第4話

慌ただしい日々が、北風のように慌ただしく過ぎ去り、大晦日になった。ピースデパートもピース書店も、大晦日と元日の二日間は休みだ。


冬心はいつも通り、朝6時に起きて、一昨日買っておいた野菜を取り出し、さっと野菜炒めと味噌汁を作った。


冬心がまだ幼かった頃、祖母は特別養護老人ホームの調理室で働いていて、毎朝5時に起きて家を出ていた。


その影響で、今でも祖母には早寝早起きの習慣が残っている。冬心はそんな祖母に合わせて、朝ご飯を早く準備するようになった。


スマホでフランス語のニュースを聞きながら、冬心は手際よく朝食を作っていた。語学に優れた冬心は、2学期の始めにジャンダ教授からフランスへの交換留学を勧められたことがある。だが、祖母のことが心配で、「来年考えます」と言って丁寧に断った。


フランス人のジャンダ教授は、ひんやりとした北風に吹かれながらピース大学へと向かった。大晦日で静まり返った校庭とは対照的に、図書館は勉強熱心な学生たちで満席だった。


49歳の独身。

ジャンダ教授はフランス・ロイヤル大学を卒業後、ピース大学大学院で古代文芸コースの博士号を取得し、以来、長年にわたってフランス語の作文と文学を教えている。


世界中から優秀な学生が集まる仏文学科の1年生50人の中で、冬心の並外れた才能は、開講から1か月も経たないうちに教授陣や学生たちを驚かせた。


冬心が成績優秀者奨学金を受け、首席で入学したという噂は、すでに教授たちの間で広まっており、学期の初めから注目の的だった。やがて誰もが「やはり只者ではない」と強く感心するようになった。


それで、ジャンダ教授は冬心の才能を確認したくて、冬心だけに、昨年フランスの文壇で話題になった『フランス歴史の理屈論』を渡し、読んで感想文を書いてくるように頼んだ。


冬心は二日後、A4用紙30枚分の感想文を書いてきたので、ジャンダ教授は肝を潰した。1000ページの長文を、どうやってそんなに早く消化したのか疑問だった。ジャンダ教授は丁寧に冬心の感想文を読み、その鋭い思考力と博識に深く感銘を受けた。


ジャンダ教授は、フランスロイヤル大学の恩師であるアーラン教授に、冬心の感想文をスキャンして送った。


一週間後、アーラン教授から、「フランスで最も難解と言われる『ベルメルドンの百年の孤独な戦争』を冬心に読ませ、批評を聞いてみたい」とのメールが届いた。


ジャンダ教授は冬心を呼び出し、五冊にわたる長編『百年の孤独な戦争』を手渡して、「この本を読んで感想を書いてくれるか」と訊ねた。


すると冬心は目を丸くして、「この本、高校のときにすでに読みました」と言った。


ジャンダ教授は、成人のフランス人ですら読みこなすのが難しいこの本を、日本人の高校生がどうやって理解したのかと、またしても驚いた。


さらに冬心は、「バイトまで少し時間があるので、今から図書館に行って感想を書いてきます」と言った。


そして1時間後、冬心は37ページにも及ぶ立派な感想文を持って戻ってきた。


ジャンダ教授は、冬心の感想文をすぐに読み、フランスロイヤル大学のアーラン教授にメールで送った。


それから3週間後、アーラン教授から電話がかかってきた。 彼は、フランスのテレビ番組『文学と散策』に出演した際、冬心の批評を紹介したところ、予想以上の反響があったと語った。


「ぜひ、冬心にフランスロイヤル大学へ来てもらい、一緒に討論したい」とも申し出た。


そこで、通常は2年生から申請可能な交換留学制度を、特例として1年生の冬心にだけ斡旋することになった。


しかし冬心は、「家庭の事情があるので、今回は辞退します」と静かに断ったのだった。


さらに、冬心から「小学生の頃から詩や小説を書いており、フランス語で書いた小説もある」と聞いたジャンダ教授は、ぜひ読ませてほしいと頼んだ。


冬心が高校1年生のときに書いたというその小説は、ジャンダ教授の感性と知性を心の底から打ち震わせた。


題名は『noir et blanc(黒と白)』。


中世ヨーロッパの時代背景と恋愛を描いた物語で、その分量はなんと2000ページにも及んだ。


ジャンダ教授は冬心を説得し、8月のフランス・ブーゴー新人作家コンテストに彼の作品を応募した。このコンテストはフランス国内にとどまらず、世界的にも有名で、フランス文壇への登竜門として知られている。


結果発表は来年の2月26日。

詩人ブーゴーの誕生日に行われる予定だ。


冷たい北風がやみ、きらきらと躍る光の粒子が、シルクのスカーフのように空気をやわらかく包み込み、穏やかな冬の風景を醸し出している。開け放たれた大きな窓からは、アオジの澄んだ鳴き声が心地よく響いてくる。


ジャンダ教授は冬心の期末作文テストを精読し、胸が熱くなった。5年前、恋人だったパイロットのポールを事故で亡くして以来、無味乾燥な日々を過ごしていたが、今年冬心に出会い、久しぶりに胸が高鳴るのを感じた。冬心は、教授が長年探し続けていた『本物の弟子』にしたいと思える学生だった。


本と書類で山積みになった机の上に置かれた写真の中で、パイロットの制服を着て笑うポールが、差し込む光のレースに照らされて美しく輝いていた。


元日、新しい年を迎え、世の中は希望に満ちた人々の朗らかなエネルギーであふれている。冬心と祖母は朝食を済ませ、歩いて15分ほどの星空神社へ初詣に出かけた。


星空神社は、日本初のオメガだった天金星大御神あまがなほしおおみかみを祀る、日本最古の神社である。縄文時代に建立されたという記録が『日本時代史』に残っている。


すでに神社は参拝者で賑わい、境内は人波であふれていた。祖母と冬心は新年の祈りを捧げたあと、心地よい冬の空気のなか、星空町をのんびりと散歩した。


天命は朝早く、会長である祖父、宇宙太陽を筆頭に、ピースグループの役員たちとともに月道神社へ初詣に出かけた。その後、祖父の邸宅に親族が集まり、全員で朝食を取った。


インテリジェントで品格ある人々ばかりであるため、食事のマナーには厳格な作法が求められる。


「天命、京香とはいつ婚約するの?」


贅沢な食材が詰め込まれた豪華なお節料理を囲み、皆は静かに食事をしていた。その沈黙を破ったのは、上品な着物をまとった叔母だった。彼女はそっと口を開き、落ち着いた声で尋ねた。


「春過ぎがいいと思います」


天命の婚約話をきっかけに、食卓の空気は一気に熱を帯び、話題は次第に盛り上がっていった。


「そうだ、4月くらいがいいじゃないか」


口数の少ない叔父も話に加わった。


「少し、付き合ってみたいです」


「付き合う時間って必要? お互い知り尽くしてるんだから、早く結婚すればいいじゃない」


素っ気なく言い放つ叔母に、天命は無表情のまま、唇をわずかに上げて微笑んだ。


「明日、デートですので。ご心配なく」


静かに食事をしていた祖母、宇宙秀子が、やわらかくも重みのある声で言った。


「天命、急がないでね。本当に好きな人と結ばれてほしいのよ」


天命は口を大きく開けて、明るく笑った。


「ご心配、ありがとうございます」


イセエビを美味しく平らげた父、宇宙天誠が、手をおしぼりで拭きながら口を開いた。


「以前、橘から話は聞いていたが……まだ冬心の面倒を見てるのか?」


「はい。これからも見ていくつもりです」


天命は迷いなく答えた。


「じゃあ、その珍しいオメガが好きなの?」


女優出身で美しい伯母の甲高い声が、天命の耳に鋭く突き刺さった。


「はい。好きです。だからこそ、面倒を見ています」


「じゃあ、京香は何なの? 冬心が好きなら、冬心と結婚すればいいじゃない」


叔母は鹿のような瞳を見開いて言った。裕福な家に育った彼女は、どこか子供っぽさの残る甘えた気質をまとっている。


「そう簡単じゃない。明星がしたこと、忘れたか」


いつもは物静かな叔父が、珍しく鋭い目つきで叔母を睨んだ。


「明星はまだ若かったのよ。だから一時の過ちであって、今では改心して、勉強にも一生懸命取り組んでるわ。もう許してあげてもいい頃じゃない?」


息子を庇う叔母の言葉に、天命はムッとした。


「でも、重い罪を犯したことには変わりない。特に彼は今も後遺症の潔癖症で苦しんでるんだ。彼の気持ちを、もっと考えるべきだよ」


叔父の辛辣な言葉に、天命の張り詰めた心が少しほぐれた。


だが――


「でも、完全にやったってわけじゃないでしょ?彼にはちゃんと補償もしたし、明星ももう反省してるのよ。だから、もういいじゃない」


叔母の軽々しい言葉に、天命の堪忍袋の緒が切れた。


「完全にやっていないって、どういう意味ですか?明星は実際に冬心の貞節を奪いました。彼は世界で唯一の極優性オメガです。日本の法網は運よく逃れたかもしれませんが、世界の法はそう甘くありません。“壁に耳あり、障子に目あり”と言うでしょう。明星を許すことはできません」


天命が語勢を強めて確執の言葉を放つと、部屋はシンと静まり返り、重苦しい空気が漂った。


食事を終えた貫禄ある祖父は、天命に向かって穏やかに語りかけた。


「冬心の面倒を見てくれるのはありがたい。あの子はいい子だ。ずっと気の毒だった。一生かけても償いきれない罪だ……。だが、結婚は許されない。同じ屋根の下に、加害者と被害者が共に暮らすことはできない。冬心は、日本で三百年以上君臨してきたピースの、唯一無二の欠点であり、最大の弱点だ。忘れるな。この秘密が明るみに出れば、我々ピースの未来は潰える」


食卓を囲む一同は、その重すぎる言葉に息を呑み、静かに頭を垂れた。


1月2日の朝、天命は京香の家を訪れ、新年の挨拶を交わしたあと、彼女を連れて郊外の別荘へと向かった。


カラリと晴れた冬空には、彩雲が勿忘草色の透明な空をやさしく飾っている。


京香は長い黒髪を垂らし、薄ピンクのフリルワンピースに、同じ色合いのベレー帽を合わせていた。


丁寧に施されたメイクのなかでも、ピンクのリップスティックがひときわよく似合っている。


天命はラフなネイビーのスマートカジュアルに身を包み、サングラスをかけていた。

全身、ブランド品のオーダーメイド。品のある装いが、彼の存在感を一層引き立てている。


キリッと直線的な眉、くっきりとした狭めの二重まぶた、通った鼻筋、濡れたような艶のある薄い唇――

そのすべてが、健康的な黄金色の肌に映えていた。


京香は、ハンサムでカリスマ性に満ちた天命の顔に見とれ、しばし我を忘れていた。


天命は運転しながら、好きな食べ物、作家、映画、音楽、趣味、運動、ブランドなど、次々と京香に質問を投げかけた。


だが、二人の共通点は、好きなファッションブランドがルイスボトンとアルナニルであることだけだった。京香もまた、天命と同じくブランド愛用者だった。


長いドライブのあいだ、彼女は静かに天命の話に耳を傾けていた。


天命は、自分の将来の宇宙事業の計画についても熱心に語った。新たに開発中の「天光電磁波環境型人工衛星」によって、マルセラ惑星の探索が可能になるという。


しかし、宇宙やロケットに関して無知だった京香には、やや難しい内容だった。それでも、微笑みを浮かべた京香は、物静かなまま、彼の話に心を寄せていた。


しつこいパパラッチを避けるため、郊外の別荘へ向かうことにしたが、まだ尾行してくる者がいた。うんざりした天命は、苛立ちを隠さず強くアクセルを踏み込んだ。


東京から離れた静岡県の別荘は、木造軸組工法による伝統的な日本家屋で、広々とした日本庭園が見事に整えられている。住み込みの使用人が6人おり、いつも庭も家も清潔に保たれている。


到着すると、門の前では管理人の中島をはじめ、5人の使用人が出迎えてくれた。荷物を中島に預けた天命と京香は、庭園を眺めながらゆっくりと居間へ向かい、お茶を飲んでひと息ついた。


やがて、厨房から中島の妻、深雪が現れ、丁寧に挨拶する。


「お待たせいたしました。お昼の準備ができましたので、どうぞお越しくださいませ」


天命と京香は、ヒノキ材で飾られた古風で落ち着きのあるダイニングルームに入り、大きな食卓に腰を下ろした。


「お口に合うか分かりませんが、どうぞごゆっくりお召し上がりください」


深雪はそう言い残し、そっと奥の厨房へと姿を消した。


食卓には、日本各地から取り寄せた旬の食材を使った料理の数々が美しく並べられている。


天命が先に箸を取り、筍とほうれん草の和え物を大きく取って口に運ぶ。その様子を見て、京香も静かに箸を手に取った。


こうして、二人きりの穏やかな食事の時間が静かに始まった。


やはり京香は、あまり多くは食べられなかった。

それでも、初めて会った時に比べれば、今回は少しは口にしていた方だ。


秘書の橘から「1月2日に天命とその婚約者が訪れる」との知らせがあった時から、使用人たちは緊張しながら準備を進めていた。特に中島深雪は、心を込めて様々な料理を用意していたのだ。


食事を終えた二人は、2階の音楽室へ向かった。天命は大きな窓際に置かれたグランドピアノの前に座り、長くしなやかな指先をリズミカルに動かして、パッヘルベルの『カノン』を優雅に奏で始める。


京香は微笑みながら、その気品ある天命の横顔をじっと見つめていた。


冬の空は日没が早く、天命が風呂から上がった頃には、窓辺の勝色のカーテンが静かに引かれていた。


京香はまだ客間の浴室に入ったまま。


天命は窓際に立ち、ゆっくりとカーテンを開ける。広がる夜空には、満天の星々が煌めいていた。そのまばゆさに、天命は思わず眉をひそめた。


ソファに腰を下ろし、ブランデーの渋くウッディな香りを楽しみながら、一口ずつゆっくりと味わう。


「冬心は、今日から仕事だったかな」そんなことを思いながら、再びグラスを口元に運んだ。


ノックの音がして、白いネグリジェを纏った清爽な京香が部屋に入ってきた。二人は、今年の5月5日に結婚することを話し合っており、すでに親しい間柄になっている。


天命は、細かい泡が華やかに弾け、薔薇の香りがふんわりと立ち上るスパークリングワインを京香に手渡す。

京香も、それを少しずつ丁寧に味わいながら口にした。


天命はそっと京香の華奢な身体を抱き寄せ、静かに唇を重ねた。

柔らかな感触がふれ合い、やがて彼の舌が京香の舌を優しく包み込む。

京香の舌は小さく震えながらも応え、二人の熱は静かに、しかし確かに絡まり合っていった。


京香の吐息が乱れ、肩がかすかに震える。

天命は彼女をそっと抱き上げ、隣の寝室へと運んだ。

広いベッドの上にそっと降ろすと、彼女の瞳をじっと見つめる。


「大丈夫?」


天命の問いに、京香は小さく頷いた。頬は上気し、長いまつげがかすかに揺れている。天命はゆっくりと、慎重に彼女のドレスに手をかけた。

布が滑るように落ち、露わになった白い肌に、彼の目がわずかに潤む。


「綺麗だ……」


京香は恥ずかしそうに目を伏せながらも、彼の手が触れるのを拒まなかった。

天命はまるで何かを確かめるように、指先で京香の輪郭をなぞり、優しく彼女を抱きしめた。


二人の呼吸が重なるたび、ゆっくりと熱が募っていく。

京香の身体は、初めて味わう感覚に包まれ、戸惑いながらも、その奥に芽生えた甘く鋭い疼きに、ただ身を委ねていった。


ほんのりと香る彼女のラベンダーのフェロモンが、部屋の空気に溶け込むように漂い、静かな温もりの中で、互いの鼓動だけが響いている。


時間が止まったかのような静けさの中、夜は深く、ただ二人だけのものとなっていく。優しく、そして時に激しく――本能と渇望のリボンは、絡まりながらも、確かに解かれていった。























  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る