第5話 耐え抜いた先へ
一面の白い氷原に覆われた地球を眺めながら、彼は不思議と落ち着いた気持ちでその変貌を受け止めていた。かつては青く潤んでいた海面や波打ち際のせせらぎが、いまは厳粛な冷気に包まれ、どこまでも続く氷の世界に変わってしまった。その荒涼たる光景は、近しい言葉でいえば「死の静寂」。実際、表層から見る限り、もはや生きものの影すら見当たらないように思える。しかし、彼の意識の眼差しは、その氷の下に隠された海の底へとするすると入り込み、わずかに残る命の気配を確かに感じ取っていた。
「まだ、ここにいるんだな……」
吹き荒ぶ風も凍りつく極寒の世界。その海底には、かつての多細胞化を成し遂げた生きものの子孫たちが、身を縮めるようにしてわずかな熱や栄養源を頼りに生き延びている。表面近くの海は完全に氷で覆われてしまったが、深い海底にはまだ地熱を発する熱水噴出口があり、そこを拠点に微生物や小さな動物もどきが粘り強く生存を続けていた。以前ほど豊かな多様性は見られないにせよ、細胞たちは厳しい環境下で独自の化学的な戦略を編み出し、ともかくも絶滅せずに済んでいるようだ。
彼は大陸の割れ目をのぞき込み、地下深くに潜むマグマの脈動を肌で感じた。いずれ火山活動が再び活発化し、この氷に覆われた世界を温めるときが来るのではないか。そう思った矢先、地表のあちこちでわずかながら熱いガスの噴出が始まり、やがて大規模な火山の連鎖的噴火へとつながっていった。広大な氷原を溶かし、大気を揺るがすほどのエネルギーが立ちのぼり、その結果として大気中の二酸化炭素の量が再び増大する。赤い溶岩の流れが白い氷を穿ち、湯気と気泡の乱舞となって空へと立ち昇っていく様は、まるで眠りに落ちた星が再び息を吹き返す儀式のようでもあった。
やがて、地球はゆっくりと氷の眠りから目覚める。長い冬が終わりを告げ、海洋表層部にも光が届くようになってくると、深海に避難していた生きものたちの一部が再び海の上層へと進出し始めた。かつて夢見た豊かな多細胞生物の世界が、ここからもう一度始まるかもしれない――彼はそんな期待を抱きながら、その動きを温かい目で見守り続ける。
新生した海には、以前にはなかったほどのミネラルや微量元素が溶け込み、活発な火山活動が大気の組成を変え続けていた。太陽の光がたっぷりと注がれる海上には、無数の微生物が爆発的に増殖し、それに伴って海水の化学バランスが少しずつ変化していく。ときどき思い立ったように、彼は大陸の端を眺めては、その歪みに込められた地殻変動の予兆を探ってみたりもした。手を出すつもりはないが、地殻の動向次第では今後さらに大きな変化が待ち受けているはずだ。
そうした変動の連鎖の果てに、やがてアヴァロンの爆発と呼ぶべき事象が起こった。海底や浅瀬の堆積物をそっとのぞいてみると、これまで見たことのない多様な生物の痕跡が至るところに散らばっている。薄い体をもち、海底を這うようにして暮らすものや、ややふわふわと浮遊しながら触手らしき器官を伸ばすものもいる。生命の系統図を繋げてみても、その分類が難しい奇妙な形状の生きものが多数出現していて、あたかも大地の胎動に呼応するように、生命も一挙に拡大したようなのだ。
彼の視線はその混沌とした生物世界に吸い寄せられていった。とりわけ、刺胞動物たち――触手の内側に毒針や発光細胞を持つクラゲやイソギンチャクの祖先にあたる存在が、海中で漂う姿は、幻惑的な舞踏を見ているかのように美しかった。触手をそっと揺らしながらプランクトンを捕らえ、あるいは海底に脚のような器官を固定してひたすら周囲の水流を待ち受けている。自立的に泳ぐものもいれば、底生生活に適応して棲みつくものもいる。この群れが光の加減で虹色に変わる瞬間は、まるで夜空を漂う星屑のようでもあった。
一方、節足動物の仲間は、刺胞動物よりもはるかに機敏な動きを見せた。小さな甲殻のような外骨格を持ち、細かな脚を素早く動かして海底を横切ったり、水中をかいくぐるように泳ぎ回ったりする。その多様性は目を見張るものがあり、甲殻が節に分かれて器官ごとに機能を細分化した種類があれば、肢の先を刃のように鋭く変化させて獲物を仕留めるタイプも出てきた。何十億年も前には想像すらできなかったような多彩な体の使い方を、それぞれの生物が試みているかのようだ。
「こんなにも多様性が一気に花開くなんて……」
彼はその光景を前にしばし心を奪われた。すでに氷に閉ざされた時代は遠く、火山の爆発を経て蘇ったこの世界は、ただ生き延びるだけでなく、新しい形態の生命が争い、協力し、環境に適応しようと躍起になっている。彼にとって、これほどの「騒がしさ」は初めてだった。まるで生きものたち自身が、世界に対して意志をぶつけ合い、個性を発揮しようと必死になっているかのように見える。
とくに刺激的だったのは、刺胞動物と節足動物の行動様式の違いだった。刺胞動物は触手を広げて待ちの姿勢で獲物を捕らえることが多く、その毒の威力や身体のしなやかさを武器にしている。一方、節足動物は分節化した脚を素早く動かし、積極的に獲物を探しに行く。中には、自分の体を岩陰に隠すようにしながら、獲物が通りかかった瞬間に飛びかかる攻撃的な種類も見られた。小さな捕食者たちが、海底のすみずみまで探検するさまは、見ていて飽きることがない。
「生命の進化は本当に面白い。どこからこんなアイデアを引き出してくるんだろう」
彼は胸の奥で小さく笑みをこぼした。つい最近まで、地球は氷に閉ざされ死の星のようにも見えた。だが、その白い眠りの下で耐え抜いた者たちは、再び与えられたチャンスを決して無駄にしなかった。細胞や遺伝子の中には、過去のいくつもの試みや失敗が刻み込まれ、その記憶の上に立って新たな形態を模索している。全能の力で一瞬に世界を作り替えるのではなく、こうして自然と時間に任せてみると、予想もしなかったドラマが展開していくのだから、おそらく彼自身にも発想できないような未来があるに違いない。
目を凝らせば、海底の軟泥をはう節足動物が、刺胞動物の毒針を避けるために甲殻の一部を変形させる場面が見られた。運よく捕食を免れたその個体が、さらに世代を重ねていけば、特定の捕食者に対して有利な体構造を発達させるかもしれない。一方で、刺胞動物も多様な毒素や攻撃方法を編み出し、より獲物を仕留めやすい姿へと変わっていくだろう。そうした競い合いが、何万年、何百万年という時間の中で繰り返されれば、生命の姿はさらに壮麗なものへと変貌していくはずだ。
「先が楽しみだな」
神にも等しい視点でありながら、彼はただその変化を遠巻きに見つめ、心ゆくまで堪能している。もし、生きものの多様化が再び滞ったり、世界が何らかの危機に見舞われたときには、ほんの少し介入することもあるかもしれない。だが今はただ、この旺盛なエネルギーに満ちた生存競争が織りなす光景を見守るだけで充分だった。かつて凍りついた海に閉じ込められた小さな命の火種が、今こうして嵐のように弾けている。それがあまりにも美しく、まばゆいのだ。
氷河期から抜け出し、アヴァロンの爆発を経て混沌とした生命の舞踏が始まった地球。その海中で繰り広げられる新しい物語に、彼は静かに耳を澄ませ続ける。刺胞動物の触手や節足動物の甲殻が水の中を激しく揺れ、世界がにぎやかな息遣いを取り戻しはじめた。この星の、そして生命の歴史にまたひとつ目立つ足跡が刻まれようとしている。かつてそれを予測した者などいなかったが、いま目の前には確かな現実として広がっている。彼の目には、そのどこまでも広がる可能性が輝いて見えた。
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