いのちの詩
@Sasabo
第一章
第1話 出会い
二〇一九年九月下旬のある日、
(やれやれ、遅刻かな)
最後の患者の診察に時間がかかったからなと思いながら、研究棟入り口のドアを開ける。
東都大学医学部は広大な敷地に病院や研究棟がひしめき合って建っており、その間を縦横に走る構内の道の周りには、街路樹や緑地もあって広々としている。その中の研究棟Bは、十階建ての大きな建物で、西澤もかつては良く来ていた。
三階にある荻野研究室は、エレベーターで上がるとすぐ右だ。勝手知ったる廊下を
「久しぶりだな。相変わらず元気そうだ。今回は
教授自ら手を差し出した。それを
「先生こそお元気そうで何よりです。今回の治験は私も楽しみにしています」
と答えながら、西澤はこの教授は幾つになったんだっけと心の中で歳を数えていた。
荻野は東都大学の微生物化学科の教授だ。素晴らしい研究成果を幾つも上げており、その研究はかなり多くの新薬開発の
身なりもあまり構わないし、生活全般に渡ってかなり浮世離れしている。だが余程できた奥方なのか、家庭は至極円満と聞いている。
荻野の人柄と研究成果、それに研究員を一人一人大切に扱ってくれる態度が、全国から優秀な人材を
「相変わらず若いくせに苦虫を
と荻野は相変わらず言いたい放題だ。だがその言葉にトゲはなく、西澤は思わず苦笑してしまった。どうせこの教授には何を取り繕っても無駄だし、遠慮のない物言いがいっそ小気味良いので、西澤はこだわる気にもならず、
「そっちの方はもう
と正直に答える。荻野はくだらんと
西澤はごく若い時に一度結婚したことがあり、その後の離婚に至る経緯が未だに心の中にわだかまっていて、三十七歳になった今でも、この手の話題を嫌う。
だが不思議と荻野に言われる分にはあまり気にならなかった。多分荻野自身に全く悪気がないせいだろう。
二人が廊下のTの字になっている所を歩いている時、荻野が急に手を上げながら、
「あっ、
と脇の廊下を走っていた白衣の若者に声をかけた。その人物が近づいてくると、
「やれやれやっと捕まえた。今朝顔合わせの予定を言っておいたはずなんだが…… とにかく紹介しよう。こちらが西澤先生だ。今回の治験統括医を担当して下さる。西澤君こちらが今回の薬の開発チームのチーフで、治験の責任者でもある葵君だ」
と二人を引き合わせた。
葵氏はぼさぼさ髪で、ドスの効いたような黒っぽいレンズの眼鏡をかけた、どちらかというとやせた人物だった。眼鏡のせいでちょっと見ヤクザっぽく見えるのだが、よく見ると口許やあごの線など、何となくまだあどけない少年みたいに見えるところもあり、どうも印象がチグハグでよく分からないキャラの若者だった。葵氏は、
「よろしくお願いします」
と静かに挨拶したのだが、すぐに、
「すみません。治験の内容は少しだけ待ってもらえませんか? 飼っている微生物に餌をやらないといけませんので」
と言いだした。すぐ戻りますからと言いながら、あっという間に走り去ってしまう。
「相変わらず
荻野は苦笑いしている。
「彼、随分若そうですね。ひょっとしてまだ学生ですか?」
西澤は何げなく感じたままを
「今君の言った三つのファクターのうち、一つだけは当たっている。葵君は確かにまだ若い。普通は治験の責任者になるような年齢じゃない。だがあとの二つは間違いだ」
と言った。
「じゃ、もう彼は研究員ですか。まあチーフになるくらいだから、そうなんだろうな。でもファクターは二つしか言ってない……」
「いや根本が違っとるよ。彼じゃない。彼女だ」
「はっ?……」
西澤は絶句した。確かに葵氏は男にしてはそれほど背は高くないし、声もそんなに低くはないが、雰囲気に女性らしさが全く感じられなかった。少し長めのショートカットの髪はぼさぼさだったし、ノーメイクだし、よれよれの大きめの白衣は教授の真似か、その下の胸はあまりはっきり認識できないし、着ているものも白衣の下は地味なチェックの男物のシャツにくたびれたジーンズ、足にはぼろぼろのスニーカーときている。
それより何よりあの眼鏡が極めつけだ。サングラスのような濃い色付きレンズで、縦がやや狭く端が吊り上がって見える、ちょっと見井上陽水を思わせるようなデザインが、何とも男っぽい。
「今話題のLGBTQってやつですか?」
西澤はちょっと興味をそそられて聞いた。荻野は一瞬驚いたようだが、
「いや、本人に直接聞いたことはないが、多分違うと思う。あの風貌は、人には言えない何か深い訳があるんだろう」
荻野は一瞬考え深そうな表情をしたが、すぐに思いなおしたように、
「君に一つ頼みがあるんだが……」
と言いにくそうに切り出した。
「彼女と仕事をする時は、なるべくあの子の体調を
一緒に仕事をすればすぐ分かると思うが、彼女は物凄く仕事ができる。集中力が半端じゃないし、頭もめちゃくちゃ良い。何しろ微生物化学科の学生でありながら、合間に
大学院も普通五年のところ四年で卒業しているし、なにより新しい物を作り出すセンスが凄い。今回の治験薬も今はチームで対応しているが、開発段階では殆ど彼女一人でやっちまった位だ。
だが夢中になり過ぎると、自分の事を忘れちまうんだ。まさに寝食を忘れるってやつだ。ちっとばかり自己防衛本能が足らんのじゃないかと思う。
前科もいろいろあるんだ。この薬の開発の最終段階では、栄養失調と過労でぶっ倒れたし、どうも危なっかしくてかなわん」
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