猫同心

鴨サラダ

第一部 猫と同心

第一話 出会いは雨

 時は享保三年の冬、徳川吉宗公が治める江戸の町。

 南町奉行所定町廻り同心の井村定吉(いむらさだきち)は今日も今日とてこの江戸の町を見回り、職務を果たす。今年で二十五の歳になるが嫁はおらず、独身の生活を送っていた。


「…あっと…降ってきやがったか」


 ポツリポツリと雨が降る。あいにく傘は家のどこかに置いて来てしまった。急ぎ足で奉行所へ戻ろうとしていたが雨は季節外れの大雨となる。

 慌てて大通りにある馴染みの甘味茶屋【甘餅堂】(あまもちどう)に飛び込むと、いつもの老齢の店主の男が顔を出す。


「やぁ定(さだ)さん、降ってきたねぇ」

「あぁ伝兵衛(でんべぇ)さん、急だったからさ…へへっ、濡れ鼠だよ…」


 着ていた黒の役羽織をバサバサと払い、腕にかける。


「そんな濡れ鼠さんよ、ここいらで団子と熱いお茶はどうだい?」

「そうだなぁ…やみそうもないし、そうしよう。いつもので頼むよ」

「あいよ!あ、そうだ!その羽織をお貸しなさいな。女房に言って囲炉裏のそばで乾かしてあげるよ」

「お、ありがたいね……あれ?そういや今日息子さんは?確か代替わりしたとかなんとか言ってなかったかい?」

「あぁ、あいつなら地域の商人組合の会合に出るために伊藤さんとこの酒造店に行ってるよ」

「ほぉ、会合にねぇ…様になってきたじゃないの」

「へへっ、あいつぁまだまだですよ」


 羽織を渡して椅子に座る。しばらくすると団子が3本と湯呑に入った茶が出てくる。


「お待ちどうさん…ところで定さんよ、聞いたかい?」

「ん、何を?」

「ほら、こないだ三本向こうの通りで人斬りがあったろう?」

「あぁ、あったな」


 四日前の夜、ある旗本の三男坊が斬られて亡くなる事件があった。亡くなったのは岡倉十助(おかくらとおすけ)という男で、後ろから背中をバッサリと斬られて亡くなっていたところ、偶然にも夜遊び帰りの酔っ払いに発見されたというのだ。奉行所の方でも見廻りを強化せよとのお達しが出たため、頻繁に見廻ることとなった。


「あれねぇ、化け猫の仕業なんじゃないかって噂があるんだよ」

「化け猫ぉ?馬鹿言っちゃいけねえよ俺は刀傷だって調書を見たぜ?」

「まぁまぁまぁ、続きがあってね…実はあの通り、野良の猫ちゃんたちがいることで有名なんだが…岡倉の十助の奴、ちょっと前に猫ちゃんをいじめて…あろうことか殺しちまったんだよ」

「ほぉ……」


 団子をほおばりながら茶請けの供に伝兵衛の話を聞き流す。確かに岡倉十助は素行が悪いことで有名で、刀をぎらつかせては無銭飲食…気に入らないことがあれば相手が女子供であっても当たり散らして憂さ晴らし。町人からの評判は最悪だったが旗本である親からの圧力でしょっ引かれてもすぐに解放される。定吉も同僚と共に暴行の現行犯で取り押さえたことが一度だけあったが、「何をする!僕はあの岡本の子だぞ!」と暴れて…まぁひどいものだった。


「かわいそうに…その猫ちゃん、母猫だったんだがね?子猫をかばって亡くなって…」

「んで?その母猫が化けたって?」

「おうそうさ、まぁ真偽はともあれ…亡くなった岡本の十助には申し訳ねぇけど胸がすっとしたねぇ…化け猫様様だよ。ありゃあ天罰だね、間違いない」

「ふーん……化け猫様が天罰ねぇ…」


 伝兵衛は大の猫好きではあるが、食品を扱う店だからとお客が動物を連れ込むことはあっても、自分ではぐっとこらえて飼わないようにしているのだ。

 三本目の団子を食べ終わり、伝兵衛に勘定を渡す。そのころには雨は小降りになっていた。


「よし…これなら行けるか…そろそろお暇するよ、羽織を貰っていいかい?」

「うーん…小雨とはいえまだ降ってるよ?傘貸そうか?」

「いいや大丈夫さ、奉行所まで走るよ」

「そうかい?まぁ定さんがそういうなら…おぉい!お絹(おきぬ)!定さんがお帰りだから羽織持ってきておくれー!」


 伝兵衛の女房のお絹から役羽織を受け取り、ばさりと羽織り小雨の中に出ていく。

 「またどうぞー」と伝兵衛とお絹に見送られながら走っていくが、なんと少ししたところで雨がまた、ざぁっと強くなる。


「なんでぃ…俺って雨男だったか…?」


 今更戻って伝兵衛に「やっぱり貸してくれ」なんて恥ずかしいと思い、足をさらに急がせる。



「ん…?」


 角を曲がって奉行所まであと少しというところで道でもぞもぞと小さな泥団子が蠢いているのが目に入る。さっき伝兵衛に「化け猫」なんて言葉を聞いていたものだから定吉は「妖の類じゃないだろうな」と警戒する。

近寄ってよくよく見ると泥団子は小さな子猫で、息も絶え絶えの状態だった。近くに親猫の姿はなく、定吉は困ってしまう。


「っ、えー…あー…ぐぐぐ…まいったなぁおい……ええい!仕方ねぇ!!」


 乾かしてもらった役羽織は脱いで、泥団子、もとい子猫を羽織で包んで抱え、奉行所に急ぐ。冬の冷たい雨が身に染みた。


「井村 定吉!た、ただいま戻りました!」

「お、定!…ははは、結構雨に降られたみたいだな風邪引くなよ?」


 南町奉行所の同心庶務部屋の戸をがらりと開けると今は同僚が一人、書類雑務をこなしているところだった。定吉は速足で自分の席へ向かっていき、包んだ羽織の口を開くと両掌ほどの小さな泥団子は震えながら「みいみい」と苦しそうに小さく鳴いていた。


「おい定、何だい?そいつは」

「や、違うんだ…雨の中走っていたらこの猫が倒れてたもんでな?」


 「何だい?」と顔を出したのは定吉の同僚の栗田 正清(くりた まさきよ)と言い、定吉と同じ年ではあるが妻子持ちで家が代々徳川家に仕える役人で金持ちである。まぁ性格はいいし、面倒見もよく、定吉とよく飲み明かす中である。


「ほぉ…なんか苦しそうだぞ?泥だらけだし…」

「…そうだ正(まさ)、ちょっとこの子猫頼む。俺水汲んでくる」

「お、お、おう…頼まれた」


 正清に羽織に包まれた子猫を渡し、部屋を出て台所で桶を借りて井戸へ向かう。

 水をざばりと汲んでいると臨時廻りの島倉 源蔵(しまくら げんぞう)が通りかかる。

 源蔵は長く定町廻りを務めていたが、つい二年前からは後進を育てるために臨時廻りへと身を引いており、今は定吉や正清たち定町廻りの指導係となっている。年は五十を過ぎていて頭髪は少し白髪が混じり始めていた。


「定じゃねぇか、どうした?桶の水被って滝行の真似でもしようってか?」

「源さん!いや違うんですよ…泥だらけの子猫を拾ったもんで綺麗にしてやろうかと…」

「何、子猫ぉ?おめぇさん、まさかその井戸水で洗おうってんじゃないだろうな?」

「へ、へい、何か問題でも…」

「馬鹿野郎!こんな寒い日にそんな冷たい水じゃかわいそうと思わねぇのか!おい!台所行くぞ!」

「へ、へい!」


 源蔵と共に奉行所の台所に入り、下使いの女中に湯を沸かせる。その間に源蔵は台所の戸棚を漁っていた。


「…源さん?何してるんで?」

「ん?あぁ多分おなかが減ってるだろうと思ってなぁ…こんなもんか」


 源蔵は戸棚からごとりと鰹節を取り出し、ごおりごおりと丁寧に削るとふんわりとした削り節が出来上がる。ちょうど沸き上がった湯を少し垂らして水を切り、何度か繰り返してふやかす。


 「よぉし…あとは…おい定、おめぇさんこの桶に自分が湯につかった時にちょうど気持ちのいいくらいの温度の湯を作れ。そんでもって何か拭いてやれる手ぬぐいを探してこい」

「わ、分かりました」


 湯と水とをうまい具合に混ぜ合わせ、いい感じのほかほかとする湯を作る。手ぬぐいは…いい感じのが無かったのでこっそり洗濯の溜まっている籠から綺麗な布を拝借した。

 源蔵と共に正清と子猫のいる庶務部屋に戻り、子猫の状態を見た源蔵は「おうおうかわいそうに…まずは泥を落としてやろうな」と湯を少しずつかけてやり、布で拭っていく。泥を落として綺麗になるにつれてはっきりとした茶虎の柄が浮かび上がってくる。


「ほーぉ…歯の生え具合を見るに乳離れはしてそうだな……おい定、この子の名前は?」

「えっ?いや、名前も何も…ついさっき拾ったもんで…」

「馬鹿!周りに親もいなかったんだろ?ほんじゃお前さんがこの子の新しい親だ」

「えぇ!?げ、源さんそいつぁ…」

「いいじゃねぇか、定、おめぇさん女房もいねぇ悲しーい独り身だろ?」

「そうだぞ定、源さんの言うとおりだ。家族が増えてよかったじゃないか!」

「正ぁ…お前まで…」


 源蔵と正清に「さぁさぁ」と綺麗になった子猫を抱かされる。綺麗になった子猫の震えは止まっており、「にゃぁ」と定吉の腕で鳴く。


「はぁ…分かった、分かりましたよ…おい、子猫。今日からお前はうちの子だぞ…名前は…名前は…」

「……ええい、何だい、煮え切らねぇやつだな」

「いや、名付け親なんてやったことないもんで…」

「ったく…ま、そんならゆっくり考えてやんな。明日色々持って来てやろう。おっと、ご飯を食わせてやらんとな…」


 源蔵が先ほどふやかした削り節を少量、子猫の鼻先に持って行ってやると、ふすふすと削り節を嗅いで、「んにゃぁ」と一声鳴きぺろりと平らげる。


「うはは!うまいか?ほれ、お代わりをやろう…おい定、よぉく見とけよ?この子が大きくなるまではおめぇがこうやってご飯をやらんといかんぞ?」

「へ、へい…え、毎回ですか?」

「当たり前だ馬鹿。それと削り節をやるときは何回か湯でふやかして味を薄くしてからやるんだぞ?」

「そいつはなんでです?」

「人と猫とじゃぁ味が濃すぎるんだよ。毒だ毒!この子の健康のためにならん」

「なるほど…?分かりました、薄味のを心がけます」


 その後も「んみゃんみゃ」とふやかした削り節を食べた子猫は満足したのか「けぷり」とげっぷをしてうとうとと眠ってしまう。


「へぇ…こんなくらいで腹いっぱいになるのか…定、お前のとこの子は小食なんだな」

「馬鹿言うなよ、正のとこの子は人。くらべてこいつは猫なんだからよ」

「それもそうか」

「よぉし…おい定、今日はおめぇこの子猫連れてもう帰れ」

「え!?あいや、まだ報告書が…」

「んなもん俺と正がやっといてやる!帰ってこの子のねぐら作りと名前を考えてやれ」


 源蔵の提案に正清の方は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐにやれやれと苦笑いをして諦めた。


「…定、今度でいいから熱燗奢れよ?」

「…すまねぇ」


 定吉はすまねぇついでに傘を借りて、いつもより早い家路につく。定吉の同心屋敷に帰ってきたときも子猫はまだ「くぅくぅ」と眠っていた。

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