イッツ・ア・スモール・ワールド

昼星石夢

第1話イッツ・ア・スモール・ワールド

『10を知れ』

 礼拝堂の白い壁に、べっとりと赤黒く殴り書きされている。

「誰がこんな落書きを……ハルキ様、いかがいたしましょう……。うぅ、けがらわしい、血の匂い」

 壁をじっと見つめるハルキは、文字の向こう側に、封印した過去を思い出していた。


 幼い頃、毎朝目覚める、二段ベッドと正方形のデスクを二つずつ置いただけの小さな部屋。上で寝ている兄弟を天井の板を叩いて起こす。血のつながりはない。

 身支度を整え、枕の下の教典を持ち、礼拝堂に四人一組で向かう。

 粗末な木造の宿舎とは違い、どんな天災にも揺らぎそうにない、白い漆喰しっくいの礼拝堂は、いつでもおごそかにたたずんでいる。ずらずらと合流した四十人ほどの子供達。順に入口でひざまずいてから、細い長椅子に腰かけ、教典の言葉をとなえる。

 『我は神の御側に仕える御身を師と仰ぎ奉り、永遠にその御足許に跪かん。御身の命じることは、天の定め信ず。これを疑うこともなく、逆らうこともなし』

 前の席の背もたれの下にある空洞に教典を入れると、食堂で味のしない朝食を食べる。たいてい、小さな丸いパンと、ミルクスープだった。

 食べ終わると、それぞれの仕事をする。冬の時期、固まった畑の土をスコップで掘り返したり、苦土石灰くどせっかいいたりといった畑仕事、家畜である豚の餌、水やり、観察して異常がないかをシスターに伝えたりといった畜産業の手伝いもした。

 昼ご飯は朝と同じパンが一つ支給される。そうして午後の仕事に取り掛かるのだ。

 宿舎、礼拝堂、食堂、その他施設を隅々まで掃除したり、布教活動に使うパンフレットにせる絵を描いたり。もちろん好きな絵を描くのではない。シスターから、ここで生活できる幸せな気持ちを絵に、とか、皆が笑っている絵を、とか指示される。布教活動の手伝いは、他の仕事に比べて肉体的には負担が少なかったが、たまに抜き打ちのようにテストをされた。教典の内容をちゃんと記憶して理解しているか、どう思うか。仕事の手を抜いたときと同じく、間違うと罰せられた。ハルキは比較的優秀で、兄弟より罰せられた数は少なかったが、一度、シスターの意に沿わない答えを言って、雪の降る中、素っ裸で外に立たされ、さらにホースで水を浴びせられたことがある。その後、ひどい風邪を引いて、しばらく眠れないほどだった。それでも仕事は休めないし、大人達は助けてくれない。なぜ回復したのかわからないが、生きていたのは奇跡に近いと後に思った。

 午後の仕事が終わると、朝より少しだけましな、といっても、スクランブルエッグが加わっただけ、というような夕食を食べる。調理も当番制で子供達自身で作るため、ろくな食事にならなかったのだ。

 入浴は三日に一回。それから礼拝堂で祈りを唱え、就寝する。部屋に戻って寝るまでのわずかな時間が、唯一、子供達同士の私語しごが許される時間だった。だがその頃には皆くたくたで、一言も口を利かずに寝ることも多かった。

 これが毎日、ただ繰り返された。両親は同じ教会に所属して、近くにいるはずだが、年に数回の行事以外、会うことは許されなかった。学校には、この教会に入るまでの一年間だけしか通ったことはない。


 機械的に繰り返される毎日に、少しでも色が加われば、印象に残る記憶となる。

 朝の礼拝を終えて、兄弟と食堂へ続く外廊下を歩いていると、手摺てすりに一羽のカラスがとまっていた。カラスは、ハルキをキョロっと見ると、羽を大きく広げて飛び立った。その際、兄弟の足元に、羽を一枚落としていった。兄弟はその漆黒しっこくの羽を束の間見つめると、自分の短パンの後ろポケットに入れた。

 朝食を終え、畑に散らばった、収穫したあとの野菜の葉や茎を拾い、雑草を抜いていると、「なんですか! それは!」という、シスターの怒鳴り声が聞こえた。

 かがんだまま振り向くと、兄弟がポケットに入れていたカラスの羽を指して、声を荒げているらしい。兄弟はおろおろと、見ているこっちがいたたまれなくなる様子で、「廊下に落ちていたので拾ったんです……」と、消え入りそうな声で言った。

 みるみる吊り上がっていくシスターの目を見て、兄弟は持っていた羽を地面に叩きつけた。

「捨てます! 捨てます! こんなもの!」

 そう言って、足で何度も踏みつけた。すると、兄弟が踏むたびに、シスターの顔の筋肉はゆるみ、穏やかになっていった。

 十回ぐらい踏んづけたところで、シスターは息を吐き、「気をつけなさい」と去っていった。

 兄弟は心底ほっとしたように肩を落とすと、最後にだめ押しでもう一度踏みつけ、次の仕事へ向かった。

 ハルキは誰も見ていないことを確認すると、その羽を拾い、土汚れを払った。数回優しくでると、なんとか形を取り戻したそれを、シャツの中に仕舞い、乳牛の世話へ兄弟を追いかけた。


 午後になり、教会の歴史や、理念が学べる、来客用の展示室のトイレ掃除をしていると、シスターから、「司教様が礼拝堂へお呼びです。お客様がいらしているので、歌を披露してほしいのでしょう」と声を掛けられた。

 兄弟とともに礼拝堂へ向かう途中、羽を踏みつけた彼が「司教じゃなくて、司教補佐なんだよ」と小声で耳打ちしてきた。「ふうん」と言って礼拝堂の裏口を開けると、司教補佐様が壇上にいて、手招きと視線で並ぶよう示した。ハルキ達の他に男子が八人すでに準備を整えていた。

 教会ではたまに、外から大人が見学にくる。そういう時は展示室で説明をしてから、礼拝堂でハルキのような子供達に歌わせたり、躍らせたり、教典を朗読させたりする。今日のように歌うときは、礼拝堂全体に響くように、教会のオリジナル楽曲がかかっている。一番から十二番までそれぞれ違った歌詞があり、来訪者に合わせて選ぶのだ。

 兄弟と壇上に登り、「じゃあ、六番を歌おう」という司教補佐様の言葉に皆で返事をする。同じタイミングで、少し疲れた様子の夫婦が、見たことのない、司教補佐様と似たような服を着た人物と、正面から入ってきた。司教補佐様は体を強張こわばらせて緊張しているようだったから、夫婦に笑いかけている司教様のほうが、偉いんだろうと思った。

 司教補佐様が腕を振って、ハルキ達は歌いだした。ここに来ればもう大丈夫、私達は外の人間達のように、貴方を見捨てはしない。そのような意味だと、当時は意識せずに、ただ、歌っていた。

 ふと見ると、夫婦はしくしくと泣き、女性は偉い司教様に手を握られていた。司教補佐様はいつもより大仰おおぎょうに動くので、顔が徐々に赤くなっていった。みんな笑うのをこらえて歌い、それがかえって夫婦の涙腺るいせんを刺激するようだった。

 はらりと、司教補佐様の腰からチェーンのようなものが落ちた。

 いつもぶら下げている、教会のシンボルがついた、数珠じゅずつなぎのものだ。ひだのついたワンピースのような司祭服を着ているためか、ハルキのほうからしか見えていないようだし、本人も気づいていないみたいだった。

 歌い終わると、偉い司祭様が満面の笑みで拍手をした。それからゆっくりと、夫婦を支えるようにして立ち上がり、出口に向かって歩いていった。

 外に出る直前に、わずかに振り返り、司教補佐様に、頭をかしげて、一緒に来るよう呼んだ。それを見た司教補佐様は、まるで子供のように口を開けて、目を輝かせていた。ハルキ達を振り返り、右手ではらはらと、用は済んだから出ていくように合図すると、裏口から皆が出ていくのを待たずに、偉い司教様の背中を追いかけていった。

 ハルキは、さっと落ちたチェーンを拾うと、兄弟に先に行っているように言い、司教補佐様の執務室しつむしつへ届けておくことにした。

 執務室は礼拝堂の隣にある。普段立ち入りは許されていない。こんな時でもないと。

 意外と軽い、黒い木製の扉を開ける。

 中はゴミっぽく、様々な書類や本が積まれ、この教会に入る前以来の、パソコンやスマートフォンが雑然と置いてあった。触れてみたが、どちらもロックがかかっていた。紙に書かれていることも、どれも教会に関することばかりで、ハルキは「なあんだ」と、持ってきたチェーンをデスクにじゃらりと置いた。

 ――と、視線の先の一番下の棚が、鍵が刺さったままで少し開いていることに気づいた。

 かがんで床と平行に頭をかたむけてみると、中に入っているのは、子供達から没収したもののようだ。

 敷地内の庭、舗道ほどうを掃除していると、たまに外の人が物を投げていく。そのほとんどがゴミや、生卵だったりするけど、まれに新聞、漫画、小説、いかがわしい雑誌と面白いものもある。こっそり持ち帰って、部屋で回し読みをする、そんなことをしている組もあるようだ。もちろん、見つかったら大変だ。ここに置いてあるということは、前の持ち主はただでは済まなかったはず。だが――。

 一番端に、見慣れた黒い、薄く教会のモチーフが描かれた背表紙を見つけた。

 ――ただの教典がなぜこんなところに?

 ハルキはそう思い、人差し指で背表紙を押し下げ、本を抜き取って、パラパラとページをめくってみた。やっぱり何の変哲へんてつもない、見慣れたあたりまえの言葉が並んでいる。

 ふと、異物がまぎれ込んだように、斜めに走り書きされた文字が目をかすめた。ページを戻し、さっきのは何だ、と該当箇所を探すと、教えの文の余白にあった。

 『10を知れ』

 ストンと、教典から折りたたまれた紙が落ちた。

 二つ折りの紙を開くと、それは手紙だった。

『直哉へ 私は、あなたが好きです。でも、やっぱり、あなたの言っていることが理解できない。いつか、あなたと私の世界が同じになることを祈って。 敬虔けいけんなる信徒 尚美より』

 なんだろう、これ。

 ハルキは教典の最後のページを開き、右下を確認した。皆、そこに名前を書くからだ。そこには、松下直哉とあった。

 礼拝堂から続く廊下で、足音がした。咄嗟とっさに手紙を教典にはさみ、元の位置に押し込む。

「何してる、夕飯の支度だろう?」

 司教補佐様が、執務室の入口に立っていた。かろうじて、バレていないはずだ。

「司教ほ……司教様の、落とし物を届けに……」

 ハルキはデスクの上を目で示した。

「……そうか。用が済んだなら帰りなさい」

 ハルキは、逃げるように執務室を出た。そのまま食堂へ行こうかとも思ったが、いったん部屋に戻り、ベッドのマットレスの下に、カラスの羽を隠した。


 一年で両親と会える機会は限られている。

 大人用の宿舎はここから遠く、別の町にある。それに彼らは教会に尽くすことをちかった身。何よりもまず教会を優先するようにとの、教会最上位の司教様からの命令だ。

 だから、その司教様の誕生日は数少ない行事の一つで、父母と会えることに、皆朝から浮足立っていた。特別な日には帽子やネクタイで少しおめかしする。

 ハルキはこっそり、マットレスの下の羽を持ち、皆と礼拝堂へ行ってから、帽子を被って正面玄関の外へ出た。

 早くも、到着した子供達の親が、仮設テントを立て、食べ物を用意したり、ミニゲームを組み立てたりしていた。あちこちで歓声が上がり、空に色とりどりの風船が飛んでいく。

 ハルキは羽を帽子につけ、人混みの中、両親を探した。どんどん増える人をうように歩いていると、門の近くで、異質な集団が教会の大人達と言い争っている声が聞こえてきた。

「私達は取材に来ただけです! 話は通してあります!」

 輪の中心には、溌剌はつらつとした背の低い女性がいて、叫んでいる。

「出ていった人間が来ていいはずがないだろ!」

「お前が来るとは聞いていない!」

「帰れ尚美!」

 教会の人達が口々に叫ぶ。

 尚美……? どこかで――。あ……そうだ。手紙の人だ。

 尚美と数人の男達は、教会の大人達に追い出される形で、門の外に追いやられた。それでもりずに、隙間すきまからレンズを向けている。

 周囲に誰もいなくなったことを確認して、ハルキは素早く近づいた。どうしても聞いてみたいことがあった。

「ねえ、10を知れ、って何か知ってる?」

 奥のパーティーを、けわしい顔でにらみつけていた尚美は、突然現れたハルキに一瞬ぎょっとしたが、顔を見つめ返すと、「誰から聞いたの?」と小さな声で尋ねた。

「没収された教典に書いてあったんだ。持ち主は、確か、松下直哉……。お姉さん、手紙を書いたでしょ?」

「読んだの……? 悪い子ね」

「松下……直哉さんは?」

「彼は……もう、この世界にはいない」

 ハルキの、え。という声はかすれて、音にならなかった。尚美の顔は、吹きつける横風を受けた髪が隠してよく見えない。でも、眉と口元がゆがんでいる、気がした。

「1は、始まりの数字。0は、無限の可能性。10を知ることは、新しい世界を知ること……」

「え? ――世界は天命を伝えし司教様の言葉によって導かれる、この世界だけでしょ?」

 尚美は手で髪を押さえた。目を細めて薄く笑う。その両脇で、レンズをハルキに向けていた男達が尚美を心配そうに覗き込む。

「その羽飾り……」

 唐突に口を開くと、尚美はハルキの帽子を指さした。

「素敵ね。カラスは不吉だと言われるけれど、羽は知恵や変化のシンボルなのよ」

 尚美は、「またね」と、最後は支えられるようにして言うと、背を向けて去っていった。

 ハルキは、尚美が言ったことの意味を理解できぬまま、両親の姿を探しに戻った。

 くじ引きを用意中の大人達の中に、懐かしい姿を見つけて、「父さん、母さん!」と駆け寄った。

 父もハルキに気づき、困ったような、はにかんだような笑顔で迎えた。

 母は、ハルキを無言のまま、無表情でじっと見つめていた。

 父が、ポケットから小銭を出して、「遊んでおいで」とささやいたが、ハルキはブンブンと首を振って、両親の手伝いを買ってでた。周りには家族でテントを回り、はずんだ声でゲームをする子供も多かったが、ハルキ達三人は、ただ黙々と、『喧騒けんそう退しりぞけ、つつしみ深く、その日を聖なるものとせよ』という教会の命令に従った。

 お昼になり、休憩スペースのパラソルで母と休んでいると、父が三人分の焼きそばを買ってきてくれた。ただ一緒にいるだけで、辛い記憶が溶けていくようだった。

 ふと、「10を知れって言葉を知ってる?」と聞いてしまったのは、久しぶりに会えた両親を前にして、すっかり気がゆるんでしまったからだろう。

 それまで能面のように感情のない顔をしていた母の顔に赤みがさし、ガバっと立ち上がったかと思うと、肩をいからせ、怒号どごうを上げた。

けがらわしい、傲慢ごうまん未信者みしんじゃめ! お前のような者は地獄に落ちろ!」

 ハルキは、何が起きたのかわからず、呆然と母を見返していた。

 だが言われたことを反芻はんすうするうちに、全身が冷たくなって胸が激しくざわつき、喉がヒリヒリと痙攣けいれんしていくのを止められなかった。

「母さん、落ち着いてくれ」

 父は、周りの注目を一身に浴びる母を、覆い隠すようにして引きずっていった。

 その間、ハルキを振り向くことはしなかった。

 ハルキは、帽子の羽をもぎ取ると、握り潰して地面に捨てた。


「子供達が起きてくる前に消しなさい。事情を知られないよう、私が一人ずつ面談して、何か知っている子供がいないかさぐります」

 けがれた礼拝堂の壁をにらみ、ハルキはシスターに告げた。シスター達は血塗られた言葉から目を背け、逃げるように出ていった。

 ――お前は間違っている。

 顔の見えない犯人に、ハルキは胸の内で低く語りかける。

 ――ここを出たいなら勝手にしろ。だが、逃げても、生きている限り世界からは逃げられない。

 目をキッと細めたハルキは一人誓った。

 ――私は世界にひざまずく。最後まで――。

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イッツ・ア・スモール・ワールド 昼星石夢 @novelist00

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