第7話

3月5日(土曜日)、青白い光が差し込む夜明けの頃、冬心の祖母・椿知加子はキムチチャーハンを丁寧に作っていた。白いテーブルの上に置かれた小さなラジオからは、彼女の大好きな桂銀淑の「雀の涙」が静かに流れている。6時になると、冬心が部屋から姿を現した。


「おはよう、おばあさん。うん、いい匂い……わぁ、キムチチャーハンだ!」


「ええ、出発前に冬心の大好きなキムチチャーハンでお祝いしたくてね。早く顔を洗ってらっしゃい」


冬心の交換留学が決まってからの3日間は、手続きや準備で慌ただしく過ぎていった。高校2年のとき、イギリスへの修学旅行のために取得していたパスポートを使い、フランスの学生ビザも難なく手に入れることができた。


愛子とは学校で挨拶を交わし、他の知人にはLINEで連絡を済ませた。ピース大学付属病院を訪れて鈴木先生に挨拶し、念のため発情期の抑制剤も受け取った。鈴木先生は「パリはまだ寒いから」と言って、バーガンディー色のロングダウンジャケットをプレゼントしてくれた。別れ際には、冬心をしっかりと抱きしめてくれた。


学長にも挨拶に伺うと、白い封筒を手渡された。冬心はすでにブーゴー新人作家賞で30,000ユーロ(約500万円)を受け取っていたため、「お気持ちだけで十分です」と丁寧に辞退しようとした。しかし学長は、「これは日本の未来を担う人材への応援です。気軽に受け取ってください」と言って譲らなかった。


冬心は感謝の気持ちを込めて、封筒を受け取るしかなかった。中には100万円が入っており、冬心は「必ず恩返しをしよう」と心に誓った。


銀河水公営アパートの周辺には、早朝から複数の記者たちが集まっていた。8時頃、ジャンダ教授が冬心の大きなキャリーバッグを車のトランクに積み込み、10時30分発のパリ行きに合わせて羽田空港へと出発する。


記者たちは次々と質問を投げかけながら、カメラのシャッターを絶え間なく切っていた。冬心は大きなマスクで顔を覆っていたため表情は読み取れなかったが、記者たちは去っていく彼の姿を必死にレンズに収めようとしていた。


花見月の空は澄み渡り、春の暖かな空気に包まれて、あちこちで咲き誇る桜がその美しさを誇らしげに披露している。穏やかな木漏れ日の朝だった。


羽田空港は、さまざまな事情を抱え、未知の世界へ夢と挑戦を胸に旅立つ人々で賑わっていた。搭乗手続きを終えた冬心と祖母、そしてジャンダ教授は、出発口へと足を進める。


記者たちはここまで同行しており、その様子に人々がいつの間にか集まってきていた。時計の針が10時を指し、いよいよ冬心との別れの時が訪れる。


祖母は、別れがこの上なく悲しいことだと感じながらも、冬心の夢のためには笑顔で送り出すべきだと心を決め、優しく抱きしめた。ジャンダ教授も冬心を抱きしめ、背中をそっと撫でて励ましてくれた。


冬心は手を振りながら、人々が並ぶ列の中へと入っていく。その小さな姿が見えなくなるまで、祖母とジャンダ教授は手を振り続けた。


胸に込み上げる寂しさと悲しみで涙がこぼれそうになった冬心だったが、すぐに気持ちを切り替え、エールフランス便へと乗り込んだ。


学長の計らいでファーストクラスに搭乗した冬心は、高級で美味な機内食を味わいながら、ゆったりとした空間で詩を綴り、長い空の旅を楽しんだ。12時間のフライトを経て、現地時間の午後3時30分(日本時間では午後10時30分)、冬心の新たな人生のページが静かに開かれた。


入国審査の際、審査官は冬心の顔を見て笑顔を浮かべ、声をかけてきた。


「ブーゴー新人作家賞を受賞された椿さんですね。おめでとうございます。パリへようこそ!」


「ありがとうございます」


冬心も笑顔で元気よく応じた。荷物を受け取った後、税関を通過し、胸を高鳴らせながら出口へと向かう。パリのシャルル・ド・ゴール国際空港は人で溢れ、賑わっていた。


冬心は周囲を見回しながら、ジャンダ教授の妹・ソフィアさんの姿を探す。すると、何人かの記者たちが待ち構えていた。バーガンディー色のロングダウンジャケットが目立っていたため、マスクで顔を隠していても冬心の正体はすぐに知られてしまった。記者たちが一斉に駆け寄ってくるのを見て、冬心は不安を覚える。


その時だった。背が高く、ブロンドのショートヘアにエメラルドブルーの瞳を輝かせた美しい女性が、子どもを3人連れてこちらへ歩いてくるのが見えた。その姿はジャンダ教授を思わせる雰囲気があり、冬心は直感的に「ソフィアさんだ」と確信した。


「ソフィアさんですね。初めまして。ジャンダ教授の弟子、椿冬心と申します」


冬心はマスクを外し、にこやかに微笑んだ。


「初めまして。ジャンダ教授の妹、ソフィア・ローゼです。フランス語がお上手ですね。長旅、お疲れさまでした。こちらは双子の息子、ジェラールとマクソンス。そして、足にしがみついているのが末っ子のミレイユです。空港は混雑しているので、早く出ましょう」


「よろしくお願いします。ジェラール、マクソンス、ミレイユ、これからどうぞよろしくね」


冬心は、親切なソフィアさんと可愛らしい子どもたちに癒やされ、ほっとした気持ちで駐車場へ向かった。車窓から見えるパリの灰色の空は低くどんよりしていて、憂愁に浸っていた。東京よりも冷え込んでいたが、鈴木先生から贈られたバーガンディー色のロングダウンジャケットのおかげで体は暖かく、自然と感謝の気持ちがこみ上げてきた。


冬心は、ミレイユの幼稚園での出来事を楽しそうに聞きながら、シャンゼリゼ通りの風景を眺めた。


冬心を乗せたフォルクスワーゲン・シャランは、パリ17区の高級住宅街に佇む、大理石造りのオスマン様式の邸宅へと到着した。ここから、冬心の新しい物語が静かに紡がれ始める。


彼の部屋は邸宅の3階にあり、白と青を基調とした優雅な空間だった。白い大きなアンティークベッドに、ネイビーのアンティークデスクと本棚。部屋の中央には、青のメダリオンベルサイユカーペットが敷かれ、その上にはサファイアブルーの一人掛けソファが二脚、大理石風の丸いテーブルが置かれていた。


東南向きのフランス窓には、瑠璃色のベルベットドレープカーテンが掛けられ、エレガントな雰囲気を醸し出している。


部屋をひと目で気に入った冬心は、フランス窓から流れ込む新鮮な空気を味わいながら、机の上に本を並べ始めた。


3月7日(月曜日)の朝、冬心は胸を高鳴らせながら、17区のソレイユ通りを鼻歌まじりに楽しく歩いていた。今日はフランスロイヤル大学への初登校日で、アーラン教授との面談とフランス文学に関するテストが予定されている。


通常なら2年生の講義から受けられるが、冬心はブーゴー新人作家賞の受賞者であり、フランス語にも堪能なため、特別にこのテストによって学年が決定されることになっていた。ソレイユ通りには、オスマン様式の建物をリフォームして暮らす人々が多く、咲き誇るモクレンの花々がその美しい街並みに彩りを添えていた。


3月13日、日曜日。

ピース梅岡ホテルでは、最高裁判所長官の一人娘・小泉京香(25歳)と、ピースグループ常務・宇宙天命(31歳)のラグジュアリーな婚約式が盛大に執り行われていた。政財界の著名人たちが一堂に会し、華やかなパーティーに彩りを添えている。


古典柄の華やかな振袖をまとった京香と、凛々しい袴姿の天命は、この洗練された空間にふさわしい美男美女のカップルだ。


そんな二人を微笑ましく見守る祖父・宇宙太陽は、天命が密かに想いを寄せていた冬心のことで、当初はこの婚約に不安を抱いていた。しかし、賢明な天命が家の意向に従い、今日という佳き日を迎えたことに、太陽は心から安堵し、喜びを噛みしめていた。


3月5日、冬心のパリ行きが決まったことで、天命は一時途方に暮れ、茫然自失の状態に陥った。しかしすぐに現実を見据え、気持ちを切り替えた。新たな宇宙計画には莫大な資金が必要であり、小泉家との連携は大きな利益をもたらすはずだ。


天命は、感情に流されるロマンティストではなく、常に冷静で建設的な企業家である。それでも、冬心の安全な留学生活を案じ、現地にガードを二人雇い、陰ながら彼を見守ることにした。その想いを表に出すことはなく、ただ静かに、全力で支え続けていた。


4月のある午後、燦々と降り注ぐ日差しが蕾や若葉を華やかに揺らす中、ジャンダ教授は冬心から届いたLINEメッセージを眺めていた。冬心はフランス文学のテストで優秀な成績を収め、4年生の授業を受けることが認められていた。


アーラン教授は冬心の才能を高く評価し、大学院への飛び級進学を希望していた。しかし、前例のないケースだったため、教授陣による慎重な協議が行われ、その結果、まずは4年生として論文を提出し、2学期から大学院に進学することが決定された。


ジャンダ教授は、冬心の生活や勉強の様子を綴ったメッセージとともに送られてくる、ジェラール、マクソンス、ミレイユとの写真に、いつも心癒されるような幸せを感じていた。パリはまだ日本ほど暖かくはないようで、写真の中の冬心はコートやダウンジャケットを着ていた。彼はソフィア一家と仲良く過ごしており、穏やかな日々を送っている。


かつて冬心を追い回していたパパラッチの取材や撮影は、フランスの「形質者自由意志法」によって厳しく規制されているため、彼が安全に暮らせることにジャンダ教授も安堵していた。


ジャンダ教授は忙しい日々の中でも、ほぼ毎日、星空町に住む冬心の祖母を訪ねて車を走らせている。祖母も、毎日のように顔を見せてくれるジャンダ教授をとても気に入っており、お茶を淹れて語らったり、日曜日には一緒に昼食を作って食べたりするほど親しい間柄になっていた。


4月下旬になり、春らしい暖かな日が少しずつ増えてきたとはいえ、パリは東京よりもまだ肌寒く、日中の気温は15度から19度ほど。冬心はフランス映画論の授業のため、シャンゼリゼ通りにあるパラディ・シネマを訪れていた。


少し早く着いたので、映画館のポスターを眺めながら、友人のエミリを待っている。 エミリはフランス文学科の4年生でベータ性の学生。冬心とは、フランス美術論や現代フランス社会論、舞台芸術論などを一緒に受講するうちに親しくなった。


光悦茶色のセミボブヘアに175センチの長身が映えるエミリは、イヴ・サンローランの赤いツイードのハーフコートをお洒落に着こなし、背が高くてハンサムな男性とともに姿を現した。その男性は、エミリと同じ光悦茶色のショートヘアに、錆利休色の優しい瞳を持つ彼女の二卵性双子の弟、ジャンだった。冬心はこれまで写真でしか見たことがなかったジャンと、今回が初めての対面だった。


「こんにちは、冬心。いっぱい待たせちゃって、ごめんね」 エミリが少し慌てた様子で声をかけた。


「ううん、私も少し前に着いたばかり。映画のポスターを見ながら待ってたから、気にしないで」 冬心は笑顔でそう答えた。


「それならよかった。あ、紹介するね。こっちが私の双子の弟、ジャン。冬心と『美しき青春(La belle jeunesse)』を観るって言ったら、自分も観たいってついてきたの。ジャン、挨拶して。いつも話してた冬心だよ」


199センチの長身とは対照的に、ジャンは可愛らしい笑顔と人懐っこい雰囲気で、先に挨拶をした。


「はじめまして、ジャン・ロレンスです。天文学を専攻していて、冬心さんのこと、前から気になってて……こうして直接お会いできて嬉しいです。 それと、『黒と白(Noir et Blanc)』、読ませてもらいました。すごく良かったです。中世の空気感が繊細に描かれていて、文章も綺麗で……発売日に早朝から本屋で並んで手に取ったんですよ。 受賞、本当におめでとうございます」


「ありがとうございます。そんなふうに言っていただけるなんて……恐縮です」 冬心は照れくさそうに微笑み、頬をほんのり赤らめた。


「ほんとに面白い作品だったよ。高校生のときに書いたって聞いて、びっくりした。さすがだね。それに……すごく綺麗な人だなって思った。 俺、ベータだからフェロモンの影響は気にしなくて平気なんだ。フランスって、形質者の尊厳を守る法律がしっかりしてるから、暮らしやすいと思うよ。 もう、パリの生活には慣れた?」


ジャンは優しい笑顔を絶やさず、穏やかな口調で話した。


「はい、おかげさまで、もうすっかり慣れました。街並みも美しくて、人も親切で、とても住みやすいです。それに、形質者特例の厳しい法律のおかげで、パパラッチやストーカーに悩まされることもなく、安心して散歩を楽しめています」


二人の和やかな会話に、エミリが笑顔で割って入った。


「はいはい、挨拶はこのくらいにして、そろそろ映画観ないと。予約は済ませてあるから、早く入ろうよ!」


三人は人の波に紛れながら、上映館の入り口へと足を運んだ。1時間40分の映画が終わると、彼らはフレンチの名店『ル・トラン・ブルー』へ向かった。エミリが事前に予約してくれていたおかげで、すぐに席に案内された。


バロック調のインテリアはまさに豪華絢爛で、天井や壁にはパリからマルセイユまでの風景を描いた数々の絵画が飾られ、圧倒されるほどの美しさだった。三人は、地鶏の胸肉をイエローワインで風味づけしたメインに、西洋ごぼうやキクイモ、小玉ねぎのソテーが添えられたランチコースを味わいながら、優雅な午後のひとときを楽しんだ。


ジャンは映画や小説、音楽などに幅広い知識を持ち、面白い話を次々と披露してくれた。冬心は1歳年上のジャンと話がとても合い、午後3時になるまで、時間がせせらぎのように静かに流れていくのにまったく気づかなかった。


ジャンは、絶滅危惧種の天才的な極優性オメガである冬心が、驚くほど謙虚で純粋な人柄であることに心を打たれ、ますます惹かれていった。最初は、美しい容姿から少し気位の高いタイプかもしれないと想像していたが、素直な笑顔と細やかな気遣いに触れ、心から好意を抱き、真剣に付き合いたいと思うようになった。


楽しい食事を終え、会計の際にジャンが冬心の分まで先に支払ってしまった。冬心は「自分の分は自分で払えます」と言って譲らなかったが、ジャンは笑顔で「じゃあ、コーヒーでも飲みに行こう」とカフェへ誘った。


三人はバスティーユ駅近くのヴォージュ広場まで歩き、パビヨン・デ・ラ・レインに入った。まだ午後3時半頃だったが、店内はすでに満席。ジャンは「ここのコーヒーは本当に美味しいから、ぜひ冬心にも味わってほしい」と強く勧めたため、三人は席の予約だけ済ませて、隣にある独立書店メルシへ立ち寄ることにした。


ジャンは冬心を写真集コーナーへ案内し、興味深そうに解説を始めた。


「ティアン・ドアン・ナ・チャンパサックは、時代を超越したダダイズム的なメッセージを持っていて、 シャルル・フレジェは自然との不思議な調和を巧みに描いているんだ。ソフィ・カルは、まるで反抗的な哲学者のような視点で作品を構成していて、 ティエリー・ル・ゴウは彼ならではの冷静で陰のある存在感を伝えているよ。そして、このドロシー・スミスは、暗い岩や虚ろな空、淡い雲、くすんだ風景を、儚く消えそうなロマンチックなイメージで表現している。……うん、これにしようか」


そう言ってジャンは、ドロシー・スミスの写真集『Loyly』を手に取り、冬心をミステリー本コーナーへと連れて行った。 二人はミステリー作品の魅力について、互いの視点を交えながら楽しく語り合った。


「現代フランスミステリー界で注目されてる作家といえば、やっぱりミシェル・ビッシだね。『黒い睡蓮』でルブラン賞やフロベール賞を受賞していて、特に人間の醜い本性をえぐるような辛辣な描写が魅力的なんだ。それから、このジョルジュ・シグレの警視シリーズも超有名。アメリカ探偵作家クラブの巨匠賞を受賞してるし、トリックやどんでん返しが本当に面白い。主人公がズバズバ物を言うタイプで、読んでてスカッとするよ」


「そうですね。私も読みましたけど、すごく読み応えがあって面白かったです」


大きなマスクをつけ、バーバリーのベージュのトレンチコートをお洒落に着こなした冬心は、にこやかに答えた。


「じゃあ、これはどう? 17日に出たばかりの新作、『ベルナルの意図的な死(Mort intentionnelle)』。 この作家は構成の妙がすごくて、隠された意図を読み解くのが楽しいんだ。それに、時代の風潮を冷静に皮肉るような論理展開も見事でさ。……うん、これにしよう」


ジャンは『ベルナルの意図的な死(Mort intentionnelle)』を2冊手に取った。ちょうどその時、エミリが近づいてきて、「パビヨン・デ・ラ・レインの席が空いたって。今すぐ来てって電話があったの」と伝えた。ジャンは3冊の本を持ってカウンターへ向かい、会計を済ませると、ドロシー・スミスの写真集『Loyly』と『ベルナルの意図的な死』が入ったピンク色のメルシの袋を冬心に差し出した。


「これ、プレゼント。気持ちよく受け取ってくれたら嬉しいな」


ジャンの言葉に、冬心は一瞬ためらいながらも袋を見つめた。


「そんなにもらったら、申し訳ないです……」


ランチまでご馳走になったうえに本まで贈られるなんて、厚かましいと思われるのではと、冬心は恐縮していた。


「大丈夫。俺の分も1冊買ったし。そんなに気になるなら……これからも俺とデートしてくれたらいいよ」


「なにそれ、もう二人脈ありじゃん。ズルい~」


エミリが口を尖らせながら、からかうように言った。


「違うよ。ジャンが優しくしてくれてるから……感謝してるだけ」


冬心は恥ずかしそうに慌てて言い返した。


「ふん、人の恋愛には興味ないから安心して。そろそろルカスも来るし。冬心、私の彼氏ルカスも同席するけど、いい?」


「もちろん、いいよ」


冬心は以前、17区のソレイユ通りにあるモンソー公園を散歩していたとき、デート中のエミリとルカスに偶然出会い、ルカスにランチをご馳走になったことがあった。 ルカスはとてもハンサムでユーモアのある人で、冬心は彼らと一緒に楽しい時間を過ごした。 エミリとルカスは、交際4年目の仲睦まじいカップルだ。


三人は足早にパビヨン・デ・ラ・レインへと入った。カプチーノ3つとアーモンドクロワッサン3つを注文していると、スラリとした体型にお洒落なスリーピーススーツをまとったルカスが現れた。ルカスは26歳で、フランスロイヤル大学付属病院の小児科で研修医をしている。4人は映画『美しき青春(La belle jeunesse)』について語り合いながら、穏やかで充実したひとときを過ごした。


夜6時になり、そろそろ夕食のために場所を移そうというルカスの提案に、ジャンも「いいね」と頷いた。冬心はすっと席を立ち、通りかかったウェイターを呼び止めてカードを渡し、カプチーノ4つとアーモンドクロワッサン4つの会計を済ませた。


ルカスは年長として自分が支払いたかったようで、「ありがとう」と笑顔で伝える。 エミリもジャンも「ごちそうさま」と声をかけ、冬心は「いつもお世話になっているから、今回くらいは恩返しできてよかった」と、心から嬉しく思った。


ルカスは複数の一押しレストランに電話をかけてみたが、やはり予約していなかったため空席が見つからず、断念した。その代わりに、16区のパッシー通りにある自分のアパートでディナーを作って食べようと提案し、皆は満場一致で賛成した。4人はルカスのワインカラーのプジョーに乗り込み、パッシー通りのローゼ・デパートへ向かった。


地下の食品売り場で野菜やベーコンなどを購入し、ルカスのアパートへと向かう。築150年以上の歴史を持つルテシアン石灰岩で造られた、オスマニアン様式の6階建て高級アパートは、広々としたベッドルームが2つあり、壁や天井の装飾も美しく、ヘリンボーン柄のフローリングが上品なアンティーク調の空間を演出していた。


ルカスとジャンがステーキを焼き、エミリと冬心はポモドーロパスタと韓国風の野菜チヂミを作った。4人掛けのテーブルには、華やかなディナーが美しく並べられた。赤ワインを片手に味わうステーキとポモドーロ、そして野菜チヂミは、どれも絶品だった。


ルカスは、2年前にエミリと訪れた韓国旅行の醍醐味を熱く語り、ジャンは昨年の沖縄旅行の楽しい思い出を生き生きと話した。4人の間には笑いが絶えず、心温まるひとときが流れていた。


夜10時になり、冬心が「そろそろ帰る時間だね」と言い出した。エミリはルカスの家に泊まる予定だったため、ジャンが冬心を家まで送ることになった。エミリとルカスに挨拶をして、ジャンと冬心は澄んだ冷たい夜気に包まれながら、パッシー駅まで並んで歩いた。道すがら、学校生活や趣味について語り合う。


ジャンはアウトドアが好きで、乗馬、ゴルフ、サーフィンを楽しんでいるという。もちろん、読書や映画鑑賞は「基本の趣味だよ」と笑って付け加えた。 そして、夏休みのバカンスには、冬心を自分の別荘があるコート・ダジュールへ連れて行きたいと話した。


冬心は、自分の歩調に合わせて歩きながら、話のテンポまで合わせてくれるジャンの優しさに触れ、「本当にいい人だな」と思いながら、心がふわふわと舞い上がっていた。ジャンは、大学院進学に向けて取り組んでいるアトランセン恒星に関する論文について熱く語り、冬心はその情熱に惹かれ、恍惚とした表情で耳を傾けていた。そしてジャンは、薄い銀色の月光に照らされた冬心の美しい横顔を見つめながら、胸の奥で高鳴る熱い感情に囚われていた。


夜が深まりゆく中、審美的な月光に照らされた二人の影は、まるで調和するように美しく揺れていた。青春の愛染が感じられるパリの鉄紺色の夜空には、輝く流れ星のシャワーが舞い、煌々と輝く流星群リリデスが空を照らしていた。その光の中で、美しい二人の影は静かに、優しく抱き合っていた。



























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