感のない言葉。それは結局、大学受験を目前に控えた時期まで…いや、正直に言おう。碌な勉強をしてなかったにも関わらず、先生や家族に口を酸っぱくして言われ続けたにも関わらず、俺の中では合格者発表のページを開くその直前まで、浪人などという言葉が自分に当てはまるなんて、思ってもいなかったのだ。

 何度も何度も確認して、自分の前後の番号が連なって表示されているのを見て、電話で担任の先生に連絡して、チャットで仕事中の親に連絡して(それ見たことか、と返ってきた)、しばらく呆然とした挙句に、不安で体が震えて、わけのわからない涙が溢れ出して、誰もいないリビングで座ってひたすら時間が過ぎるのを待った。時間が経ったからと言って何も解決することはなかったが、その時の俺には泣いて過ごすしかできなかったのだ。言い訳は効かない。部活の卓球で全力を出して負けた時の悔し涙とはわけが違う。舐め腐って先送りにし続けた挙げ句、予め決まっていたタイミングで当然の結果を突きつけられた、無様な敗者の涙だった。そのまま夕方までめそめそして、家族に顔を合わせたくないのでベッドに入る。家族も気を遣ってくれたのか、それとも呆れてしまっているのか、リビングに呼ばれることはなかったので、我ながら情けないが、そのまま寝てしまった。寝よう。寝て起きたら、何か状況が好転しているかもしれない。悪い夢だったのかもしれない。そう思うことにして、性懲りもなく全てを先送りにして眠った、はずだった。


 足元が寒い。目が覚めたのはそれが理由だった。毛布が変な方向になってしまったのか、寝相が悪かったのか、足先が冷えてしまっている。上半身を起こして、寝ぼけ眼で時計を探す。その間に、逃れようもない昨日の事実が脳裏に蘇る。自分は受験に失敗した。浪人生になってしまったのだ、と。

 零れ出た溜息が絶望なのか諦観なのかは自分でもわからない。何をするでもなくぼんやりと眼の前を見つめていると、妙な違和感を覚えた。何かがおかしい。

 自室のベッドではない。ソファの上に、薄い毛布をかけられて寝ていたのだった。昨夜は自分の部屋のベッドで(泣きながら)寝たはずだ。ここはどこだ。

 周囲を見渡して、見慣れた壁掛け時計を見つける。午前11時半。昼前まで寝てしまっていたのか。でも何かが変だ。時計も、ソファも、見慣れたものだ。間違いなく自宅のリビングに置いてあったものと同じだ。何がおかしいんだ?なんだか違う視点から、違う視界から見ている気がする。

 3月だからか足先が寒い、引っ込めて毛布の中に全身入ろうとしたが、入らない。サイズが小さいのか?と思ったが、昨晩まで自分を包んでいた自室の毛布と、同じ柄だった。

 そしてようやく視覚の違和感に気づく。視界全体が横に広がったような感覚、眼の前のピントは妙に合わせにくい上に、鼻のあたりに何か黒く長い物がある、なんだこれは、何かくっついてるのか?

 困惑して周囲を見回していると、見知った顔が見えた。

 「おう、起きたか」

 隣の部屋から顔を覗かせた兄貴は、背後にいる誰かに向かって、起きたけどどうする?と訊くと、布切れの束を持って部屋に入ってきた。何かに引き裂かれたようなそれは、俺がここ数ヶ月練る時に着ているジャージにそっくりだった。

 母さんが兄貴に続いて出てくる。叔父さんと、1つ上の従兄弟が更にそれに続く。

 「あんた、大丈夫なん?めちゃめちゃ暴れてたけど」

 大して心配もしていない風に母さんが言う。時折兄貴が持った布切れの束を見ているので、ずたずたになったジャージの方が心配なのかもしれない。

 「あんぐらいは大丈夫だよ。狼はタフだし、それにこの状態になっちまえば、大抵は何も起きないよ。こいつの時はもっと大変だったんだぞ。家具は倒すし花瓶は割るしカーテンは千切れるし、酷かったんだから、なあ?」

 「覚えてないんだって。たぶんこっちも覚えてないと思うよ。ジャージと下着を着てたのが幸いだったな、脱がすの大変だったけど」

 叔父さんと従兄弟が口々に言う。何のことかはわからないが、覚えてない。何一つ覚えてない。未成年なのに飲酒して酔っ払って暴れた、とかそんなだろうか?受験に失敗した上にヤケクソになって人生終了とか勘弁して欲しい。

 「なら撮っといてよかったわ、ほれ、今朝のお前」

 兄貴はそう言ってスマホを弄り、俺に画面を向けた。動画が再生されている。

 『そっち持つな噛まれるぞ!口元押さえろ口元』

 『そっちが噛まれそうなんだけれど!おばさんそのままね、脱がすから!』

 『わかった!あんた何撮っとん!?手伝いなさい!』

 そう口々に言い合ってるのは叔父さんと従兄弟、それから母さんだろうか。画面の中央に映っているそれは、恐らくその3人の腕になんとか押さえ込まれてもがいている。

 犬だ。ジャージを着た犬が暴れている。ハスキー犬ほどの大きさの黒い犬が、俺のジャージの、ちょうどネックの部分から顔を出し、恐ろしげな唸り声を撒き散らしている。犬の前足はジャージの内側にあるのか、時々裂けるような音が唸り声に混じる。茶色い目が怯えたような、警戒するような、怒るような表情を浮かべている。犬が苦手な俺が一番嫌な犬の顔だ。

 動画は1分足らずで終わっていた。兄貴はいつもの、どう?と自慢するようなにやついた表情をこちらに向ける。母さんから、あんた見世物と違うからね、と鋭い声が兄貴に飛ぶ。

 どうって、なにこれ動物虐待?

 そう、呆れたリアクションを返したつもりだった。

 喉から出てきたのは、風邪を引いたような奇怪な音。さっきの犬の唸り声にも似た、少なくとも自分の声とは思えない、そう、動物の鳴き声。

 思わず喉を押さえる。髭とも異なる柔らかな毛の感触、長く伸びたように感じる喉元から顎下をなぞるように触れる。これは、俺の顎のはずだ。

 まさか。

 小さくなった湿り気のある鼻に触れ、長く伸びた鼻面を両手で触りだす頃には、予感は半ば確信に変わる。この確信は、つい最近覚えがある。

 毛むくじゃらになり、掌だったところに毛の生えていない箇所が、しかし人間の掌とは決定的に異なる構造を見つけ、変わり果てた自分の手を凝視する俺に、兄貴がスマホの自撮り機能をオンにして画面を見せる。

 「初めてのジュウカだぜ、すげえだろ」

 茶色い目、頭の上にある尖った耳、黒い毛並み。見つめ返すその全てが、さっき見た動画の犬、いや、狼と合致する。

 浪人するって、結果発表の直前になってようやくわかったみたいに、狼になったことさえ、俺は教えられるギリギリじゃないと自覚できないんだな。

 アホらしくなって、逆にニヤついてしまう。画面の中の自分は、口を突っぱらせて舌をだらんと出して笑った。

 ああ、狼ってこうやって笑うんだな。

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ロウニンのメランコリー Yoshitugu Tuduki @TSMoon56

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