第34話 誇りなき闘争

神は今度の生まれ落ちを急いで選んだ。先の人生で光を描ききれずに終わったばかりだというのに、神のなかには奇妙な衝動があった。どうやら、かの島国が再び騒乱に揺れようとしている気配が感じ取れたからだ。そこであえて、まだ幼い肉体の姿でその地に生まれ出ることにした。一介の平民の子供として誕生すれば、時代の荒波を間近で感じ取れると考えたのだ。あわただしい産声のあと、神がまばたきするように世界を見渡すと、外は猛烈な雪が吹き荒れ、白い大地に冷厳な闇が覆いかぶさっていた。


生まれてすぐは、母親の温かい胸に抱かれながら、そのころの島国に漂う不穏な空気を肌で感じ取る。しかし赤子の身では、多くの情報が耳に入ることはなかった。神はただ泣き声と母の子守唄のあいだを行き来しながら、体の成長を待つことしかできない。けれど意識の奥では、どうやらこの国が大きな転換期に突入していると理解していた。外の世界では、かつて武将たちが騎馬や刀で割拠していた時代から、帝を中心にした近代的な軍備の整備や欧州式の制度導入まで、怒涛のように変革が進んだ。しかしそれが安定に至る前に、また新たな内乱の影が蠢き始めたらしい。


幼い体とはいえ、神が少し成長して言葉や人の評判を聞き分けられるようになった頃のことだ。雪の降る時期だった。都合よく“君側の奸”と見なされた重臣たちが次々に軍の暴走によって殺害されている、という噂が村の広場を駆けめぐった。王宮や帝に近い立場の官僚たちが、「国を乱す者」「帝に仇なす反逆者」と一方的に名指しされ、ある晩に兵士の集団がその屋敷を急襲し、主や家族もろとも血祭りにあげた。実際には政権内の暗闘か、さらに上位の勢力が裏で糸を引くクーデターに近いものだったのだろうが、村の人々には正確なところはわからない。ただ恐怖だけがかろうじて伝わってきた。


その凶行を受けて、帝は激怒したという。前近代なら、君側の奸を討つことを“忠義”と見なす風潮があったはずだ。しかし今の帝は西洋式の軍備と政治システムをそこそこ導入した知的な人物で、そうした昔風の暴力的な手段を許さなかった。表向きには関係者を粛清し、事件を強制的に収束させようとした。そうしてしばしば訪れる外圧や国内の改革を一挙に処理する力を発揮してみせたのだが、どうも「かつての武将が誇ったような忠義」はそこにはもうなく、皮肉にも殺戮と権力争いの跡だけが残っているように見えた。


神は村の裏通りを歩きながら、住民たちの会話に耳を澄ます。若い頃なら、これほど肌寒い外気の中を自由に動き回ることも楽だったが、幼子の身体は体力が乏しく、すぐに息が切れてくる。外套をぎゅっと合わせてみると、真っ白な雪の降り積もる道の向こうで、何か物騒な噂話が交わされていた。都市部では、軍の青年将校が秘密結社のように集って理想論を唱え、国体を戻そうと躍起になっているとか、あるいは海外の協力を仰いで政体を一新しようと目論む集団がいるとか、さまざまな流言飛語が飛び交っていた。


そのどれにも武士の忠節や浪漫めいた英雄譚は感じられない。もっぱら権力の奪い合いと陰謀、上層部の都合による粛清ばかりが目につくようだった。神がかつて見たあの誇り高い武士道はもう存在しないのか。時代があまりにも早く動きすぎ、しかも外からの技術や思想が流入し、古い価値観を崩しきってしまったのだろうか。外面だけを新しくしても、中で渦巻く争いはより複雑になり、忠義や名誉は手段の一つに成り果てているのかもしれない。神は不思議と心寂しさに似た感慨を抱きながら、溶けかかった雪道を一歩ずつ踏みしめた。


そんな中、ある晩、神は夜風をしのぐために古いあばら屋に身を寄せていた。そこで何か不穏な気配を感じ、こっそり窓の隙間から外を覗いてみる。闇の中を足早に走る影が数人、農家の戸を破壊して押し入っていくのが見えた。軍の制服に似た装いに、どこか差異がある――遠目からはよくわからないが、髪型や振る舞いが正規軍とも異なる印象だった。もしかすると反乱分子か、独自の主張を抱えた青年将校か。いずれにしても静かな農村で夜襲をかけるには、それなりに目的があろう。戸を破壊された農家からは悲鳴が上がったが、それがすぐにかき消される。まもなく闇の一団は抜けるように逃げ去った後、薄雪の下に血の痕がにじんでいた。どうやら無関係な住民までも巻き込んだ凶行だったらしい。


「どんな理想や改革を標榜していても、結局はこうした暴力がまかり通ってしまうのか」

神の胸にひそかなため息が宿る。かつてなら「忠義」や「名誉」の名のもとに血を流す場面は多々あったが、いま見ているのはあまりにも身勝手な暴走に思える。上や下の区別もなく、ただ都合良く“君側の奸”や“国賊”と名づけた相手を撃ち殺す、あるいは民を虐げる――そこにかつての凛々しさや潔い武士道の面影は希薄で、あるのは欲望と利害のぶつかり合いだけ。それを見て、帝が激怒したとしても、もはやその帝を心から敬う忠義者など少ないのだろう。慣習で仕方なく従いこそすれど、本質は腐っている。


別の日の朝、村の小さな集会所に集まった人々が「そろそろ食い扶持が続かない」「どこかへ逃げるしかないのでは」と声を潜めて話していた。神は幼子らしく端のほうに座り込み、じっと耳を澄ます。話を聞けば、帝の取り巻きたちが地方統治を崩壊させ、各地で乱れが生じているらしい。元々の藩や領地の仕組みが解体され、新しい県制だの郡制だのが導入される一方で、中央の軍閥が実権を握ってしまい、地方は新たな“王様”たちの思惑によって動かされている。それに反発する一部の官僚や軍人が、勝手に粛清を繰り返しているという構図だ。どこを見ても「守るべき主君」や「奉じるべき理念」が霧散し、ただ権力闘争の亡霊ばかりが彷徨っているかのように思える。


かつてあの島には“七生まで同じ人間に生まれ、朝敵を滅す”という狂熱的な忠誠や、“武士としての誇りをもって散る”という潔い死が存在した。けれどいま、神が目の当たりにしているのは、それら美徳が一挙に瓦解してしまった後の廃墟のような光景だ。もう武士道の誓いは死語となり、帝も飾りに近い。軍部と政治家が入り乱れ、陰謀が蔓延り、地方では暴徒が跳梁する――それを「激動の時代」などと呼ぶのは簡単だが、神の感覚からすれば、かつての幻影と新しい混沌が最悪の形で融合しているようにしか見えない。


だからこそ、幼い神は冷え切った心で雪降る畑を見つめ、何が起きても不思議ではない状況を俯瞰するしかなかった。どこにも救いの言葉も、過去に美しかった忠義も見当たらない。新しい体制が生まれようとしているが、それはかつての輝かしい改革とは程遠い、計算ずくの冷厳な政治力に基づくものだ。崩れていく伝統と、歪んだ軍部の暴走――闇夜に散っていく命に、神は改めてやるせない思いを抱いた。夜の道端に溶けかけの雪が広がり、行き交う人は少ない。虚空を見上げれば、すでに星も隠れてしまっている。


こんなにも短い時の中で、島国の武士たちが誇った忠義という理念は形骸化し、かつての帝や封建体制は骨抜きになり、けれど完璧に新しいものはまだ育たずに混迷だけが膨らんでいる。それが人間という種族の歩む道なのか――儚くも、それゆえに観測の価値がある。神は夜空の底でかすかに微笑み、血と暗がりの匂いにまみれたこの混沌の世界も、またいつの日かきらめく光を見出すときが来るのでは、とかすかに願った。何せ人間とは、しぶとくも新しい形へ変化していく存在だからだ。


だが、当面はこの国が落ち着く見込みはない。帝がどれほど激怒して取り繕ったところで、暴走した軍閥の面々はそれを都合よく利用し、さらなる権力闘争を生むだろう。かつての“忠義”の旗に群がった武士たちの綺麗な散り際など、いまや夢幻のような古い物語でしかない。その現実がありありと目の前に広がるのを、神は幼児のまま震える足取りで感じ取っていた。もしかすると、このまま成長して大人になるころには、さらに巨大な戦やクーデターが起きているかもしれない。それをまた体感するのも一興だが、今はただ、この変わり果てた島国の姿に胸を痛めるしかない。

雪の舞う空気の中、微かな寂しさが頬をかすめた。神はうっすら閉じた瞼の裏に、かつての武士たちの雄姿や、海へ沈んだ帝、火薬で世界を変えようとした革命の残像を重ねながら、一人静かに息をついた。いずれ、ここにもまた別の光が差し込む日が来るのだろう。今はまだ、薄暗い雪の夜が続く。沈黙の絶望に覆われながら、それでも人間は細やかな希望を抱いているに違いない。いつか彼らが新たな形へ脱皮するときを、神はこうして幼い体でじっと待ち続けるのだ。まるで雪の底で、まだ芽を出さない種子のように。

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